2019年12月29日日曜日

鎌田正志《杉浦グラフィズムの快楽と呪縛—DTPの夜明け 7》


「杉浦グラフィズム」と杉浦康平氏のデザインは違います。いや、違うというよりも杉浦康平氏のデザインスタイルが、門下(杉浦事務所出身及び工作舎出身)のデザイナー諸氏によって様々に発展、変容していったもの全体を私が勝手に「杉浦グラフィズム」と呼んでいるだけの話で、そういった言葉がこの業界で流通しているわけではありませんし(但し同じようなことを考えている方は少なくないと思います)、そもそもそういった見方が正しいのかどうかも私にはわかりません。正確に言えば、そういうふうに見える、といったところだと思います。

ともあれ、本来であれば本家本元の杉浦康平氏のデザインについても書かなくてはならないわけですが、研究者でも、まして直接教えを受けたわけでもない市井のデザイナーにすぎない私にはちょっと荷が重すぎるので、そのあたりのことはネットで検索してください。たとえば神戸芸術工科大学のサイトで自由に閲覧できる論文(神戸芸術工科大学紀要「芸術工学2018」杉浦康平のアジアンデザイン研究〈ポスターと冊子を中心に〉)などは素晴らしい資料になっています。

いずれにしても「杉浦グラフィズム」が日本のブックデザインに与えたインパクトの大きさ、影響力は圧倒的だったわけで、今もってそれを越えるようなデザインムーブメントは起きていないし、たぶん越えることはできないだろうと思います。もっと言えば2000年代に入ってブックデザインを含むグラフィックデザインは退化の一途を辿っているように私には見える。あるいはグラフィックデザインは20世紀で完成してしまったようにも思えるのです。但し誤解してもらっては困るのですが、それは「紙上のデザイン」「印刷のデザイン」についての話で、「テジダルデータとしてのデザイン=メディアを横断するデザイン」はますます進化していくだろうし、新しい表現が生まれていくのだろうと思っています。書店の衰退と同時にブックデザインの衰退はもはやどうしようもない流れだと思います。

90年代初頭、書店の書籍の平台を賑わしていた戸田ツトム氏や鈴木一誌氏のブックデザインは、今ではほとんど見かけなくなってしまいました。唯一、羽良多平吉氏の雑誌ユリイカの表紙だけが異彩を放っているように見えます。もちろん祖父江慎氏は今もというか、今まで以上に引っ張りだこですが、祖父江氏のデザインはすでに「祖父江デザイン」と言っていい領域にあるわけで、「杉浦グラフィズム」という括りにはそぐわなくなっている気もします。いずれにしても今の時代、「杉浦グラフィズム」は求められなくなっているようです。何故か? 古臭い? かっこ悪い? 

戸田ツトム氏は鈴木一誌の共著「デザインの種」の中で自身のデザインについて「冷たい」と語られています。戸田氏ほどまでではないにしても「杉浦グラフィズム」には冷たさがある。論理的であろうとする感覚が冷たさとして見えてくる、というのはあると思われます。それが時代にそぐわないのか? よくわかりません。

とはいえ「紙上のデザイン」「印刷のデザイン」あるいは「ブックデザイン」が消えていくようには見えない。というかまだまだ必要とされている。ネット印刷会社の隆盛を見てもそれは感じます。つまりは大手企業による大量出版のシステムが時代にそぐわなくなっただけの話で、少部数、低コストの印刷需要は逆に増えている、ということの左証でしょう。

DTPは個人出版の可能性の道を開きましたが、スタートして20年、今のところそれが実現したようには見えません。そういった流れが生まれる前にSNSが一気に広がり、個人の表現領域と方法はもっとお手軽なものへと進化したようです。にもかかわらず「印刷としての出版」の魅力は相変わらずだと思われます。たとえば「コミケ」で販売される漫画同人誌などはすでにメジャーな出版を凌駕している。「杉浦グラフィズム」はそういった世界を進化させる可能性を今もって孕んでいるのではないでしょうか。

2019年11月29日金曜日

鎌田正志《杉浦グラフィズムの快楽と呪縛—DTPの夜明け 6》









「杉浦グラフィズム」とは杉浦康平氏のブックデザインをリスペクトしているデザイナー作品全体を包む概念です。杉浦氏本人のデザインはもとより、多くは80年代に工作舎から出版された出版物と、そこに関わったデザイナーが中心となって作り出したデザインのスタイル。それとともに杉浦康平氏の主宰していたデザイン事務所出身のデザイナーたちが制作した出版物も含んだ、独特な日本語組版のデザインスタイルを指します。

そのデザインスタイルの中心的なデザイナーの名前を思いつくままに上げると、まずはこの連載の中心となっている戸田ツトム氏、その戸田氏のライバルとも言えそうな羽良多平吉氏、その二人を繋ぐ存在としての松田行正氏、今もって人気、というかますます活躍されている祖父江慎氏…。杉浦事務所からは戸田氏と名コンビ(?)の鈴木一誌氏、大御所の中垣信夫氏、惜しくも50代で亡くなられた谷村彰彦氏、その後を引き継ぐ海保透氏、戸田氏と共に神戸工科芸術大学で教鞭をとられている赤崎正一氏などなど。これらの才能と技術に秀でた方々の作品が「杉浦グラフィズム」の中心世界を形作っていたと思います。

そのデザインスタイルを一言で言うことは難しいのですが、平面であるグラフィックデザインに「立体的な空間感覚=本の構造の視覚化」を持ち込み、なおかつ「曖昧さ」「ノイズ」「アジア的感性」を知的に組み込んでいくデザイン、とでも言えるかもしれません。

まだざっくりとしか言語化できない「杉浦グラフィズム」ですが、「DTPの夜明け」をもう少し続けていく中で考えていこうと思います。

さて前回からの続き、いよいよDTPの時代へ入っていきます。《杉浦グラフィズムの快楽と呪縛—DTPの夜明け 1》で掲載した商業誌最初のDTP紙面と言えそうな「1988年11月の『BRUTUS 192』」から半年、戸田ツトム氏はフルDTPによる書籍を刊行されました。「森の書物」です。

……本書は、ほぼ全面的にパーソナル・コンピューターによって作られた本である。文章執筆の段階から、その編集や構成、デザインそしてレイアウト、作図・写真編み撮り製版・4色カラー分解・カバー・デザイン・版下…。つまり、著者・編集者・デザイナー・印字オペレーター・製版者が関わる一連の造本作業をコンピューターによって行った。このような本の作り方は、いわゆるDTP[デスクトップ・パブリッシング]と呼ばれる。……組織性よりも個人性を尊重したDTP[デスクトップ・パブリッシング]を追求してみよう、との観点から制作された。デスクトップ、すなわち文房四方机上空間においてことの一切にけりをつけてみよう、という実用目的を至近距離に置いた試みである。……(「はじめ」より抜粋)

この「はじめに」には、その後急激になだれ込んで行くDTPシステムの問題点と夢と限界を指摘されているように感じますが、それも後々検討していきたいと思います。

「森の書物」はDTP時代を宣言したエポックメーキングな書物として大きなインパクトを持ったものでしたが、それとともにその縦長の独特な判型がその後、新しいブックデザインのスタイルとして定着していったという、面白い効果も生みだした出版物でもありました。

「森の書物」から半年後に刊行された池澤夏樹氏との共著「都市の書物」はその精度とクオリティを一気にアップさせ、その後の戸田氏のデザイン手法のさきがけとなったようですし、ペヨトル工房で「杉浦グラフィズム」を展開されていたミルキーイソベ氏が同時期にデザインされた「Macでデザイン」「Mac評判記」なども「森の書物」に似たイメージ(紙の扱い、構成、レイアウト)で制作されました。また99年に初版が発行され、今も店頭に並ぶ工藤強勝氏デザインの「編集デザインの教科書」も同様で、その内容の構成の仕方を含め「森の書物」の影響を強く感じます。




2019年9月10日火曜日

鎌田正志《杉浦グラフィズムの快楽と呪縛—DTPの夜明け 5》









誠文堂新光社の雑誌『アイデア』最新号(387号)の特集が「現代日本のブックデザイン史 1996-2020」だそうで、なかなかタイムリーな企画だなと感心しました。私が今ここで試みているテーマ《杉浦グラフィズムの快楽と呪縛》の時代の後の時代こそ、1990年代なかば以後であることは確かで、それ以前の写植が生み出した豊かな組版の世界から、どう進化したのか、あるいは退化したのか、つまりは杉浦グラフィズムの呪縛から抜け出せたのか、いまだに抜け出せないのか、大いに興味ある特集テーマだと思います。

いつまでも写植時代の豊かな組版のノスタルジーに浸っていても埒は開かないのですが、写植時代の終わりとその成果の頂点を示しているであろう戸田ツトム氏の仕事、季刊誌『GS―たのしい知識』について書いておこうと思います。GSは1984年から1988年までに全9冊刊行された批評、評論の雑誌でした。私の手元にはその中の5冊だけがあります。前回の話の続きで言えば「読みにくい」本の筆頭のように見えるデザインですが、実際はそうでもなくて、視線の動きがよく計算された、いかにも戸田氏らしい緊張感のあるクールなデザインです。とはいえ、DTPの無い時代にこのように凝りに凝ったデザインが可能であったことに驚かされますし、たぶんDTPで制作したとしても大変な作業になる作り込み方です。現在ではこのように徹底して作り込まれたデザインの本にはお目にかかれませんが、それは技術的な問題ではなくて、そういった思考、デザインが好まれないのだろうと思います。

近年では読者を挑発しない、緊張させないデザインが大勢のように見えます。古典的なスイス・スタイルのグリッドシステムが生かされている「白っぽい」ブックデザインはよく見かけますが、テキスト、タイトルはこじんまりと配置され、「白地」を活かした「巧みな」デザインは、緊張感のあるバランスを持っていても挑発的ではなさそうです。
『GS』は現在の出版物でいえば東浩紀氏の主宰する『ゲンロン』に近いものであったように思いますが、『ゲンロン』も今風のデザインをまとっているところに時代の差を感じさせます(ゲンロンの各種ブックデザインは洗練されていて、それはそれとして好きです)。

『GS』はまさにデザインで「挑発する本」であったと思います。当時ブームとして盛り上がっていたニューアカデミズムと呼ばれた「ファッションとしての知識」を牽引していた浅田彰氏、伊藤俊治氏、四方田犬彦氏ら監修者、編集者たちの意図も強く反映されていたのでしょう(もちろん、お三方とも正統な(?)知識人ですが、そういった戦略で「知」の新しい形を生み出そうとされていた)。とくに浅田彰氏は芸術評論でも注目されている方ですし、戸田氏の刺激的な著書、「断層図鑑」にも帯文を提供されるほど戸田ツトム氏のデザインへの信頼は厚かったように思われます。

そして戸田ツトム氏の名を不動のものにしたのは、『GS』とともに、その『断層図鑑』(1986年)であろうと思います。この本は前々回紹介した戸田氏自身が編集人として出版された雑誌『MEDIA INFORMATON』のコンプリート版であり最終版だともいえます。あるいはMEDIA INFORMATONの第9号にあたる写真集『庭園都市』の別バージョンとしてとらえることもできそうです。ともあれその圧倒的にノイジーな紙面は、もはや読まれることを拒絶しているかのようです。DTPの対極にある風景です。

(今回の書影は、どの本も分厚いので私がスキャニングしたものではなくネットからコピーしたものです。本文はスキャニングしたもの)

2019年9月7日土曜日

鎌田正志《杉浦グラフィズムの快楽と呪縛—DTPの夜明け 4》





折角なのでQTからもう一つ記事を紹介しておきます。65号(1986年)の奥村靫正氏の4ページに渡るインタビューです。じつはこの連載のタイトル「杉浦グラフィズムの快楽と呪縛」も、この奥村氏のインタビューが元になっていたんだと、今回あらためて気がつきました。掲載した図版は200dpiでスキャニングしてありますから、その気になれば全文読めると思いますが、連載タイトルにインスピレーションを与えてくれた部分を引用しておきます。

「…杉浦康平さんという大先生、神様がいらっしゃいますよね。だから文字にこだわっている人は皆、杉浦コンプレックスに陥っちゃって失敗するというところ行くと思うんですよね。でも、僕はある程度その辺から離れたところにずっといたから、僕の仕事に関して杉浦さんがこれはいいとかだめだとか評価できない、多分そういう仕事だと思うんです。…」

つまりこの時代、80年代の後半に杉浦グラフィズムの影響がどれほど大きかったかを、この言葉から感じ取れます。この言葉自体については奥村さんのプライドからなのか、若さゆえのいきがりだったのかはわかりませんが、ただこの言葉を発せずにはいられなかった現実が当時は濃厚だったという証ではあるわけで、当時、私自身もこの言葉に共感するものがありました。

にもかかわらず、奥村さんのデザインはMac導入後ますます日本的、アジア的な方向へ進んでいかれたように見えます。杉浦グラフィズムの影響ではないとしても、違う方向から杉浦さんと同じようにアジア的デザインへ向かわれたのが興味深く感じられました。

鎌田正志《杉浦グラフィズムの快楽と呪縛—DTPの夜明け 3》





今や写植という活字のシステムを体験した人は40代後半以上の人でしょうか。その年齢以下の人たちは名前は知っているけど実際には見たことはないかもしれないし、あるいは美術系大学や専門学校で印刷の歴史を学ぶ授業で教わったことはあるかもしれない。いずれにしても、今現在のパーソナルコンピュータによるDTPというシステムで印刷物の組版を作る以前は、写植によって組版が作られていたわけです。また、少なからず写植が生まれる以前の金属活字による組版も同時に使われていましたが、オフセット印刷という印刷技術では写植による組版のほうが制作が速く使いやすかったこともあって、一気に広がっていったようです。
しかし、実際に写植というシステムが隆盛を極めたのは1950年代終頃から1990年代の初頭までの30数年ほどで、それまでの活字の歴史に比べれば短い期間であったと思います(私は最初に勤めた極小出版社で「スピカ」という名前の写研の手動写植機を操作していました。もっと高価な写植機は入力している文字が確認できたのですが、スピカはどんな文字もただの点としてしか確認できませんでした。印字された印画紙を現像するまでどうなっているかわからなかったのです。そのせいかどうか、やたらと打ち間違えていました。もちろん印字されてしまった文字は修正が効きませんから、その文字だけ打ち出してノリで貼るわけです)。

私がDTPをするためにMacを使い始めたのは1989年の終わりからですから、写植の歴史と同じくらいの期間MacによるDTPにたずさわっているわけですし、そしてまだ当分はパソコンによるDTPが消えそうな様子はなさそうなので、DTPは写植より長い印刷の歴史を作ることになると思われます。(個人的にはすでにDTPは「終りの始まり」を迎えつつあるように感じているのですが)

前置きが長くなってしまいましたが、その写植全盛の時代、写植大手2社である「写研」と「モリサワ」が、ともに自社製品の宣伝とメセナ(企業による文化活動)を兼ねたPR誌を発行していました。写研が発行していたPR誌は「QT」、モリサワは「たて組ヨコ組」という誌名で、「QT」はA4の縦を少し短くし、郵送費を考えてか用紙も薄いコート紙。一方「たて組ヨコ組」は「QT」より若干大きめで、用紙も厚く高級感のあるマットコート紙。図版、写真も多くレイアウトも非常に凝ったものでした。PR誌は一般にはユーザーに無料で配布されるものですが、「たて組ヨコ組」は特定の書店で販売もされていたほどで、それほど制作に力が入っていたようです。では「QT」は「たて組ヨコ組」よりも劣っていたかといえばそんなことはなくて、とくにデザイナーへのインタビューは魅力的な記事が多く、記事内容を記憶しているのはむしろ「QT」の方でした。

たとえばQT69号(1987年)には戸田ツトム氏、奥村靫正氏、鈴木一誌氏の3人のインタビューが掲載されていました。最初の図版は戸田氏のインタビューが見開きで紹介されたページです。ここで紹介されている戸田氏デザインの「殺人者の科学」を私はずっと探し続けて(今であればAmazonでサクッと見つけられますが)、4、5年前に近所のBOOK OFFで手に入れたのは喜びでした。この本、もちろんDTPでなく写植で作られています。その中でも当時先端の電算写植というコンピュータ化された写植機で制作されていて、戸田氏はそのシステムを徹底的に解析して、まさに「戸田グラフィー」と呼べる世界を生み出しています(下の図版はQT66号の付録。5人のデザイナーに同じテキストを使って文庫本の見開きを作ってもらうという企画でした。ここでも電算写植につてい戸田氏はコメントを入れています。そしてこれらの方法があの衝撃的な「GS」などを生み出すわけですが、それはまた次の機会に)。

戸田氏を筆頭に、この時代のブックデザイナーのデザインは過剰過激で実験的なものが多く、「読める、読めない」「読みやすい、読みにくい」などという激論があちこちでかわされていました。いずれにせよ、80年代の後半は極論すれば「読めなくてもいい」と思わせるほどの、圧倒的な存在感のあるブックデザインがいくつも生み出されていました(それらを牽引していたのが雑誌「游」や「エピステーメー」などの杉浦康平氏のエディトリアルデザインでした)。

2019年9月1日日曜日

鎌田正志《杉浦グラフィズムの快楽と呪縛—DTPの夜明け 2》









杉浦康平、戸田ツトムといえば松岡正剛氏のオブジェマガジン「遊」のデザイン。最初にその雑誌を見たのはたぶん20代の半ばあたり、1981、82年ではなかったかと思います。コピーライターを目指していた当時の友人が工作舎で何か手伝いをしていて、「すごい雑誌がある」と見せられたのが最初だったような気がします。それ以前からその雑誌の名前は知っていたものの、何か近寄り難いものを感じていたのか、手に取ってみることはなかったように思います。(その当時、工作舎に関わっていた友人が何人かいて、その中の女性のひとりが執筆者でもあった、今では高名な博物学者の嫁になったりといろいろありましたが、それはまたいずれ)

その「遊」の創刊が1971年。臼田捷治氏の著書「工作舍物語」によれば、戸田ツトム氏が工作舎で仕事をするようになったのが1973年とあり、「遊」の7号あたりから本誌のデザインに関わられたようですが、私が戸田氏を強く意識したのは、新井敏記氏が編集及び発行人として1981年に創刊された雑誌「THE ISSUE」を手にしてからでした。「こんな無茶苦茶でかっこいいデザインをする人とはいったいどんな人なんだ?」と思っていたところに、そのデザインをしていた戸田氏が自らが編集人として、同じく1981年に隔月刊雑誌「MEDIA INFORMATON」を創刊。デザイナーが自分自身で雑誌を発行することに大変驚かされました。ちなみに新井氏の雑誌「THE ISSUE」はその後、現在ではメジャーな雑誌となった「SWITCH」へと進化していきます。

その新井氏とは友人関係の縁で何度かお会いすることがあり、どんな話をしたのかは覚えていないのですが、あるとき青山の古びたビルの、オフィスともショップともつかない不思議な、そしてかっこいい部屋でお会いすることがありました。そこにはXEROXで作られたと思しき抽象的な絵葉書が壁面に飾られていて、プライスタグも付いていたので販売されていたと思われるのですが、奥の部屋ではふたりの人が何か打ち合わせをされていて、その方たちが戸田ツトム氏と松田行正氏でした。お二人とも30代前半だっただろうと思います。(そのころ新井氏の新しく創刊する雑誌、たぶん「SWITCH」だろうと思いますが、そこに記事を書かないかと誘われたのですが、冗談だろうと思って断ったのが今となっては悔やまれますねぇ〜)

松村喜八郎《映画を楽しむ11 ―我が愛しのキャラクター列伝⑦》

斉藤一夫・一美/1982年「転校生」


 大林宜彦監督は故郷の尾道を舞台にした映画を何本も撮った。その一作目に登場した、名前が一字違いの幼馴染み。神戸に引っ越していた一美が中学3年になって尾道に戻ってきて一夫と再会し、神社の階段から転げ落ちたショックで互いの心と体が入れ替わってしまう。一美の体になってしまう一夫を演じた小林聡美が素晴らしくて、とてもチャーミングだった。女の子らしく振舞わなくてはいけないと思いながらも、男の子の地が出てしまう言動が愉快で、その演技力に感心させられたものだ。以来、今日に至るまでこの女優のファンでありつづけている。
 相手役の尾美としのりも上手ではあるのだが、変身する前の一美のキャラクターとはちょっと違うのが残念なところだ(一美は一夫に「馴れ馴れしい」と迷惑がられても「いいじゃなーい。昔からのお友達なんだもん」とまとわりつき、一夫がスカートをめくって逃げると「やっぱり一夫ちゃんだ」と喜んで後を追う活発な女の子なのに、変身してからの一美はなよなよしすぎている感があった)。
 原作の「おれがあいつであいつがおれで」は何度も映像化されてよく知られていると思うので、細かいストーリー説明は省いて、小林聡美の演技が印象的な場面をいくつか紹介する。まずは変身に気付く場面。
 鏡に映った自分の姿に驚愕し、胸に触ってみるとふくらんでいる。まさか?とスカートの中に手を入れる。
「オオッ!ない。なくなってる」
 摩訶不思議な現象を親に話しても信じてもらうのはとうてい無理。仕方なく一夫は一美、一美は一夫の家で暮らし始め、自分の家の様子を聞きに電話してきた一美に「オカマみたいな言い方すんなよ。〝ネ"とか〝ワ"とか言うのやめてくんねぇかなぁ。我ながら気色悪くてよぉ」。
 一美だって男の子の癖が抜けない一夫が不満で、「もう少し女の子らしく歩いてよ」となじる。すると、「オー」と応じて腰を振り振りしてふざけるので、一美が「もう!」。互いに今の体が気に入らない。「イヤイヤ、この手、この足、この顔大嫌い」と嘆く一美に「馬鹿野郎。俺だってなぁこの体、正直言ってそう心地良くねぇんだよ。アーアー、早く元に戻って立ちションしてぇなぁ」。
 わざと上品な女言葉を使う場面もある。神戸からボーイフレンドのヒロシが会いに来てくれるというのでウキウキしている一美に「そんなに嬉しいんでございますのぉ。あんまりベタベタしない方がよろしいんじゃないですか?」。一美は今の姿では会えないので一夫についてきてもらう。そこで出会ったのがヒロシと一緒にやってきたアケミで、この女の子が傑作なキャラクターだった。アケミは一夫のスカートの中に手を突っ込み、「ふーん、肉体は確かに一美のものだね。しかし、中身はどうやら一夫くんのようだ」。アケミは事の顛末を一美からの手紙で知らされていて、「すごいわ。これがSFだわ。私、書くわ。この体験を」と大喜びする。一夫はアケミが秘密を暴露しそうにないのでホッと安堵し、ヒロシは「あん畜生だよ」と教えられて「よーし、そんじゃ“一美”をやってくっか」。    
 この後、しとやかに一美を演じていたのに、いい雰囲気になったことに嫉妬した一美にお尻を蹴られて男に豹変してしまい、慌てて「ごめんなさーい、はしたないところを見せちゃったわ。嬉しくてつい悪ふざけしちゃったの」と取り繕う場面のおかしさ。
 ゲラゲラ笑わせてくれるからといって、この映画をコメディのジャンルに入れるのは正しくない。思春期特有の心情をきめ細かに描いた珠玉の青春映画である。しんみりさせる描写も多い。一夫の父親が横浜に転勤することを知った一美が、離れ離れになる前に自分の体を見ようとする場面は切なかった。
「見ておきたいの。ちゃんとしっかりと。私の体にさよならを言わせて」 
 一夫はためらう。変身直後は平気で胸をはだけて一美にたしなめられていたのに…。恥じらいの感情を表現した小林聡美の演技が光っていた。

安達郁子/1987年「『さよなら』の女たち」


 斉藤由貴がキラキラと輝いていた時期、大森一樹監督とのコンビで撮った青春三部作の二作目の主人公で、映画の完成度では一作目の「恋する女たち」に劣るものの、キャラクターに惚れ込んだという点では郁子ちゃんが上だ。魅力的な脇役も数多く登場する。
 札幌のタウン誌編集部でアルバイトしている大学生の郁子は、就職活動もせずノホホンと過ごしていた。そのまま就職できると思っていたからだが、経費削減を余儀なくされたため、正社員の採用を見送ると告げられて大慌て。おまけに、父親が教師を辞めて歌手になると仰天の宣言。なんで?
 父はグループサウンズのメンバーとして地元では人気があった。しかし、ファンの女の子を妊娠させたことに責任を感じ、子供が一人前になるまで収入の安定している職業に就くことにした。そのファンが母親、生まれてきた子が郁子である。
「感動的な話だわ。でも私、ちっとも感動できない」
 おまけに母親までイルカの調教師を目指すと言い出した。またまたなんで?(目を大きく見開いて驚く斉藤由貴の表情が可愛い) 夢を追う両親と違って、郁子は「父親が歌手で、母親がイルカの調教。私、普通の両親が欲しい」と嘆く現実的な女の子だ。だから、父親に同行した東京のレコード会社で、そのルックスに一目惚れしたスタッフに誘われても「結構です。今更アイドルって年齢じゃありませんから」とあっさり拒絶する。上京したついでに友人の麻理(当時、美人女優として人気のあった古村比呂)を訪ねると、同棲相手の男が出てきて宝塚へ行ったきり戻ってこないという。麻理は男と同じ小劇団で女優をしていたのだが、熱狂的な宝塚歌劇のファンだったこともあって「こんなのは私のやりたい芝居じゃない」と言って家を飛び出した。なぜか、郁子の周りは夢見る人ばかりだ。
 なかなか就職先が見つからない郁子は、気晴らしを兼ねて宝塚へ。そこで不思議な女性、淑恵(久し振りの映画出演だった歌手の雪村いづみ)に出会う。淑恵は宝塚音楽学校出身なのに歌劇団には入らず、税理士の資格を取ってタカラジェンヌ専門に税金の相談に乗っている人で、郁子と麻理を神戸の海を見下ろす山の手の古い洋館に誘う。ここを改修して3人で住もうというのだ。しかも、業者に依頼するのではなく、女3人だけで。おしゃれな洋館に住めるというのではしゃぐ麻理とは対照的に郁子はトホホである。なんとかリニューアルを終え、淑恵が「女たちの館に」、麻理が「海の見える洋館に」と言って乾杯するのに、郁子は「我々の偉大なる労働に」。どこまでも郁子はリアリストだ。
 この洋館については淑恵の両親のロマンチックなエピソードが秘められているのだが、はしょらせていただく。重要なのは、郁子が淑恵や麻理、途中から洋館暮らしの仲間に加わるタウン誌の先輩などと交流していくうちに、少しずつ変わっていくということだ。
 郁子の父親は歌手デビューを果たして評判も上々、前途有望と見られていた。それなのにまたしても夢を打ち砕かれる事態が起こる。郁子の母親が妊娠したのだ。「最後の日に寝たのがまさかなぁ…。あと20年父親やってみろ、60過ぎちまう。シナトラじゃあるまいし、60過ぎて歌手やってたらそれこそ笑い話だよ」と嘆く(今と違ってそういう時代だった)父親を郁子が励ます。
「歌ってるお父さんってとっても素敵よ。ずーっと歌って。私の弟だか妹だか知んないけど、その子にお父さんの歌聞かせてあげて」
 郁子はガチガチのリアリストではなくなっていた。生まれたばかりの赤ん坊を抱いて郁子が話しかける。
「君が20歳になる時、今度は私が40歳を過ぎてるね。その時、私はどんな女になっているかしら」
 20年後の自分を想像し、満足しているかのように見える斉藤由貴の表情が良かった。