2019年12月29日日曜日

鎌田正志《杉浦グラフィズムの快楽と呪縛—DTPの夜明け 7》


「杉浦グラフィズム」と杉浦康平氏のデザインは違います。いや、違うというよりも杉浦康平氏のデザインスタイルが、門下(杉浦事務所出身及び工作舎出身)のデザイナー諸氏によって様々に発展、変容していったもの全体を私が勝手に「杉浦グラフィズム」と呼んでいるだけの話で、そういった言葉がこの業界で流通しているわけではありませんし(但し同じようなことを考えている方は少なくないと思います)、そもそもそういった見方が正しいのかどうかも私にはわかりません。正確に言えば、そういうふうに見える、といったところだと思います。

ともあれ、本来であれば本家本元の杉浦康平氏のデザインについても書かなくてはならないわけですが、研究者でも、まして直接教えを受けたわけでもない市井のデザイナーにすぎない私にはちょっと荷が重すぎるので、そのあたりのことはネットで検索してください。たとえば神戸芸術工科大学のサイトで自由に閲覧できる論文(神戸芸術工科大学紀要「芸術工学2018」杉浦康平のアジアンデザイン研究〈ポスターと冊子を中心に〉)などは素晴らしい資料になっています。

いずれにしても「杉浦グラフィズム」が日本のブックデザインに与えたインパクトの大きさ、影響力は圧倒的だったわけで、今もってそれを越えるようなデザインムーブメントは起きていないし、たぶん越えることはできないだろうと思います。もっと言えば2000年代に入ってブックデザインを含むグラフィックデザインは退化の一途を辿っているように私には見える。あるいはグラフィックデザインは20世紀で完成してしまったようにも思えるのです。但し誤解してもらっては困るのですが、それは「紙上のデザイン」「印刷のデザイン」についての話で、「テジダルデータとしてのデザイン=メディアを横断するデザイン」はますます進化していくだろうし、新しい表現が生まれていくのだろうと思っています。書店の衰退と同時にブックデザインの衰退はもはやどうしようもない流れだと思います。

90年代初頭、書店の書籍の平台を賑わしていた戸田ツトム氏や鈴木一誌氏のブックデザインは、今ではほとんど見かけなくなってしまいました。唯一、羽良多平吉氏の雑誌ユリイカの表紙だけが異彩を放っているように見えます。もちろん祖父江慎氏は今もというか、今まで以上に引っ張りだこですが、祖父江氏のデザインはすでに「祖父江デザイン」と言っていい領域にあるわけで、「杉浦グラフィズム」という括りにはそぐわなくなっている気もします。いずれにしても今の時代、「杉浦グラフィズム」は求められなくなっているようです。何故か? 古臭い? かっこ悪い? 

戸田ツトム氏は鈴木一誌の共著「デザインの種」の中で自身のデザインについて「冷たい」と語られています。戸田氏ほどまでではないにしても「杉浦グラフィズム」には冷たさがある。論理的であろうとする感覚が冷たさとして見えてくる、というのはあると思われます。それが時代にそぐわないのか? よくわかりません。

とはいえ「紙上のデザイン」「印刷のデザイン」あるいは「ブックデザイン」が消えていくようには見えない。というかまだまだ必要とされている。ネット印刷会社の隆盛を見てもそれは感じます。つまりは大手企業による大量出版のシステムが時代にそぐわなくなっただけの話で、少部数、低コストの印刷需要は逆に増えている、ということの左証でしょう。

DTPは個人出版の可能性の道を開きましたが、スタートして20年、今のところそれが実現したようには見えません。そういった流れが生まれる前にSNSが一気に広がり、個人の表現領域と方法はもっとお手軽なものへと進化したようです。にもかかわらず「印刷としての出版」の魅力は相変わらずだと思われます。たとえば「コミケ」で販売される漫画同人誌などはすでにメジャーな出版を凌駕している。「杉浦グラフィズム」はそういった世界を進化させる可能性を今もって孕んでいるのではないでしょうか。