2019年9月10日火曜日

鎌田正志《杉浦グラフィズムの快楽と呪縛—DTPの夜明け 5》









誠文堂新光社の雑誌『アイデア』最新号(387号)の特集が「現代日本のブックデザイン史 1996-2020」だそうで、なかなかタイムリーな企画だなと感心しました。私が今ここで試みているテーマ《杉浦グラフィズムの快楽と呪縛》の時代の後の時代こそ、1990年代なかば以後であることは確かで、それ以前の写植が生み出した豊かな組版の世界から、どう進化したのか、あるいは退化したのか、つまりは杉浦グラフィズムの呪縛から抜け出せたのか、いまだに抜け出せないのか、大いに興味ある特集テーマだと思います。

いつまでも写植時代の豊かな組版のノスタルジーに浸っていても埒は開かないのですが、写植時代の終わりとその成果の頂点を示しているであろう戸田ツトム氏の仕事、季刊誌『GS―たのしい知識』について書いておこうと思います。GSは1984年から1988年までに全9冊刊行された批評、評論の雑誌でした。私の手元にはその中の5冊だけがあります。前回の話の続きで言えば「読みにくい」本の筆頭のように見えるデザインですが、実際はそうでもなくて、視線の動きがよく計算された、いかにも戸田氏らしい緊張感のあるクールなデザインです。とはいえ、DTPの無い時代にこのように凝りに凝ったデザインが可能であったことに驚かされますし、たぶんDTPで制作したとしても大変な作業になる作り込み方です。現在ではこのように徹底して作り込まれたデザインの本にはお目にかかれませんが、それは技術的な問題ではなくて、そういった思考、デザインが好まれないのだろうと思います。

近年では読者を挑発しない、緊張させないデザインが大勢のように見えます。古典的なスイス・スタイルのグリッドシステムが生かされている「白っぽい」ブックデザインはよく見かけますが、テキスト、タイトルはこじんまりと配置され、「白地」を活かした「巧みな」デザインは、緊張感のあるバランスを持っていても挑発的ではなさそうです。
『GS』は現在の出版物でいえば東浩紀氏の主宰する『ゲンロン』に近いものであったように思いますが、『ゲンロン』も今風のデザインをまとっているところに時代の差を感じさせます(ゲンロンの各種ブックデザインは洗練されていて、それはそれとして好きです)。

『GS』はまさにデザインで「挑発する本」であったと思います。当時ブームとして盛り上がっていたニューアカデミズムと呼ばれた「ファッションとしての知識」を牽引していた浅田彰氏、伊藤俊治氏、四方田犬彦氏ら監修者、編集者たちの意図も強く反映されていたのでしょう(もちろん、お三方とも正統な(?)知識人ですが、そういった戦略で「知」の新しい形を生み出そうとされていた)。とくに浅田彰氏は芸術評論でも注目されている方ですし、戸田氏の刺激的な著書、「断層図鑑」にも帯文を提供されるほど戸田ツトム氏のデザインへの信頼は厚かったように思われます。

そして戸田ツトム氏の名を不動のものにしたのは、『GS』とともに、その『断層図鑑』(1986年)であろうと思います。この本は前々回紹介した戸田氏自身が編集人として出版された雑誌『MEDIA INFORMATON』のコンプリート版であり最終版だともいえます。あるいはMEDIA INFORMATONの第9号にあたる写真集『庭園都市』の別バージョンとしてとらえることもできそうです。ともあれその圧倒的にノイジーな紙面は、もはや読まれることを拒絶しているかのようです。DTPの対極にある風景です。

(今回の書影は、どの本も分厚いので私がスキャニングしたものではなくネットからコピーしたものです。本文はスキャニングしたもの)

2019年9月7日土曜日

鎌田正志《杉浦グラフィズムの快楽と呪縛—DTPの夜明け 4》





折角なのでQTからもう一つ記事を紹介しておきます。65号(1986年)の奥村靫正氏の4ページに渡るインタビューです。じつはこの連載のタイトル「杉浦グラフィズムの快楽と呪縛」も、この奥村氏のインタビューが元になっていたんだと、今回あらためて気がつきました。掲載した図版は200dpiでスキャニングしてありますから、その気になれば全文読めると思いますが、連載タイトルにインスピレーションを与えてくれた部分を引用しておきます。

「…杉浦康平さんという大先生、神様がいらっしゃいますよね。だから文字にこだわっている人は皆、杉浦コンプレックスに陥っちゃって失敗するというところ行くと思うんですよね。でも、僕はある程度その辺から離れたところにずっといたから、僕の仕事に関して杉浦さんがこれはいいとかだめだとか評価できない、多分そういう仕事だと思うんです。…」

つまりこの時代、80年代の後半に杉浦グラフィズムの影響がどれほど大きかったかを、この言葉から感じ取れます。この言葉自体については奥村さんのプライドからなのか、若さゆえのいきがりだったのかはわかりませんが、ただこの言葉を発せずにはいられなかった現実が当時は濃厚だったという証ではあるわけで、当時、私自身もこの言葉に共感するものがありました。

にもかかわらず、奥村さんのデザインはMac導入後ますます日本的、アジア的な方向へ進んでいかれたように見えます。杉浦グラフィズムの影響ではないとしても、違う方向から杉浦さんと同じようにアジア的デザインへ向かわれたのが興味深く感じられました。

鎌田正志《杉浦グラフィズムの快楽と呪縛—DTPの夜明け 3》





今や写植という活字のシステムを体験した人は40代後半以上の人でしょうか。その年齢以下の人たちは名前は知っているけど実際には見たことはないかもしれないし、あるいは美術系大学や専門学校で印刷の歴史を学ぶ授業で教わったことはあるかもしれない。いずれにしても、今現在のパーソナルコンピュータによるDTPというシステムで印刷物の組版を作る以前は、写植によって組版が作られていたわけです。また、少なからず写植が生まれる以前の金属活字による組版も同時に使われていましたが、オフセット印刷という印刷技術では写植による組版のほうが制作が速く使いやすかったこともあって、一気に広がっていったようです。
しかし、実際に写植というシステムが隆盛を極めたのは1950年代終頃から1990年代の初頭までの30数年ほどで、それまでの活字の歴史に比べれば短い期間であったと思います(私は最初に勤めた極小出版社で「スピカ」という名前の写研の手動写植機を操作していました。もっと高価な写植機は入力している文字が確認できたのですが、スピカはどんな文字もただの点としてしか確認できませんでした。印字された印画紙を現像するまでどうなっているかわからなかったのです。そのせいかどうか、やたらと打ち間違えていました。もちろん印字されてしまった文字は修正が効きませんから、その文字だけ打ち出してノリで貼るわけです)。

私がDTPをするためにMacを使い始めたのは1989年の終わりからですから、写植の歴史と同じくらいの期間MacによるDTPにたずさわっているわけですし、そしてまだ当分はパソコンによるDTPが消えそうな様子はなさそうなので、DTPは写植より長い印刷の歴史を作ることになると思われます。(個人的にはすでにDTPは「終りの始まり」を迎えつつあるように感じているのですが)

前置きが長くなってしまいましたが、その写植全盛の時代、写植大手2社である「写研」と「モリサワ」が、ともに自社製品の宣伝とメセナ(企業による文化活動)を兼ねたPR誌を発行していました。写研が発行していたPR誌は「QT」、モリサワは「たて組ヨコ組」という誌名で、「QT」はA4の縦を少し短くし、郵送費を考えてか用紙も薄いコート紙。一方「たて組ヨコ組」は「QT」より若干大きめで、用紙も厚く高級感のあるマットコート紙。図版、写真も多くレイアウトも非常に凝ったものでした。PR誌は一般にはユーザーに無料で配布されるものですが、「たて組ヨコ組」は特定の書店で販売もされていたほどで、それほど制作に力が入っていたようです。では「QT」は「たて組ヨコ組」よりも劣っていたかといえばそんなことはなくて、とくにデザイナーへのインタビューは魅力的な記事が多く、記事内容を記憶しているのはむしろ「QT」の方でした。

たとえばQT69号(1987年)には戸田ツトム氏、奥村靫正氏、鈴木一誌氏の3人のインタビューが掲載されていました。最初の図版は戸田氏のインタビューが見開きで紹介されたページです。ここで紹介されている戸田氏デザインの「殺人者の科学」を私はずっと探し続けて(今であればAmazonでサクッと見つけられますが)、4、5年前に近所のBOOK OFFで手に入れたのは喜びでした。この本、もちろんDTPでなく写植で作られています。その中でも当時先端の電算写植というコンピュータ化された写植機で制作されていて、戸田氏はそのシステムを徹底的に解析して、まさに「戸田グラフィー」と呼べる世界を生み出しています(下の図版はQT66号の付録。5人のデザイナーに同じテキストを使って文庫本の見開きを作ってもらうという企画でした。ここでも電算写植につてい戸田氏はコメントを入れています。そしてこれらの方法があの衝撃的な「GS」などを生み出すわけですが、それはまた次の機会に)。

戸田氏を筆頭に、この時代のブックデザイナーのデザインは過剰過激で実験的なものが多く、「読める、読めない」「読みやすい、読みにくい」などという激論があちこちでかわされていました。いずれにせよ、80年代の後半は極論すれば「読めなくてもいい」と思わせるほどの、圧倒的な存在感のあるブックデザインがいくつも生み出されていました(それらを牽引していたのが雑誌「游」や「エピステーメー」などの杉浦康平氏のエディトリアルデザインでした)。

2019年9月1日日曜日

鎌田正志《杉浦グラフィズムの快楽と呪縛—DTPの夜明け 2》









杉浦康平、戸田ツトムといえば松岡正剛氏のオブジェマガジン「遊」のデザイン。最初にその雑誌を見たのはたぶん20代の半ばあたり、1981、82年ではなかったかと思います。コピーライターを目指していた当時の友人が工作舎で何か手伝いをしていて、「すごい雑誌がある」と見せられたのが最初だったような気がします。それ以前からその雑誌の名前は知っていたものの、何か近寄り難いものを感じていたのか、手に取ってみることはなかったように思います。(その当時、工作舎に関わっていた友人が何人かいて、その中の女性のひとりが執筆者でもあった、今では高名な博物学者の嫁になったりといろいろありましたが、それはまたいずれ)

その「遊」の創刊が1971年。臼田捷治氏の著書「工作舍物語」によれば、戸田ツトム氏が工作舎で仕事をするようになったのが1973年とあり、「遊」の7号あたりから本誌のデザインに関わられたようですが、私が戸田氏を強く意識したのは、新井敏記氏が編集及び発行人として1981年に創刊された雑誌「THE ISSUE」を手にしてからでした。「こんな無茶苦茶でかっこいいデザインをする人とはいったいどんな人なんだ?」と思っていたところに、そのデザインをしていた戸田氏が自らが編集人として、同じく1981年に隔月刊雑誌「MEDIA INFORMATON」を創刊。デザイナーが自分自身で雑誌を発行することに大変驚かされました。ちなみに新井氏の雑誌「THE ISSUE」はその後、現在ではメジャーな雑誌となった「SWITCH」へと進化していきます。

その新井氏とは友人関係の縁で何度かお会いすることがあり、どんな話をしたのかは覚えていないのですが、あるとき青山の古びたビルの、オフィスともショップともつかない不思議な、そしてかっこいい部屋でお会いすることがありました。そこにはXEROXで作られたと思しき抽象的な絵葉書が壁面に飾られていて、プライスタグも付いていたので販売されていたと思われるのですが、奥の部屋ではふたりの人が何か打ち合わせをされていて、その方たちが戸田ツトム氏と松田行正氏でした。お二人とも30代前半だっただろうと思います。(そのころ新井氏の新しく創刊する雑誌、たぶん「SWITCH」だろうと思いますが、そこに記事を書かないかと誘われたのですが、冗談だろうと思って断ったのが今となっては悔やまれますねぇ〜)

松村喜八郎《映画を楽しむ11 ―我が愛しのキャラクター列伝⑦》

斉藤一夫・一美/1982年「転校生」


 大林宜彦監督は故郷の尾道を舞台にした映画を何本も撮った。その一作目に登場した、名前が一字違いの幼馴染み。神戸に引っ越していた一美が中学3年になって尾道に戻ってきて一夫と再会し、神社の階段から転げ落ちたショックで互いの心と体が入れ替わってしまう。一美の体になってしまう一夫を演じた小林聡美が素晴らしくて、とてもチャーミングだった。女の子らしく振舞わなくてはいけないと思いながらも、男の子の地が出てしまう言動が愉快で、その演技力に感心させられたものだ。以来、今日に至るまでこの女優のファンでありつづけている。
 相手役の尾美としのりも上手ではあるのだが、変身する前の一美のキャラクターとはちょっと違うのが残念なところだ(一美は一夫に「馴れ馴れしい」と迷惑がられても「いいじゃなーい。昔からのお友達なんだもん」とまとわりつき、一夫がスカートをめくって逃げると「やっぱり一夫ちゃんだ」と喜んで後を追う活発な女の子なのに、変身してからの一美はなよなよしすぎている感があった)。
 原作の「おれがあいつであいつがおれで」は何度も映像化されてよく知られていると思うので、細かいストーリー説明は省いて、小林聡美の演技が印象的な場面をいくつか紹介する。まずは変身に気付く場面。
 鏡に映った自分の姿に驚愕し、胸に触ってみるとふくらんでいる。まさか?とスカートの中に手を入れる。
「オオッ!ない。なくなってる」
 摩訶不思議な現象を親に話しても信じてもらうのはとうてい無理。仕方なく一夫は一美、一美は一夫の家で暮らし始め、自分の家の様子を聞きに電話してきた一美に「オカマみたいな言い方すんなよ。〝ネ"とか〝ワ"とか言うのやめてくんねぇかなぁ。我ながら気色悪くてよぉ」。
 一美だって男の子の癖が抜けない一夫が不満で、「もう少し女の子らしく歩いてよ」となじる。すると、「オー」と応じて腰を振り振りしてふざけるので、一美が「もう!」。互いに今の体が気に入らない。「イヤイヤ、この手、この足、この顔大嫌い」と嘆く一美に「馬鹿野郎。俺だってなぁこの体、正直言ってそう心地良くねぇんだよ。アーアー、早く元に戻って立ちションしてぇなぁ」。
 わざと上品な女言葉を使う場面もある。神戸からボーイフレンドのヒロシが会いに来てくれるというのでウキウキしている一美に「そんなに嬉しいんでございますのぉ。あんまりベタベタしない方がよろしいんじゃないですか?」。一美は今の姿では会えないので一夫についてきてもらう。そこで出会ったのがヒロシと一緒にやってきたアケミで、この女の子が傑作なキャラクターだった。アケミは一夫のスカートの中に手を突っ込み、「ふーん、肉体は確かに一美のものだね。しかし、中身はどうやら一夫くんのようだ」。アケミは事の顛末を一美からの手紙で知らされていて、「すごいわ。これがSFだわ。私、書くわ。この体験を」と大喜びする。一夫はアケミが秘密を暴露しそうにないのでホッと安堵し、ヒロシは「あん畜生だよ」と教えられて「よーし、そんじゃ“一美”をやってくっか」。    
 この後、しとやかに一美を演じていたのに、いい雰囲気になったことに嫉妬した一美にお尻を蹴られて男に豹変してしまい、慌てて「ごめんなさーい、はしたないところを見せちゃったわ。嬉しくてつい悪ふざけしちゃったの」と取り繕う場面のおかしさ。
 ゲラゲラ笑わせてくれるからといって、この映画をコメディのジャンルに入れるのは正しくない。思春期特有の心情をきめ細かに描いた珠玉の青春映画である。しんみりさせる描写も多い。一夫の父親が横浜に転勤することを知った一美が、離れ離れになる前に自分の体を見ようとする場面は切なかった。
「見ておきたいの。ちゃんとしっかりと。私の体にさよならを言わせて」 
 一夫はためらう。変身直後は平気で胸をはだけて一美にたしなめられていたのに…。恥じらいの感情を表現した小林聡美の演技が光っていた。

安達郁子/1987年「『さよなら』の女たち」


 斉藤由貴がキラキラと輝いていた時期、大森一樹監督とのコンビで撮った青春三部作の二作目の主人公で、映画の完成度では一作目の「恋する女たち」に劣るものの、キャラクターに惚れ込んだという点では郁子ちゃんが上だ。魅力的な脇役も数多く登場する。
 札幌のタウン誌編集部でアルバイトしている大学生の郁子は、就職活動もせずノホホンと過ごしていた。そのまま就職できると思っていたからだが、経費削減を余儀なくされたため、正社員の採用を見送ると告げられて大慌て。おまけに、父親が教師を辞めて歌手になると仰天の宣言。なんで?
 父はグループサウンズのメンバーとして地元では人気があった。しかし、ファンの女の子を妊娠させたことに責任を感じ、子供が一人前になるまで収入の安定している職業に就くことにした。そのファンが母親、生まれてきた子が郁子である。
「感動的な話だわ。でも私、ちっとも感動できない」
 おまけに母親までイルカの調教師を目指すと言い出した。またまたなんで?(目を大きく見開いて驚く斉藤由貴の表情が可愛い) 夢を追う両親と違って、郁子は「父親が歌手で、母親がイルカの調教。私、普通の両親が欲しい」と嘆く現実的な女の子だ。だから、父親に同行した東京のレコード会社で、そのルックスに一目惚れしたスタッフに誘われても「結構です。今更アイドルって年齢じゃありませんから」とあっさり拒絶する。上京したついでに友人の麻理(当時、美人女優として人気のあった古村比呂)を訪ねると、同棲相手の男が出てきて宝塚へ行ったきり戻ってこないという。麻理は男と同じ小劇団で女優をしていたのだが、熱狂的な宝塚歌劇のファンだったこともあって「こんなのは私のやりたい芝居じゃない」と言って家を飛び出した。なぜか、郁子の周りは夢見る人ばかりだ。
 なかなか就職先が見つからない郁子は、気晴らしを兼ねて宝塚へ。そこで不思議な女性、淑恵(久し振りの映画出演だった歌手の雪村いづみ)に出会う。淑恵は宝塚音楽学校出身なのに歌劇団には入らず、税理士の資格を取ってタカラジェンヌ専門に税金の相談に乗っている人で、郁子と麻理を神戸の海を見下ろす山の手の古い洋館に誘う。ここを改修して3人で住もうというのだ。しかも、業者に依頼するのではなく、女3人だけで。おしゃれな洋館に住めるというのではしゃぐ麻理とは対照的に郁子はトホホである。なんとかリニューアルを終え、淑恵が「女たちの館に」、麻理が「海の見える洋館に」と言って乾杯するのに、郁子は「我々の偉大なる労働に」。どこまでも郁子はリアリストだ。
 この洋館については淑恵の両親のロマンチックなエピソードが秘められているのだが、はしょらせていただく。重要なのは、郁子が淑恵や麻理、途中から洋館暮らしの仲間に加わるタウン誌の先輩などと交流していくうちに、少しずつ変わっていくということだ。
 郁子の父親は歌手デビューを果たして評判も上々、前途有望と見られていた。それなのにまたしても夢を打ち砕かれる事態が起こる。郁子の母親が妊娠したのだ。「最後の日に寝たのがまさかなぁ…。あと20年父親やってみろ、60過ぎちまう。シナトラじゃあるまいし、60過ぎて歌手やってたらそれこそ笑い話だよ」と嘆く(今と違ってそういう時代だった)父親を郁子が励ます。
「歌ってるお父さんってとっても素敵よ。ずーっと歌って。私の弟だか妹だか知んないけど、その子にお父さんの歌聞かせてあげて」
 郁子はガチガチのリアリストではなくなっていた。生まれたばかりの赤ん坊を抱いて郁子が話しかける。
「君が20歳になる時、今度は私が40歳を過ぎてるね。その時、私はどんな女になっているかしら」
 20年後の自分を想像し、満足しているかのように見える斉藤由貴の表情が良かった。

鎌田正志《杉浦グラフィズムの快楽と呪縛—DTPの夜明け 1》




このメルマガ『デザインの周辺……INSIDE AND OUT』に寄稿していただいている私の恩師でもある大竹誠氏の「様々な時代の都市を歩く」から刺激を受け、私自身のデザイン史を一度振り返ってみることにしました。そこにはもうひとつ、「今の時代のデザインが面白くない」と感じるのはなぜだろう…という、自分自身の疑問への回答を探したいという思いもあります(年齢的なこともあるとしても)。

杉浦康平という、現代日本のブックデザイン、エディトリアルデザインの頂点にある巨匠への憧れ、そして杉浦氏がいなければ日本のブックデザインの景色は全く違ったものになっていただろう、圧倒的な影響力をどう言葉にできるのか。またそこを出発点として、幸か不幸か本のデザインを生業にしていきたいと本気で思ってしまった切っ掛けとしての、戸田ツトム氏の仕事とその人となりへの思いについても書き留めておきたいと思います。

内容は時系列というより、私自身にとってエポックな出来事を繋いでいくことにしました。なので話は時代を前後すると思います。デザインヘの関わりそのものは70年代の終わりからだろうと思われますが、まずは今や当然のデザイン制作システムとなっているDTP(Desktop Publishing)についての話からスタートします。

冒頭に挙げた画像は1988年11月の『BRUTUS 192』(マガジンハウス)号の記事ページです。たぶん日本で最初にMacによるDTPで作られた商業誌のカラー紙面だと思われます(最初の見開き)。使用されたコンピュータはApple Macintoch II。出力機はライノトロニック300というイメージセッター。ソフトウェアはDTPという言葉を生み出したアルダス社のページメーカー。画像は演算星組というソフトウェア会社が販売していた「電脳絵巻」から読み込まれたもの。(付け加えておくと、Macの最初の専門誌『MacLife』は1987年に創刊されていましたが、紙面はDTPではなく従来通りの電算写植による印刷工程で製作されていました。但し、注目すべきはその創刊号だか、2号だかに杉浦康平氏のインタビュー記事が掲載されていました)

その下の見開きは当時のMacにバンドルされていたマルチメディアのオーサリングソフト「ハイパーカード」についての記事です。これは今で言うところの電子書籍(当時まだその言葉は作られていなかった)の元となり、「ハイパートーク」と名付けられた簡易なプログラム言語によって、テキストや画像、音声を合成したメディアを制作することができました。これもまた私にとって強烈な刺激となって「頭の中身を全部ここに外部化することができる」などと夢想したものです(実際に初期の電子書籍の実験をこれで作っていました。1990年くらいの頃です)。

ともあれこのたった4ページの見開きページこそが、少なくとも私にとってはデジタルによるデザインの最初の出会いであり、DTPによるデザイン制作の切っ掛けとなったものです。そしてこれからちょうど1年後に全財産をはたいて最初のMac、SE/30を購入することになりました(2メガのメモリーと20メガのハードディスクで50数万円しました)。20代の最後に買うつもりが、誕生日をちょっと過ぎて30代の最初に購入したと記憶します。私は当時、寝ても覚めてもこの2つの記事を眺めていました。DTPもマルチメディア(ハイパーカード)もまるで夢の様な話で、それが現実に手に入ることの興奮は、今のiPhoneやiPadの比ではなかったのです。

それから約30年、今も相変わらずこうしてAppleのMacでキーボードを打ち続けています。大げさにいえば、Appleという特異で魅力的なコンピュータ会社を生んだスティーブ・ジョブズという存在がなければ今の自分はなかったでしょうし(良かったのか悪かったのかそこは微妙ですが)、現在のようなグラフィックデザインの風景も存在しなかったかもしれません。