2019年1月31日木曜日

松村喜八郎《映画を楽しむ 4 ―我が愛しのキャラクター列伝②》


チャーリー・バリック/1973年「突破口!」


 ドン・シーゲル監督が「ダーティハリー」に続いて放った快作の主人公である。田舎の小さな銀行ばかり狙う強盗団のボスを名優ウォルター・マッソーが演じた。なーんだ、小悪党の話か、マッソーじゃ颯爽としたアクションも期待できないなぁと馬鹿にしてはいけない。チャーリーは、多くのギャング映画に登場する主人公のように腕っぷしが強いわけではないが、したたかな図太さと卓越した頭脳がある。大金を盗めば警察が必死に捜査するから逃げ切るのは難しい。だから一攫千金の大勝負はせず、地道()に稼ぐ。それがチャーリーのポリシーだ。実際、それで成功してきたし、ニューメキシコ州のウェスタン銀行トレス・クルーセス支店にもたいした金はないはずだった。ところが、隠れ家に帰って盗んできた袋を開けてみると、入っていたのは100ドル札ばかりで、量も多い。少なくとも50万ドルはありそうだ。それなのに、テレビでは被害額が2000ドルと報じている。
 長年、裏街道を歩いてきたチャーリーはすぐにピンと来た。これはマフィアの隠しがねだ。マネーロンダリングするため国外に送金する寸前だったに違いない。えらいことになった。マフィアは絶対に諦めない。どこまでも追ってくる。知らなかったんです、お金は返しますと言ったところで許してくれる連中じゃあない。思わぬ大金を手にして単純に喜ぶ相棒ハーマン(アンディ・ロビンソン。あの「ダーティハリー」の凶暴かつ狡猾な殺人鬼〝さそりである)をたしなめるように呟く。
「奴らに裁判などない。死ぬまで狙われる。FBI10人の方がマシだ」
 さぁ、どうする。チャーリーは必死に知恵を絞る。一方、マフィアは屈強な殺し屋、モリーを差し向けてくる。優しいタフガイといった風貌だが、情報を聞き出すために車椅子の老人を平然と押し倒すような男だ。声を荒げて凄んだりしないのがかえって怖い。モリーは裏のルートを手繰って隠れ家を探し当て、まずはハーマンを血祭りにあげる。とうていチャーリーが勝てる相手ではない。倒すことができたとしても、別の殺し屋に追われる。進退窮まったチャーリーはアッと驚く一手を打つ。
 ウェスタン銀行の頭取はマフィアの一員に違いない。頭取を罠にかけてやろう。そのためには秘かに頭取と接触しなければいけない。チャーリーは、まず本店に電話を掛け、頭取の秘書がフォートという名前であることを突き止めた後、道路上で花を売っていた少年からバラを買う。これが計画の第一段階だった。チャーリーが銀行の前で見張っていると、受付の男が退社しようとする女性に「フォートさん、贈り物です」と花束を渡す。あの女だ。チャーリーはフォートを尾行して家に押し入り、頭取と連絡を取るよう迫る。実に頭がいい。
 冒頭の銀行襲撃でも頭の良さが発揮されていた。用意周到なのだ。老人に化けたチャーリーが女房の運転する車でやってきて銀行の前に停める。折悪しくパトカーに遭遇しても慌てない。駐車禁止だと告げる警官に包帯を巻いた足を見せ、小切手を換金する間だけだから見逃してくれるよう頼みこむ。警官が難色を示すと夫婦喧嘩を始める。「裏書すれば私が換金してくるのに」「これは私の小切手だ。余計な世話を焼くな。年寄りじゃない」「誰も年寄りだとは」「言ってるだろ」。本物の夫婦だから様になっていて、うんざりした警官が「もういい」と立ち去る。してやったり。
 ただ、計算違いだったのはこの警官が結構優秀だったことで、金庫を開けさせている間に盗難車であることを突き止められてしまう。なんとか逃げ延びたものの、銃撃戦で深手を負った女房は隠れ家に着く前に息絶える。ここで取り乱さないのがチャーリーの強さだ。哀しみを表に出さず、警察の目をくらませるための行動に移る。常に沈着冷静だ。ハーマンの血まみれ死体を見たときでさえ、無表情に「自業自得だ」と呟く。無慈悲とも思えるこの言葉には自分自身に向けられたような響きがあった。悪党の末路はこんなものか、自分もいずれは。女房と相棒を失っても涙を見せないからといって、チャーリーは非情な男ではない。ユーモアに富んだ人間臭い男だ。マッソーがジャック・レモンと共演した傑作コメディ「おかしな二人」や「フロント・ページ」で見せたとぼけた味わいにチャーリーの魅力がある。それが堪能できたのは、頭取と会う段取りをつけた後の秘書との絡みだ。
 ラブホテルみたいな円形のベッドに目を止めてチャーリーが言う。
「丸いベッドに寝たことないんだ。一番いい方角は?」
「気分次第よ」
「磁石は要らないか」
 この後、二人はベッドインして何度もセックスしたらしく、チャーリーに「もう寝ろ」と言われた秘書が「これで最後?南南西の方角がまだよ」。なかなか傑作なキャラクターで、「私が言うのもなんだけど、あの人は信用できないわ」と忠告するぐらいだから、頭取の裏の顔を知っているのは確かだ。それなのにチャーリーと関係を持った。男顔負けの度胸と言うべきか。可愛いところもあって、「死なないで」とチャーリーの身を案じる。普通ならしんみりした雰囲気になる場面だが、チャーリーが「なるべくな」と答えるので爆笑した。
 チャーリー・バリックという人物のユニークな個性とシーゲル監督のアクション演出の冴え(小型飛行機を車が追うクライマックスシーンがスリリング)が相まって見応え十分、ニコニコしながら劇場を出たものだ。

グロリア・スウェンソン/1980年「グロリア」


 ニューヨーク・インディーズ派の監督でもあった俳優、ジョン・カサヴェテスが手掛けた唯一の娯楽作の主人公で、愛妻ジーナ・ローランズの大姉御的な魅力を存分に引き出していた。一般受けしない映画ばかり撮っていたカサヴェテスは、その気になれば娯楽映画を撮れるのだということを証明するために「グロリア」を撮ったと語っていた。ビル・コンティ作曲のむせび泣くようなテーマ音楽に乗って、ニューヨークの夜景を空から移動撮影していく魅惑のファーストシーンに始まり、マフィアに狙われている6歳の少年を連れたグロリアの逃走劇を快調に描く手腕はお見事! これでベネチア国際映画祭金獅子賞を獲得した。一本だけと言わず、時たまこういう映画を撮ってくれないかなぁと思っていたのだが、その願いが叶わなかったのは本当に残念だ。
 グロリアがマフィアに追われる羽目に陥ったのは、最悪のタイミングで仲のいいジェリを訪ねたからだった。ジェリの夫は組織の会計係で、お金を横領したばかりか情報をFBIにたれ込んだ。それがバレて組織の手が間近に迫っているという。間違いなく私たちは殺される。せめて子供だけは助けたい。グロリアは子供嫌いなのだが、ジェリの必死の頼みを断れなかった。父親は組織の情報を書き込んだ手帳を息子のフィルに託す。万が一のときは役に立つと考えたのだろうが、むしろ危険を増大させることになった。裏切者の一家を惨殺したマフィアは、ひとり生き延びたフィルと手帳を求めて執拗に追ってくる。
 グロリアは堅気の女ではない。犯罪歴があり、ボスの情婦だったこともある。マフィアの怖さは誰よりもよく知っている。それに、預かってはみたものの、やはり子供は苦手だ。だから、一度は追い払おうとした。しかし、体にしがみつくフィルともみあっているところを発見されてしまう。「グロリア、お前に用はない。欲しいのはガキと手帳だ」と言われても、さすがにスンナリ引き渡す気にはなれない。男の仕種に危険を察知したグロリアは、いち早く銃を取り出して撃つ。やってしまった。もう後へは引けない。グロリアは逃げる。警察には行けない。ニューヨークのあらゆる場所にマフィアの目が光る中で孤立無援。頼れるのは己の才覚と度胸のみ。グロリアは「女を殺したんじゃ後味が悪い」と躊躇する男たちの先手を打つ「殺られる前に殺る」作戦で危機を乗り切っていく。レストランで数人の男を発見したときは自分から近付き、銃を突き付けて手帳を見せながら挑発する。
「これが欲しいんだろ。命が惜しけりゃ取引しよう」
「取引だと?返事はできん。タンジーニさんと相談を」
「ボスと相談?馬鹿揃いだね。あの子は私の手にある。家族殺しの生き証人よ。弾を抜いてバッグに。早く入れる!」
 地下鉄の車内で男が迫ってきたときも先手必勝だった。グロリアはいきなり男を張り倒す。カッとした男がグロリアを殴り飛ばす。驚いた乗客たちがグロリアを助け起こし、男を取り押さえる。この機に乗じてグロリアが銃を構え、「上等だ。おいで」と手招きする。男が怒りの形相でグロリアを睨む。電車が駅に着く。グロリアは後ずさりしながら電車を降り、なおも男をからかう。
「女に殴られて平気なの?腑抜け!チンピラ。消えろ!」
 そしてドアが閉まると同時に走り出す。ホレボレするカッコよさだった。なんとも男っぽいのだが、いつもおしゃれに気を配る女っぽさも素敵だ。大急ぎで家を出たのでバッグには数着の服しか入っていない。それでも上下を着回しして変化を付け、ホテルの浴室で服に蒸気を当てて皺を伸ばす。逃げるのに好都合なのにペタンコ靴は履かい。いつもハイヒールだ。そんなグロリアが次第に母性愛に目覚めていく姿が的確に描写されていて、最後はホロリとさせられる。グロリア・スウェンソン。これまでに映画で出会った最高にいい女である。

2019年1月30日水曜日

大竹誠《様々な時代の都市を歩く6 —70年代のデザインに関する話(エピソード編)》

1970年代のデザインに関する話を追加で一つ。


 大学を出て初めての仕事は美術系予備校(『御茶ノ水美術学院』)で受験生の面倒を見ること。
 デザイン系受験科目の鉛筆デッサン、ポスタカラーでの色彩構成などの課題をだす。3時間の授業中、部屋を周り、制作過程を見て、完成した作品を講評をする。講評は学生を集めて、全ての作品を掲示板に張り出し、一点一点の「良い点、悪い点」などを評してゆく。学生は真剣。こちらも熱が入る。
 数年経った頃、受験課題のマンネリ化(受験校の傾向がある)や、同じような課題講評の繰り返しが重なり、面白み、新しさが消えた。「こんなことでいいの?」。同じ感じを持った教員数人で雑談。「ならば、受験ではないクラスを作っちゃおう」となり、会議に提出。予想通り、白い目で見られたが提案は受け入れられた。
 新しいクラスは、昼間勤める人向け夜間の『基礎造形クラス』。学費は受験コース同様。学校の雑誌広告の隅にも表示してもらったが、いかんせん初めての試み。特別に「新クラス設立のチラシ」を印刷し、人通りの多い時間帯に、御茶ノ水駅前で通る人に手渡す。

初年度は6名スタート。クラスが始まってからも数人が加わる。


 6名スタートに教える側は4名と充実。細密画の立石雅夫、イラストの富田謙二郎、デザイン批評の柏木博、自称デザイナーの大竹誠。後に写真家の片山健市も加わる。このメンバーが日替わりで面倒をみた。教室は最上階の倉庫として使われていた16畳の空き部屋を活用。
 課題は、それぞれの教員が出した。したがって、毎日、異なる作品作り。「鉛筆デッサン」「色彩構成」「立体構成」「イラスト」「素材のイメージのフロッタージュ」「光源を見た後の網膜に反応する映像の表現」。
 時間とともに「写真の鉛筆模写」「写真撮影」「読書会」「シルクスクリーン印刷」が加わる。「読書会」では、ヴァルター・ベンヤミンの『複製技術時代の芸術』が使われた。読書経験も少ない学生にとって「読書会」は「目が点になる」経験。なんだかわからないけれどみんな付いて来た。「何かがある!」と。社会現象となっている「デザイン」とは「何なのか?」。その「ことば」に触れてゆく。
 3時間弱の授業時間で「やったね!」の実感をもたせたいと、時間のかかる手法は取らず、また、考えすぎないようなプログラムで対応。「既製品」の「色紙」「スクリントーン」「カラートーン」「雑誌切り抜き」「新聞広告切り抜き」「図版集切り抜き」「コピー機」を活用。
 日替わり課題では、いまいち効果が上がらない。そこで、教員が同じ課題を見る方式に変更。同じ課題を見ることで、教員それぞれの異なる評がでる。学生はその違いに戸惑う。「あの先生はこう言ったのに」「この先生は逆のことを言うんだな」と。その戸惑いも教育の一部と知らんぷり。教員相互で穴埋めなどしない。同じ課題を見るようになると、教員でもシルクスクリーン体験初めても。毎回手がける学生と同じ土俵に立つ。教える側と教わる側が混ざり出す。
 参加学生は、近隣地区に勤めている。場所がら、印刷所や建築事務所、病院などから。社会人なので「既製路線(ルーティング)」の頭の持ち主もいる。
そのような場合、既成路線からの逸脱を繰り返し繰り返す。すると「既製路線」から外れてゆくことの面白さに気づきだす。「やってもいいんだ」「やっちゃおう」と。「笑いも」出る。
 1年単位のこのクラスを出ても、何かの資格が取得できるわけではない。それにもかかわらず翌年もやってくる学生も。「留年」のような感じで、翌年の新入生の面倒を見てくれ出す。学生のような助手のような存在が生み出された。
 デッサンの経験のない学生たちに、描く楽しみを体験させたい。そこで「模写」という手法を採用。「写真の模写」。写真集から通名な写真家の写真(モノクロ)を選び、写真に5mmから10mmの縦横グリッド鉛筆で入れ。模写するケント紙にも同じグリッドを入れ、すべての姿(輪郭線)を鉛筆で写し取る。これなら誰にでもできる描法だ。写し取った輪郭線をはみ出さないように注意集中して写真のモノクロの濃淡を写してゆく。鉛筆を寝かせたり、立てたり工夫しながら。時間のかかる作業。次第に写真がケント紙の上に現れ出す(現像ですね)。絵の存在感が出てくる。うまい下手はあるけれど、写真そっくりの図像となる。達成感に満ちた学生の顔、顔!。「俺にもできる」「私にもできる」と。

「図像操作」というテーマでの課題を考案。


 「図像操作」は、デザインを構成する各種エレメント「構成」「色彩」「文字」「図像」などが、画面にどのような「効果」を及ぼすのか?を学んでみようと。「効果があるのかないのか」は、デザインを手がける上で必要条件。「会話」に強弱があり、同じ言葉でも「違った意味」あるいは「逆の意味」が生まれる。それと同じ。その仕組みを確かめようと。
 そこで、「映画広告の図像操作」。新聞記載の映画広告を切り抜いて、そのエレメント(スター写真、組写真、タイトルフォント、リードコピー)をトレシングペーパーにリライト(輪郭線模写)。広告を見ながら、「何がメインなメッセージなのか」を読み込みながら、そのメッセージを「スクリーントーン」を選んで張り込む。すべてのエレメントがシルエットとして再表現。
 情報の等価変換。いわば翻訳作業。元の広告とスクリントーン広告を見比べて、「広告の力」(文字の力、図像の力、構成の力)の判定となる。文字はスペース分の矩形表現なので伏字の羅列。大まかにデザインエスキスするための基礎レッスンとなる。表面的な表情に縛られず、「純粋な構成」を何度でも試せるようになる。
 「図像操作」で「自画像」も試みた。「自分のプロフィール写真」を相互に撮影し、その写真の「模写」。次に、「漫画」と「劇画」のスタイルを引用して、その作家の「特徴ある描法」を真似ながら、自分の顔を描いてみる。すると「ゴルゴ風」の自画像が、「西岸良平風」の自画像ができてくる。好きな漫画、劇画の引用はみなさんノリが良い。写真の模写と、漫画、劇画の3点を並べると笑いが起こる。想像もしなかった自分が、自分そっくりに劇画や漫画の場面になったから。
 「表現のスタイル」を変えれば、色々な自分が生み出せる。このシリーズはさらに発展し、「悪巧みする自分」「悩んでいる自分」「微笑んでいる自分」などなど、「ことば」をピックアップすれば、際限なく作品が生み出せる仕組みを体験。
 「シルクスクリーン」が次第にメインな表現手法に。「ニス原紙」によるシルクスクリーン。
 ケント紙に規則的なパターン(正方形の任意な分割など)を描き、パターンを見ながら版画のようにインクの付く部分と、つかない部分を色分け。そしてカッターで色の落ちる部分を切り抜き取り去る。その上にシルク版をのせて、ニス原紙をアイロンで圧着。版の完成。
 「観光絵葉書」をサンプリングして、絵葉書を構成する、図像(富士山、太鼓橋、舞妓、池、植栽など)エレメントをシルク版に「ブロッキング」(油性塗料で手書き)。
乾燥したら版を水性の途剤で覆い、ブロッキング部分を石油洗浄。その孔の開いた部分に油性塗料を入れて印刷。印刷は、一回一色。色数分の刷りを重ねてゆく。多色刷りの版画同様に色版を重ねながら次第に全体像が現れる。絵葉書の図像の組み合わせの法則のようなものが把握できてゆく。
 シルクスクリーンでは、「コラージュ」も試みた。西洋の細密図版集をあらかじめ入手。それらをめくりながら、「遠近法で描かれた教会建築」「様々な姿の人物」「花」「動物」「傘」「岩」「天使」など気に入った図像をコピーして切り抜く。切り抜いた図像を台紙に置いて、組み合わせてゆく。上になり下になり、飛び出したり隠れたり色々レイアウト。感じが掴めたら、ノリで張り込み、下図の完成。この完成図を、リスフィルムに焼き付けてから、感光剤を塗り込んだシルク版に焼き込む。次は、焼いた版の水洗。ジャージャージャーと水をかけて、光が通過した部分の感光剤を抜いてゆく。あとは版の具合を見ながら手直し。
 そして、刷りだし。細密画を組み合わせた図像なので、仕上がりの見栄えも良い。学生も嬉しそうだ。初めは一色刷り。そして、色を変えて前の図版に重ねてみる。色の違いから、ハレーションを起こしたような具合が生まれたり、版ズレが生まれたりと興味は尽きない。発見がある。予想しないことが起きる。自分で考えようとする。図版だけでは物足りない。そこで、「カレンダー」に仕立てようと、数字だけの版も作り、図版と組み合わせてゆく。アドリブがアドリブを生んでゆく。時には、ほかの人の版を自分の版に重ねることもあった。
 版権だなんて贅沢をいっていられない。新鮮な発見が継続するシルクスクリーン作業。
毎日のように、油性インクとインク落としの石油にまみれた作業であった。それだけに達成感もあった。
 「シルクスクリーン」に限らず、課題をまとめる作業も。厚口の白ボール紙でマウント額装。額装すると一人前の「作品」となる。家に帰り壁に掛けてもいいし、人にあげることもできる。デザインの展開パターンでもある。また、全ての作業を、自分でこなすことで、人に頼らずに作品を完成させる知恵も会得。いわば、セルフビルドの思考を持てるようになる。加えて、模写の丁寧さ、集中力も持てるようになった。何事も為せば成るわけだから。
 授業が跳ねると(21時すぎ)、みんなで駅近くの安酒場へ。「まいまいつぶろ」「沖縄そば」。「まいまいつぶろ」はトリスバー。のカウンターに腰掛けてダブルのウィスキー、ビールなど注文。注文に店主は首を上下するだけ。注文が通っているの?と不安になるがちゃんとでてきた。カウンターの端っこには、バラ売りタバコ。つまみは、ブリキの一斗缶の蓋を開けて皿に盛られていた。狭い店内、席がなければ、表の歩道のガードレールに腰掛けて酒を飲んだ。未成年がいてもそんなこと構わず「飲みましょうね」と。
 明大近くの酒屋では酒の箱に座り原価の酒を呑めた。遠足と称して「鎌倉」「高尾山」「奥多摩」「伊豆の美術館」へも。仕事が忙しくても、「帰りがけに、顔を見せて」がクラスの掛け言葉となる。デザインの授業だけをやるのではなく、人間としての付き合いをしようと。複数年在籍の学生たちが教室の主となる。
 70年代は、アングラ劇や名画シネマテイク、ハプニング、ロックフェスティバル、ジャズ喫茶、ディスコ、そして、デモ、学園封鎖など都市空間が賑わった。盛り上がった。
『基礎造形クラス』でも、RCサクセッションの追っかけ学生がいた。彼と共に武道館へもみんなで行った。女性軍はトイレで衣装替え。また、サボール、ラドリオ、ミロンガ、キャンドルなど純喫茶でコーヒを飲んだ。明治大学近くの酒屋で、酒ケースを椅子に、原価の酒を呑んだ。家族的な付き合いをしながらのクラスであった。当然、経営的には赤字。それでも10年あまり梁山泊のようなフリースペースが維持された。
 卒業(?)後、デザイン事務所へ行く人、編集社で写植の手習をする人、元の職場にいながら絵を描き出す人などなど、それぞれが楽しみだしたことは事実であった。

志子田薫《写真の重箱 1 —はじまりに寄せて》

 皆様、初めまして。志子田薫(しこだかおる)と申します。
 自分は別に写真のプロでも評論家でもなく、ただ世間一般の方より少し「写真」というジャンルが好きなだけの四十も半ばを過ぎた冴えない男です。
 写真展や写真集を観るのも好きですし、自身で写真を撮るのも、グループ展、企画展で展示するのも好きでして、僭越ながら個展の経験もあります。
 その関係から、有名無名を問わず様々な写真家さんたちとも親しくさせていただいております。この連載のきっかけとなった「ガード下学会」の入会も、同会の会員である写真家の飯田鉄さんからのお誘いでした。
 そんな自分が何の因果か、これから写真にまつわるよしなしごとをそこはかとなく書き綴ることになりました。

 皆さんは普段、どういう形で写真と接していますか?
 改めてそう聞かれると、ちょっと考えてしまう方もいるでしょう。
 世の中には写真が溢れ返っています。意識しなくても、身の回りにあるものです。
 デジタルカメラやスマートフォンの普及で、一億総カメラマン時代。特別な意識を持たなくても、生活の一部に写真が入り込んでいます。
 プライベートでは自撮りや○○映えな写真を撮りまくり、SNSで共有、会社ではプレゼンの資料や、送られてくるメールの添付書類にも写真が使われている。
 勿論それだけではないですね。街に出ればちょっとした広告や、店頭のPOP、屋外看板、電車の中吊り広告……
 そんな「写真」という世界が作り出している【重箱】の上の段を眺め回したり、下の段を中の段と入れ替えてみたり、隅をつついたり、中身を並べ替えてみたりしちゃいます。
 いつまで続けられるかわかりませんが、どうぞよろしくお願いいたします。



 自己紹介代わりに、自分と写真との関わりについて記しておきますね。
 そもそも自分と写真との馴れ初めは、小学校の頃からだったと思います。父親が持っていたA社の一眼レフカメラに興味を持ち、中学時代には写真部の暗室に篭ってモノクロ現像をしていました。
 高校時代には、父親にせがんでF社のオートフォーカス付き一眼レフとズームレンズを買ってもらい、その後カメラマンだった叔母から入学祝と称して使い込まれたC社のフルマニュアル一眼レフを譲り受けました。
この時点で自宅には互換性のない3社のカメラが揃うことになり、これが後々まで自分を悩ますことになります。
 高校では写真部の部長まで務めますが、とある事件をきっかけに撮影が嫌になり、そして大学受験も重なって写真の世界から遠ざかり、いつしか過去のものになっていきました。

 その後社会人になって数年経ち、デジタル一眼レフカメラの普及機が出始めた頃、元々PDA※を使うユーザーの集まりの中で特に写真が好きな仲間たちが集まって、仲間内で撮影に出かけたりしていました。
※PDA:Personal Digital Assistant (パーソナルデジタルアシスタント)の略称。一般的には現在のスマートフォンの源流となった電子手帳のようなものを指します。

 この頃は写真展を観に行く行為も、写真家と呼ばれる方々がいることもあまりよくわかっていませんでした。篠山紀信とアラーキーは知っていましたが(笑)
 というのも写真部では写真家や写真論の話はあまり出ず、和気藹々と自分たちで写真を撮っては現像することがメインだったのです。写真展も一度だけ、高校時代に顧問に連れられて正式開館前の東京都写真美術館に訪れたことはありました。ただそれは国内ではなくアメリカの風景写真が主だったので、【写真の記録性】しか記憶に残りませんでした。今観たらもっと違う発見があるでしょうね。

 そんな中、2005年の忘年会で友人が見せてくれたのが、リコーが出したコンパクトデジタルカメラ「GR DIGITAL」でした。何となく凄いカメラだという噂は知っていましたが、実際にそれを見、触らせてもらった時にものすごい衝撃を受けました。写りの良い単焦点レンズ、目の前を切り取ることだけに特化したカメラ。これこそ自分が欲しかったものだったのです。

「おいおい、GRならフィルムカメラもあるじゃないか。リコーだけじゃない。コンタックス、ミノルタなどから出た高級コンパクトカメラが一斉を風靡した時代があるだろう」と思われる方もいらっしゃると思います。はい、その通りです。しかしながら自分はちょうどその頃「写真」から離れていたのでそのブームを全く知らなかったのです。その頃学生時代からの友人が「薫ぅ〜、見てくれよ! T2買っちゃったよ! ツァイスだよツァイス! 凄いだろ〜」だとか「NikonのTi28買っちゃった! 上に付いてる針がカッコいいでしょ!」と話していましたが、写真に戻ることはないと思っていた自分にはあまり引っかかりませんでした。

 だから、GR DIGITALを見た時に、その頃の友人達が話していたことを思い出し、しかもそれがデジタルで蘇ったというのが自分の中で引き金になりました。
 GR DIGITALを買い、そこで、田中長徳と森山大道という二人の『写真家』を知ることになったのです。それと前後して、自分が今まで撮ってきた写真のジャンルが所謂スナップに入ることを知りました。二人の写真家もスナップを得意とするので、彼らの作品によって、自分はあっという間に写真の世界に引き戻されました。

 それと前後して、PDA仲間がギャラリー巡りを提案してくれ、そこで出会ったのが鬼海弘雄という写真家でした。
「ぺるそな」と題されたその写真展では、何十年と浅草の同じ場所で市井の無名な人々を正面から真っ直ぐに撮影している写真が並んでいました。
 写されている人たちの個性もさることながら、何より驚いたのは淡々とその方達を撮影して、発表し、写真集を作るという行為そのもの。そんな写真家に興味を惹かれたのです。

 氏の写真を観て、あることに気がつきました。
「発表される『写真』とは、第三者のためのものだけではない。世の中に必要とされるものだけが写真ではない」ということです。
 それまでの自分は、例えば写真部では学校の行事を撮影した記録写真はオープンにしていましたが、個人的に撮ったものは文化祭の時にしぶしぶ出しただけで、基本的には仲間内で見せ合う、言わば趣味の範疇で終えていたのです。

 写真も芸術も、趣味を超えたところに新たな道がある。
 そんな単純なことに気づかされたのでした。

 鬼海氏の写真に関しての詳細はここでは触れませんので、ご興味のある方は是非一度写真集をご覧になってください。

 そしてここから私と写真との新たな、しかも退っ引きなら無い関係性が始まったのです。
 この関係性については、文書の絡みでおいおい書くことになるかもしれませんが、このメルマガでは私個人の写真や人生を紹介するわけではありません。私が観てきた昨今の「写真」を取り巻く環境や、ちょっとした裏話などを織り交ぜながら、気になった写真展や写真集の紹介などを書こうと思います。

 それでは次号でお会いしましょう。

2019年1月24日木曜日

松村喜八郎《映画を楽しむ 3 ―我が愛しのキャラクター列伝①》

 9月から10月にかけてWОWОWが007シリーズ全24作一挙放送をやっている。最新作「スペクター」の初放送に合わせた企画で、以前にもやってくれた。シリーズのうち、気に入っている何作かは録画して保存してあるのだが、こういうことがあると、やっぱり放送を観てしまう。
 ジェームズ・ボンドというキャラクターの魅力である(とくにショーン・コネリー)。作品が面白いことが大前提ではあるものの、キャラクターに惚れ込むと何度でも観たくなるし、飽きるということがない。今後しばらくは、そんなキャラクターについて書かせていただく。ただし、ダーティハリーことハリー・キャラハンや寅さんのようなビッグネームは取り上げない。改めて書く必要もないと思うので。

デューク・ソーントン/1969年「ワイルドバンチ」


 サム・ペキンパー監督の傑作西部劇に登場する、強盗団〝ワイルドバンチ”追跡チームのリーダー格の人物である。演じたのはロバート・ライアン。かつてはワイルドバンチの仲間だった。頭のパイク(ウィリアム・ホールデン)とは気心の知れた仲である。だが、逮捕されて獄中の身となり、パイクたちを捕まえることができたら自由にしてやると約束さ
れ、追跡チームに加わった。
 冒頭、騎兵隊を装ったワイルドバンチがメキシコ国境の町に現れ、鉄道管理事務所を襲う。大量の銀貨が保管されているという情報を得ていたからだが、これは鉄道会社が仕掛けた罠で、待ち伏せしていたソーントンたちと激しい銃撃戦となり、一味は辛くも逃走する。失敗したというのにソーントンの表情はホッとしているようにも見える。パイクたちが好きだ。捕まえたくはない。それに追跡チームの連中の下品さも我慢ならない。でも、獄中生活はこりごりだ。ソーントンの心中は複雑だ。
 この後、映画の舞台は革命の真っただ中にあるメキシコに移り、武器を積んだ軍用列車の襲撃、計画を察知していたソーントンたちとの攻防戦を経て、マパッチ将軍が率いる政府軍との壮絶な戦いで終わる。パイクたちが無謀な戦いに挑んだのは、マパッチ将軍の愛人を射殺したエンジェルが捕らわれていたから(その愛人はエンジェルの恋人だった)で、死を賭して仲間を救おうとした。その男気……。ソーントンは重機関銃の引き金に手を掛けたまま死んでいるパイクに近寄り、感慨深げに見つめる。追跡しながらも、心情はいつもパイクたちとともにあったソーントン。パイクと一緒に戦って死にたかったと思っているようでもある。
 壁に背を持たせてうずくまり、動かないソーントン。そこへやってきたのはワイルドバンチの仲間だったサイクス老人。一目でワルと分かるメキシコ人たちを引き連れている。負傷してパイクたちと別行動をとっていたサイクスは、山賊と遭遇して頭になったらしい。「一緒に来ねえか?」と誘われたソーントンが微笑みを浮かべ、のっそりと立ち上がる。馬に乗って荒野の彼方に去っていくソーントンの後ろ姿から、山賊として大暴れしてパイクの後を追ったに違いないと勝手に想像した。
 20世紀初頭、滅びゆくアウトローたちを描き、スローモーションを効果的に使った斬新な演出が評判になった。それも確かに魅力的だったが、私にとってはデューク・ソーントンあってこその永遠の名作である。

フランツ・プロップ/1968年「さらば友よ」

「荒野の七人」や「大脱走」で注目され始めていたチャールズ・ブロンソンがフランスに渡ってアラン・ドロンと共演し、その人気を決定づけたキャラクターである。傭兵を生業とするプロップはアルジェリア戦争が終わり、フランス兵とともにマルセイユの港に降り立った。次の稼ぎ場所としてコンゴを考えていたプロップは、軍医のバラン(ドロン)を誘う。そっけなく断られるのだが、どうしても医者が欲しいので簡単には諦めない。そうこうするうちに、バランはパリの広告会社に出入りするようになる。表向きは社員の健康診断医、本当の狙いは、マルセイユで声を掛けてきた女が横領した債権を金庫に戻すためだった。健康診断は地下にある金庫室の隣りで行われるので、医者なら侵入しやすい。クリスマス休暇の前日、社員が全員退社していよいよ計画実行というその時、会社に忍び込んでいたプロップが現れる。
「なぜ俺に付きまとう?」
「うまい話の匂いがするんでね」
 そうプロップが言う通り、女が良心の呵責から債券を戻そうとしているのか疑わしい。金庫には休暇明けにボーナスを支給するための大金が入れられたばかりなのだ。
  ストーリーを書くのはここまでにしておく。古い映画とはいえ、巧妙に仕組まれた犯罪計画を書くのはルール違反になる。この映画の魅力は男の友情だ。
 オルリー空港で、警察が張り込んでいることを察知したプロップは、わざと騒ぎを起こして注意を惹きつけ、バランを逃がす。警察に厳しい尋問を受けてもバランのことは全く知らないと言い張り、口を割らない。話せば罪を軽減してやると取引を持ち掛けられてもなお、バランとの関係を否定する。そのしたたかさに業を煮やした警部が手を突き出し、「一発見舞ってやろうか」と脅しても「生命線が長いな」と動じない。悪党なりの仁義を貫くカッコよさに惚れ惚れした。
 プロップとバランの共犯だと確信している警部は、それとなく二人を引き合わせて反応を窺う。だが、バランはプロップを見て「誰だ?」と表情を変えることなく聞く。この後の場面が最高だった。プロップが刑事のタバコを取り上げて口にくわえる。すると、バランが近寄ってきてマッチの火を差し出す。プロップはバランの手を包み込むようにしてタバコに火をつけ、うまそうに煙を吐く。そして二人は一言も話さないまま別れるのだ。おそらくは「さらば友よ」と思いながら。映画史上に残る名ラストシーンである。
 男の友情とともに忘れられないのは、プロップが何度かやってみせる遊びだ。満々と水
を湛えたコップの中にコインを1枚ずつ落としていき、水を溢れさせずに5枚入れることに成功すれば勝ち。表面張力を利用した遊びで、プロップは慎重にコインを落としていき、成功すると「イエー」と会心の呟きを漏らす。お金を賭けているとはいえ、殺伐とした世界に生きていながら無邪気な遊びに興じるところにプロップという男の人間性が垣間見えた。
 ジャン・エルマン監督の最高作。いや唯一の成功作と言った方が適切かもしれない。イテン入れの遊びを真似した人が多かったそうで、私もやった。

2019年1月23日水曜日

大竹誠《様々な時代の都市を歩く5 —80年代を歩く(前編)―バブル時代へ向かう都市から》

「夢の島」への残土捨て


 友人の会社での建設現場仕事。改装で出た建築資材残土をトラックに満載して夢の島へ。ゴミで埋め立てられた東京湾の島へ掛け渡された虹のようなアーチ型の「曙橋」を一気に登る。見晴らし絶好。ゲートに鉄板。トラックごと積み荷を計る重量計だ。重さをチェックしゴミ捨て場へ。広大なゴミの集積地、どこへ捨てるのか何の指示もない。数台のダンプが荷下ろしするあたりへ接近。大きなダンプの横で小型のトラックの荷を下ろす。ゴミの山に尻を向け、一度、前進。そしてスピードをあげて後進し急ブレーキ。その衝撃でかなりの積み荷が落ちた。残りはシャベルで掻き落とし作業終了。→ゴミ・トラックの列は幌馬車隊のようだ。ゴミの地中に差し込まれたパイプから燃え出る炎。堆積したゴミから出るメタンガスだ。放っておけば爆発?しないように火をつけて燃やしているわけ。建物5階分の高さの山のようなゴミ。金属フェンスの網の目に吹き寄せられ、ひからび、へばりついた紙。ゴミの隙間からユラユラ揺れるビニール袋。花園のようだ。→ゴミの島の上空を低空飛行で行き交う羽田の飛行機→東京のゴミが集まり、砂漠のように何もない広大なそのゴミと戯れているという、いいしれぬ開放感→島から出る時は帰りのゲートで車両全体を自動消毒シャワー。ゴミ捨てや、資材の運搬でロープワークなど見よう見まねで会得する。

木材の産地へ


 友人の会社は十ヶ月で辞めた。300メートル先の知人の会社があった。そこへ居候する。元出版社だったが、銘木店を集めて「木材の開発」を始めていた。知人はかつて「デザイン批評」の編集者。銘木店の雑誌も制作していた。そんな筋から木材の開発を手がけていた。→開発した「置水屋」。茶室を半畳の半分サイズに圧縮した家具調。その販売が居候のお給料。「置水屋」とともに、建築用集成材の活用、木曽の檜の生き節材の活用でいくつかの地域へ。→木曽大桑村へ:天領であった木曽山林。「いたずらに木を伐ると木から血がでた」という伝説を聞く。一本の木をすべて使い切る知恵。建築用材を取る際に、多くの端材がでる。樹齢数百年の大きな木となれば、大きな節もたくさんある。節の部分はその都度切り取られ工場に山のように積まれていた。美しい赤みを帯びた「生き節」のブロックだ。それら「生き節」は、工場の暖房用に燃やされている。脂身でよく燃えるそうだ。何とかして活かせないか?「生き節」ブロック(1つが200×100mm)を平面的に集成板にして座卓の天板にすることに。工場では端材で箸も作っていた。儲かる仕事ではないが「捨てられない」。後日、「生き節座卓」が出来上がる。赤みを帯びた節がいくつも並び、美しい柄が生まれていた。天板の鉋掛けはこれまでに経験がなく難儀したそうだ。そのため斜めに鉋掛けできる刃を作ってくれていた。→静岡県掛川市の倉真木材へ:間伐材を活用した集成材のスカーフジョイント、フィンガージョイントの加工、大断面集成材、間伐材丸太の芯抜き材など実験的な素材を見る。間伐材を建築に活用するため丸太に芯を開けボルトを通して土台や桁と接合させるものだ。4メートルの丸太に穴を開けるための穴あけ機を開発していた。トンネル堀の要領で片側2メートルずつドリルで開ける方式。→長野県・松本市のシダーハウスへ:間伐材と杉皮を活用した建築の見学。間伐丸太をログハウス風に積み上げ、紡錘形の屋根には杉皮を葺いていた。断面が厚いログの壁は寒地にふさわしいとのこと。工場近くのカフェなどに使われていた。→北海道のアサダ材(桜)集成材の活用:桜材のアサダは硬く狂いが少ないので敷居などに使われていた。敷居には丸太の芯側の赤身が使われていたのだが、周囲の白太(しらた)部分は強度が若干弱く、活用に困っていた。捨てるにはもったいないとのことから、赤身と白太を薄い板にしてそれらを交互に集成してブロック板にした。集成面の接着ボンドはレゾルシノール。圧力を掛ける破断テストをすると、木部が破断してもレゾルシノール接合面は破断しないという強度。→日本建築セミナーの見学会:大学の建築学科でも主流は鉄筋コンクリート造の建築を教える時代。日本文化が長い時間をかけて育ててきた木造建築の技術の伝達が怪しくなった。危機感を抱いた人たちが集まり「日本建築セミナー」を立ち上げた。大工棟梁、文化庁職員、建築家らとつながり、連続公開講座と建物見学会が持たれた。それぞれの講師のつながりから普段では見学できない価値ある建物を訪れた。数寄屋作り、民家、社寺建築の見学。埼玉の「益田鈍翁亭」、「原三渓の三渓園」、大垣市商人の「赤坂の御殿」、高輪の「味の素記念館」、筑波での「実物民家火災実験」、浦安の民家ほか。

海外の街へ


 海外へ行ってみたくなった。練馬の借家で隣同士だった友人からネパール、インドの話を聞いていた。絵本挿絵の茂田井武が単身でヨーロッパへ行った話をなぞるように、友人はヨーロッパを半年ぐらい旅していた。パリならカルチェラタン近くのマジェラン通りに安宿があるなどなど。その友人がネパールへ行くという。格安チケットなど入手できそうだった。そこでプランを立てる。一ヶ月ぐらいかけてヨーロッパを歩こうと。勤めていた美術系予備校の海外研修枠に応募した。当選。さっそく、航空券を探す。友人のアイディアで、成田〜バンコク。バンコク〜ブカレスト。ブカレスト〜アムステルダムという分割チケット。帰りはパリ〜成田。帰路のチケットは、中野にあった明大の生協で手配。ヨーロッパ周遊の「ユーレルパス」も入手(64,400円)。荷物を登山用のアルミパイプ補強の大型リュックに詰める。靴はチロイアン。お金を入れるための腹巻を作ってもらう。写真機と40本あまりのスライドフィルム。時刻表、英語辞書、メモ用の遣れ紙の束、胃薬と風邪薬に正露丸、バンドエイドと赤チン。→家族と友人の仲間に見送られる。両替は424ドル(レートが235.55円で99,873円)。早速腹巻きに仕舞う。10月17日午後3時ごろ、成田を飛び立つ。しばらく飛ぶと、雲の塊。中央に大きな穴がある。台風を上空から見下ろした。かなりの規模のようだ。しばらくすると、イスラムの団体が祈り始めた。通路に座りコーランを唱えだす。飛行機がエジプト航空でメッカ巡礼の団体を乗せていた。→給油でマニラ空港。乗務員が開けたドアから熱風。→そして深夜のバンコクへ着陸。空港からリムジンバスで友人が手配の宿「ニューエンパイヤーホテル」へ。深夜に関わらず人、人、人、そしてバイクの群れ。充満するガソリンの臭い。路上で子供がレイを売り歩いているのが見える。逞ましい。部屋は602号室。腹が減ったのと、まずは街へと近くの市場へ。屋台食堂でシンハー(SHINGHA)ビールで乾杯し、ヌードルようなものを食べる。隣には腰に拳銃を下げるポリスも食べている。ヌードルようなものは辛い!が旨い。1時30分就寝。→2日目:7時30分起床。友人からヨガを教わる。三輪タクシー「テクテク」でバンコックの市場めぐりからスタート。急発進、キュブレーキで、しっかりとパイプを握る。→布地を売る露店があり、その横で別の人がミシン加工で仕立てている。→秤があちこちで売られている。秤を買って、持参した物資を計れば商売となるという市場都市なのだろう。子どもも働いている。マーケットで「FUSA-Bu」という梨とリンゴ味のジュース、「fun-HA-」という魚と蟹の擂り身の野菜煮を食べた。「WAT OHRA KEO」(寺院)前で、柄が木製のナイフ3本セットを買う。刃は薄く先端が雲形に反り上がっていて、柄の素材はダルギニアとのこと。川のマーケットにも行く。細長い船が店で何艘もが舫って繋がれている。その脇で子供らが濁った緑色の川に飛び込み遊ぶ。→昼下がり寺院に向かう。暑い午日照りだが、寺院の石の床に身を横たえて休息。涅槃像のように。路上を歩いていると後ろから「センセイ、センセイ」の声。ストリートガール?友人が手で払うように「いりません」。バンコクの地図を入手し、漫画、宣伝冊子など入手。表紙は4色カラーだが、他はモノクロ刷り。漫画とともに、ヌードやボクシングの粗れた写真コピーもある。無事宿に戻る。深夜に腹下り。トイレに何度も立つ。念のため正露丸。旅の疲れと、初めての食材に胃袋が驚いたか。→3日目:7時30分起床。不思議と腹の具合は回復。ヨガ。バスでマレーシアホテルへ。バスのチケットは薄い紙に図柄と1〜10までの数字が印刷されたもの。車掌さんは前に垂らした金属製のチューブのような容器の蓋のエッジでチケットに切り込みを入れる。3回乗ったが柄の色は青、オレンジ、ピンク。JAトラベルのチケットの受け取り。→成田〜バンコクのチケットはバンコク往復のチケットの帰路のチケットゆえ格安だったものを入手。その先はバンコクで手配というやり方。入手したチケットは、「BKK-ABUDHABI-BUCHAREST-EOROPE」。ちなみに成田〜バンコクが55,930円。バンコク〜ブカレスト〜アムステルダムが89,535円。宿泊したホテルが我々のチープな旅には立派すぎたので「サイアル・インターコンティネンタルホテル」へ移動。バンコクへやって来る普通の人たちが宿泊するとのこと。ホテル付近の市場でスリッパを入手。冷やしたココナツの汁を吸う。昼はビーフンスープ。我が家へハガキを出す。届くか?友人は、14時のフライトでネパールへ。私のフライトは、夜の10時45分発、ブタペスト行き。→一人になった。同じホテルに宿泊しているWさんが話しかけてきてくれる。彼は潜水してダイナマイトを爆破させる潜水工。美少女が側にいる。身体を売ろうと彼に働きかけた。だがあまりにも若いので、Wさんは、そんな気にならない。念のため、値段を聞いてみると、ジーパン1本分。それなら、俺はジーパンを買ってあげたいと、買ってあげた。それ以来、朝一番でホテルへやって来て、仕事がないときは彼の側にいるようになったそうだ。Wさんは帝國書院の世界地図を見せながら世界の旅の話をしてくれた。潜水爆破は難しい仕事だが金になる。金を貯めては世界への旅をしているのだそうだ。そして、キックボクシングを見ないかと誘ってくれた。日本料理店「新博多」で夕食をご馳走になり、会場へ。→「Ratchadamnoen Boxing Stadium」。初めてみるキックボクシング。リングの周りが背の高い金網で仕切られている。キックボクシングは賭け事。ゆえに大損などした向きが暴れ出すことを想定しているらしい。飲んだビール瓶が飛ぶかもしれないのだ。Wさんは日本の連絡先を書いてくれた後、空港までタクシーで送ってくれた。→手続きを済ませ、搭乗ゲートで待機する。とても不安。英語放送なんて聞き取れない。しかも蒸し蒸しする熱気。→目の前で、若く美しく白っぽいレースのようなワンピースを着た西洋人女性がストーンと倒れた。貧血だろうか。人が寄る。私は呆然。飛行機は無事に離陸した。一眠りした頃、深夜の窓から眺めると、あちらこちらでゆらゆら細い炎が上がっている。アブダビで給油。ドアーから軍服の作業員が入り込む。マニラよりも強烈な熱風が入り込む。あの細い炎は石油を掘り出す基地の炎だった。

2019年1月22日火曜日

大竹誠《様々な時代の都市を歩く4 —70年代を歩く―地方の都市へ、都市の祭りへ、広場論へ。そして「京島」へ》

国道を車で


 雑誌『都市住宅』(鹿島出版会)に遺留品に遺留品研究所として寄稿。題して“構えとしての表現”。そして、連載「イルテーション」の開始。「イリュージョン」(幻覚)と「ノーテーション」(記譜)を重ねて考え出した合成語。「イルテーション」のネタを探しに九州へ。→川崎からフェリー“サンフラワー号”。夜中になったころ、それまで停滞していた九州沖の台風が突如高速で動き出す。船は大揺れとなり、多くの人が酔う。魚河岸のマグロのように横たわりダウン。風呂に入るとお湯が30cmもの落差で波打つ。階段を通るにも左右の壁にぶつかる。恐る恐るデッキへ。フェリーが隠れるぐらいの大きなうねり。暗闇に船からのライトが光る。船はコースを変えて神戸港へ。→朝の食事はすべて無料、そして船長以下スタッフ全員に見送られて下船。料金はすべて返却された。しかし、神戸から九州まで、倉敷に一泊、唐津で一泊と返却された分の費用が出た。→国道沿いのドライブインの「キッチュなデザイン」。屋上に載せられた「実物の古飛行機」、「大屋根にペイントされた巨大文字・マーク」、「ドライバーの目をキャッチする巨大看板」→地方都市で出会った、「民家」、「酒屋の看板・漆喰レリーフ」、「土蔵」、「ホーロー看板」。「黄色に塗られた鳥居」。「バーバー・東京」と「サンセリフ体で書かれた看板」。「モーテル70」などロード看板。→ここでも、街の多彩、雑多な表情に圧倒され、大学で学んだことや、デザインの本から学んだことでは対応できないものがあることを知らされる→「還元不可能」性の発見。あるいは見たものをそのまま受け入れること。→しかし、“国道(準規=コードがあるだろう)”の中だけにいたのかもしれないという認識も。

相馬の「野馬追い」へ / 山林での馬追いを見る。


 街にたなびく旗、旗。旗の色や柄の斬新さ。丸あり、三角あり、雷柄あり、はねる馬あり、モダンデザインとは違う迫力→目立つこと、勢いを感じさせること、風に揺られても誰だかすぐの分かることが追求されていた→旗を背中に差し入れ馬で崖を駆け上がり、草っ原で打ち上げられた神旗の「争奪戦」は、旗が主役のはためく場であった。真夏の祭り、気温は38度を超えていた。→隣町では前夜の花火大会。花火一つ一つに「提供○○○商店」とアナウンス入りで打ち上げられる花火。地域の誉れの演出なのだった。

秩父の夜祭りへ


 3ヶ月前から秩父や近隣の街へ通いだす。祭りを前に、変容する街の空間。少しずつお化粧をしだす街。→倉から山車を出して、桐箱を開けて飾り物を組み立てる。何日にも渡っての組み立て作業→街の中に響く鳴りものの練習→「祭り用白菜」、家の障子の張り替え、練りまわる山車の侵入を防ぐための紅白のバリケード丸太の設営、サーカス小屋の設営、斎場(祭りのクライマックスで祭り屋台が集まる聖なる場)の観覧席の設営、祭り屋台をあしらった記念タバコの発売、臨時電車の時刻表たれ幕、臨時につくられたお旅所など→街に流れる秩父音頭の曲、着飾った人びと、口紅をさして鼻筋を化粧した稚児→山車の曳き回し、山車を道路中央に置き左右の民家を舞台袖にした“町民歌舞伎”→斎場に打ち上がるクライマックスの冬花火→色めく街、色めく素材、覚醒する街、一晩経っても耳に残る鳴り物の音、思わず身体が動いてしまう軽妙なリズム→劇場としての都市の有り様。

広場の調査


 よく使われている広場の条件を探しに。ジェイン・ジェイコブズの『アメリカ大都市の死と生』を台本にその視点から調査。東京都の美濃部都政の調査の一つ。→広場を囲繞する建物、施設のあり方が広場の機能に影響を与える→広場の持ち主、あるいは広場を管理する人(主体)の管理条件によって広場は生きもするし、死にもする→広場のデザインとはそのような、ありうべき活気ある広場の空間的条件、主体的条件、機能的条件のすべてをデザインすること→あるいは、新宿西口地下広場のように、利用者が「フォーク広場」として使用してしまうこと。広場という空間をつくっただけで広場となるのではないこと。→ありうべき条件の複合化→ともかく広場として見立ててどんどん使ってゆくこと、その動きを規制しないこと。動きの中から次の行動を発生させること、そのような仕掛け。

墨田区京島地区実態調査で京島へ


 一つの街を二年かけて「悉皆調査」する。すべての路地を、すべての建物を見て歩く→歩いて得たデータをマップ上に落としていく→「建物の木造・非木造分布マップ」「建物用途別業態マップ」「駐車状況マップ」「危険物貯蔵所マップ」「歩行者・自動車流量マップ」など→これらのマップ化作業によって住商工が混在し、人口密度の高い東京下町の組成を学習する→もう一つのマップ化:京島の成り立ちを、江戸時代から、明治、大正、現代までの何枚かの地形地図から読む→銀座線地下鉄工事から出た残土を湿地(浮地と呼ばれていた)に埋めた時代、関東大震災後の住宅が立て込みだす時代、奇跡的に戦災を逃れた時代、その後の過密化時代など都市のダイナミックな変化が図像として了解できる体験→そして、京島らしさの学習:「関東大震災後に越後の大工によって建てられた木造長屋」。「路地を前庭として活用する暮らし」。「老朽化した木造建築が多いゆえ、火災に対する意識が高く、煙を見て火事か焚き火かを見抜く達人もいる」。また、「たむろして煙草を吸うことがないようにと、夜間の暗闇を無くそうとする人がいる」。→街に響くめりやす織り機の音、玩具政策のプレス機の音。路地に数十ある駄菓子屋に群がる子ども。毎日、祭りのように賑わう「橘通り商店街」→地区の建物の変遷の要因:生活の拡張、開口部の修理、所有関係の変化による建物の改築。改築にふさわしい素材→木材、ブリキ、塩化ビニール波板、アルミサッシ、セメント→都市計画とはプランニングをする前に、詳細な地区の組成マップや実態調査マップをつくり、それらのマップを「読み込む」こと、あるいは「編集」することから始めなければならないことの確認。

基地の街へ


 阿佐ヶ谷のデザイン学校での「都市・記録」ゼミをスタート。学生と街へ繰り出す授業→ベトナム帰りの巨大な輸送機(「ギャラクシー」)が発着する「横田基地」。負傷兵を、戦死した兵士が送られてきている。→「アメリカンショップの並ぶ異国情緒溢れる国道16号線」。「欧文文字看板」「星条旗」→私服刑事に尾行され、チェックされた「朝霞自衛隊駐屯地」。鉄条網と監視塔。実弾入りのカービン銃を手に持つ監視。びくびくしながら駐屯地内にカメラを向ける→あっけらかんと客を誘う「横須賀ドブ板通りの女」たち。「あんたたちなんなのさ」。山口百恵の歌が生まれる前だった。手っ取り早く客が店内を探れ、入れるカーテンだけの入り口。店に並ぶスタジアムジャンパーやフラッグ。兵士の記念、土産に肖像画を描く職人画家。「絹キャンバスに溶かした蝋絵具で描いてゆく」。「絹目の艶が生っぽい」。→それらが何になるのか?わからない。わからないから歩き出した。教える側がわからないから、学生たちは一緒に問答を引き受けてくれた。同情の生まれる時間の共有。

2019年1月17日木曜日

松村喜八郎《映画を楽しむ 2 ―ちょっといい科白、ハッとする科白》

 最初にお断りしておく。今回は、和田誠さんが昔『キネマ旬報』に連載していた「お楽しみはこれからだ」のパクリです。科白を切り口にした文章とイラストが大好きだった。科白に惹きつけられた映画はたくさんある。とくに今年に入ってそういう映画が続いたので、図々しく真似させていただくことにした。

「あの子が幸せだった頃を残そうと」(「しあわせの絵の具〜愛を描く人モード・ルイス〜」)


 カナダの女流画家モードの実話。彼女の才能を見出した、ニューヨークの画商サンドラとの出会いの場面で出てくる科白だ。モードは、シチューを作るために自分が絞めた鶏の絵を描いた。なぜ? 不思議に思ったサンドラに聞かれてこう答える。
 モード・ルイスのことはこの映画で初めて知ったが、鮮やかな色彩感覚で描かれた牧歌的な風景と動物の絵には、安野光雅のような温かみがある。自分が殺した鶏を慈しむ心、それが温かさの源泉なのだと感じた。
 モードは「窓が好き。窓からさまざまな生の営みが見え、命の輝きが一つのフレームに収まっているから」とも話す。サンドラはモードの絵とともにその人柄にも惚れ込んだに違いない。「あなたの世界を描いて」と励まし、売り込みに尽力してくれた。
 若年性関節リウマチを患い、体が不自由だったモードは、両親が亡くなってから兄や親戚に厄介者扱いされていた気の毒な人である。叔母の家から逃げるようにしてやってきたモードを家政婦として受け入れてくれたのが、後に結婚するエベレット。粗野でぶっきらぼうな男だが、モードが壁に絵を描いても咎めることはなく、それがモードにとって無上の幸せだった。絵さえ描ければいい。お金はいらない。贅沢しようとは思わないという点ではエベレットも同様で、モードが画家として成功してからもつましい暮らしを変えることはなかった。ラストシーンにおける二人の会話がいい。
「また犬を飼ってみたら?」「欲しくない」
「好きでしょ?」「お前がいる」
 優しい言葉をかけたことがない武骨な男の精一杯の愛情表現。その想いはモードに十分伝わったはずだ。モードを演じているのは、奇しくも同じ頃公開されたアカデミー賞作品賞「シェイプ・オブ・ウォーター」のサリー・ホーキンス。私はこの映画の方が好きだ。

「人種差別する警官をクビにしていたら三人しか残らない」(「スリー・ビルボード」)


 黒人のことを「最近は有色人種と言い換えている」と嘯くディクソン巡査を問題視された警察署長の答えだ。どれほど人種偏見を持つ人が多いのかを端的に示していて、よどんだ町の雰囲気には名作「夜の大捜査線」を思わせるものが゛あった。ディクソン巡査を非難したのは、レイプされて殺された娘の捜査が進展しないことに苛立っているミルドレッド。映画は、彼女が寂れた道路沿いに出した3枚の巨大看板(レイプされて死亡/犯人逮捕はまだ?/なぜ?ウィロビー署長)が巻き起こす波紋を描きながら慄然とする結末へと突き進む。単純に善悪の色分けをしていないところに深みがある。ミルドレッドは黒人への差別意識のない人だが、娘を殺された悲しみと犯人への憎しみが冷静さを失わせているとはいえ、「あの広告はフェアじゃない」と署長が言うようにやることが過激で、素直に共感できない。どこか歪んでいる。ディクソン巡査は差別意識の強さに嫌悪感を抱いてしまう人物だが、正義感は人一倍強い。この二人が、レイプ犯許すまじという感情を共有し、ある行動を起こそうとするラストシーンは、静かでありながら凄まじい。
 ミルドレッド役のフランシス・マクドーマンドがアカデミー賞主演女優賞に輝いた。「ファーゴ」に続く二度目の受賞である。それなのに、あるクイズ番組でオスカー女優の名前を当てる問題が出され、この女優だけ誰も答えられなかった。顔写真を見て「スリー・ビルボード」の女優だということは分かっているのに名前が出てこない。この認知度の低さ。なんだかマクドーマンドがかわいそうになった。

「彼女」(「ナチュラルウーマン)


 なぜこの科白がいいのかと訝しくお思いだろうが、この映画の主人公マリーナは男、つまりトランスジェンダーなのだ。相思相愛だったオルランドが急死し、死因に不審を抱いた警察の事情聴取を受けることになった。警官はマリーナを「彼」と呼び、無遠慮で情け容赦のない言葉を浴びせる。疑われていることより女として扱ってもらえない屈辱。そんな時、急を聞いて駆け付けたオルランドの弟が、警官をたしなめるかのようにマリーナのことを「彼女」と言ってくれた。このさりげない優しさ。マリーナが働くレストランの女主人も偏見を持たない人で、職場に押しかけてきた刑事に詰問されているのを見かねて、客が呼んでいると嘘をついて取り調べから解放してくれる。人格すら無視されてしまうマリーナの苦しみを描く映画の中で、この二人は一服の清涼剤だった。、トランスジェンダーへの偏見に真正面から切り込んだ感動作。マリーナ役のダニエラ・ヴェガ自身、トランスジェンダーの歌手だという。きれいな人で、最初に登場した時は女性だと思った。

「良い一日ではなく、意味のある一日を」(「あなたの旅立ち、綴ります」)


 シャーリー・マクレーンが演じる嫌われ者のばあさんがDJになり、リスナーにこう語りかける。いい言葉ではないか。たとえ最悪の日だったとしても、その経験が後に生きてくるならば、普通の良い日よりも意義深いのだと教えられた。この映画については『まち歩きジャーナル』に書くつもりなので、これ以上の説明は省かせていただく。

 過去に遡れば映画の名科白はいくらでも出てくるのだが、長期連載になってしまうので止めておく。なにしろパクリなので。

2019年1月16日水曜日

大竹誠《様々な時代の都市を歩く 3 —60年代を歩く 3―ゼミのフィールドワーク〜同潤会アパート》

 「記号としての都市」というテーマで渡された大阪万国博会場(1970年)の誘導サイン計画書「方位・方向・位置」の手法を、現実の都市空間でフィールドワーク。万博会場同様、多くの人の出入りする駅のコンコース(通路)を対象に、その空間を通行する人たちにとって、手がかりとなるサイン(表示のデザイン)は、どのような状態になっているのだろうか?を探るフィールドワーク(実態調査)であった。新宿駅西口地下広場から伊勢丹デパートまでの地下連絡通路と、渋谷駅の井の頭線改札口から東急文化会館までの空中歩廊を含むコンコースが対象エリア。地下通路には暗いところ明るいところがある。では、写真家が使う「照度計」で測ってみよう。静かなところ、音がうるさいところがる。では、騒音度を測ろうと「騒音計」を借り出し計測。空気が淀み息苦しそうなところがある。では、塵埃度を測ろうと、東京ガスへ行き、「ガスマイクロメーター」を借り出して測る。あとは、目にとまるサインや看板などを写真撮影。それらデータをアメリカの環境デザイナー、ケビン・リンチが書いた、新刊本の都市分析『都市のイメージ』(1968年)を参考にしてマップ上に落とし込む。体験を基にしたイメージマップつくりだ。環境から得た体験の差が地下広場のマップ上に落し込まれた。計測することで、「空間のムラ」、「空間の癖」のようなものがあることに気づく。また、デザインされた誘導サインが、周囲の店の看板、手書きビラなどによって力負けして認識できないことなどを知る。「看板の力」だ。デザインはデスクワークだけでは成り立たない“バトル”のだ!と。現場の思考のようなものが求められているのだと確認。

 当時の新宿西口広場では、夕方になると「フォークゲリラ」の集会が開かれていた。ギターを片手に歌い出す。その周りを学生や労働者が囲み出す。輪がどんどん広がる。歌が合唱される。広場を埋め尽くす若者、そして歓声。マスコミもやってきた。地下広場でのフールドワークは、ジーンズ姿に長髪で写真を撮り、何やら計器を手にしての怪しげなものに映ったのだろう。地下にある交番のおまわりさんも巡回していて、尋問も受ける。フォークゲリラの広がりを恐れ、ある日突然、広場に、地下街の商店街組合と表示したビラ。「ここは広場ではありません。通路です。」が、あちこちに張り出された。一枚のビラで、広場の意味が通路へと変わってしまう現実。次第にフォークゲリラは追い出しにあい、広場でたむろすることが出来なくなっていく。「広場」という「言葉」、そして広場を広場として活用する「実践」の重みを感じ取る。

 都市の空間を原初的要素で研究するフィリップ・シール(ペンシルバニア大学)さんとの出会い。新宿地下広場・渋谷駅コンコースのフィールドワークを見てもらい、若干のディスカッション。会場は六本木の国際文化会館だった。お土産に、フィリップ・シールさんの最新レポート「空間の構成の原理」のコピーをもらう。報告書を手に、「じゃ〜訳してみるか」と、その連続的読書会が始まる。練馬のアジトに夜な夜なメンバーが集まる。ジャズレコードを聴き、「ビリー」というインドのタバコを吸う。ビリーは聴覚を鋭敏にさせた。そして空間の認識のされかたを議論。何かがつかめるかもしれないと。
*ゼミから遺留品研究所設立

 卒業した一年目、東京都の防災都市計画の防災拠点6地区でのフィールドワーク。就職した者、大学院生になった者、フー太郎のゼミメンバーと『遺留品研究所』なるものを設立。現場に落ちている「ブツ」を拾い、被害者像、犯人像を推理する「遺留品」から、その名を借りた。初めての仕事が舞い込んできた。東京都の江東地区防災拠点計画6地区での避難時における避難誘導の環境を実態調査するもの。新宿駅、渋谷駅でのサイン環境のフィールドワークの実績(?)があったことによる。まずカメラを手に入れることに。カメラならニコンF!。写真に詳しい学友に新宿の花園神社近くの割引販売所を聞き現金を持って参上。倉庫のような販売所で手にした一眼レフニコンFはずしりと重かった。フィールドワークの武器になるぞ!。6地区を歩く。北から「北千住」「白髭」「錦糸町・両国」「大島・平井」「木場」「四ツ木地」だ。避難道路を歩き、歩く方向に向かって、定点観測的に前進して撮影。道路に沿って連続する街並みを平行移動しながら撮影。交差点ではそれぞれの道のパースペクティブを撮影。住んでいる人にとって避難の際に目星にできるランドマークとなるであろう対象の撮影。「煙突、大看板、十字路、大きな樹木、神社、鳥居、大きな建物、階段、橋、堤防」などだ。プリントした連続写真は建物のスカイラインの形(輪郭線)で切り取る。目印となると予想される対象もその部分だけを切り抜くなどして台紙に貼りこむ。台紙に貼られた街のファサード(外観)を眺めながら、どんなことが読み取れるのかを議論してゆく。背景から切り抜かれたファサード写真は、街での生な体験に近いもの。生な体験は「刺激」に満ちていた。さまざまな「刺激」の重なりとして街は成り立っているのではないか?。フィールドワークで得たデータを、マップ上に表現することに。問屋街浅草橋の装飾店を覗いて、蛍光色ビニールテープや長さ10cmあまりにマチ針、プラスチック棒などを購入。それら素材を使って、拡大した都市計画白図上に、避難ルート上の刺激物(環境データ)を差し込んでゆく。針に刺し込まれた「刺激物(データ)」の多い場所は、それだけ避難の際に拠り所となる対象が多くなり、少ない場所は、何かを補てんしたほうがよい場所となる。昆虫採集の標本箱同様、針に刺された標本(刺激物)は一つの表現となるのではないか。切り抜いた写真を改めてボールペンでスケッチなどして確かめたりもした。それらの作業から『パニック’70』という手書きの報告書として書きあげる。B4版の原稿用紙200ページぐらいだった。コピーがなかったので青焼き(ジアゾ式)で複写。分厚く重い報告書。

 6地区を歩くなかで、多くの発見、出会いがあった。千住・白髭地区では、鐘淵紡績の社宅に出会う。戦後建てられた古い南京下見板張りの木造建築群。「平」の社員用は長屋。「部長クラス」は瀟洒な住宅。向島の「鳩の街」や「玉ノ井」の“墨東綺譚”(永井荷風著)の街に突然迷い込む。既に廃屋も多かったが、「遊興の建築」の異国情緒というか奇っ怪な建物を前にシャッターを切る。「遺跡」を発見したような興奮を覚える。“極細タイル”“柄タイル貼り”“縦長姿だけ窓”“モルタル円柱列”“モルタルコーニス”“OFF LIMITの文字”“とおり抜けられますの看板”“アラベスク調の街路灯“。平井の街の”アタラシヤ“の看板。高さ1mの大きなカタカナ極太明朝体。文字の所々はペンキが剥がれて劣化している。クロームイエローのベタ地に黒文字。その鮮明さ!。店頭には荒物が陳列されぶら下がる。「新しい店」なのか?「新(あたらし)さん」なのか?「新しいものを売る店」なのか?。数ヶ月後時間また見に行くと、新たにペンキ塗りされていた。なんと!元の通りに!!!。街に欠かせないランドマークとなっているのだ。千住の道路の上空を横断する何本ものガス・パイプとその表面にペイントされた“危険”表示の文字。ガスの流れを示す矢印。街は危険がいっぱい。大島の広々としたコンクリート堤防、護岸、水門。アール・デコ風の水門もあった。それぞれの街をにぎわす看板。町工場の独特な素材感(チープなトタン板、スレート波板)と煙突。様々な表情を見せる街の建築。「街から学ぶ」を自分たちの学習のスタイルに位置づける。

「同潤会アパート」のある街へ


 防災拠点の対象の街を歩いていて、「同潤会横川アパート」「同潤会清砂アパート」「同潤会住利アパート」に出会う。堅牢な鉄筋コンクリート建築アパートだ。関東大震災の劫火で焼き払われた土地に、願いを込めて建てられた復興のシンボル。以来、同潤会アパート探訪の寄り道を重ねる。「東上野の同潤会アパート」「代官山の同潤会アパート」「江戸川橋の同潤会アパート」も。さらなる寄り道から「町屋の都営住宅」、巣鴨の「西巣鴨都営住宅」と出会う。関東大震災後に建てられた「町屋の都営住宅」の、軒出の長い分厚い外廊下、ごついゴミ落としダクト、コーニスのある建物ゲート、その外廊下がつくる真っ暗闇のような影。住まい込まれた空間、素材感、圧倒的な存在感。コンクリートの素材感、太い構造柱、分厚いスラブ、ほどよいサイズで包み込まれた中庭と階段、中庭の人工テラゾー製滑り台と洗い場。回廊。共同の洗濯場、銭湯、つるつると光る階段と手摺などなどに圧倒される。「代官山」「江戸川橋」「清砂町」「東上野」「横川」の「生きられた」住まい。それぞれ、ベランダや台所・浴室の開口部で多彩な増改築が行われている。暮らしは日々日々変容しているのだ。過激な経年変化の相貌。「出窓改装」「ベランダ部屋改築」「植栽ボックス」「建具の色彩化」。セルフビルドの痕跡。暮らしの痕跡を残せることの発見。「建築の発酵」。イタリア映画“ネオ・レアリズモ”の現場に居合わせた感覚。使いこまれていく建物の美しさ。この他にも街からgetしたものたちが身の周りに「フジツボ」のように張付き増えてゆく。

2019年1月10日木曜日

松村喜八郎《映画を楽しむ 1 ―深夜食堂」からの連想ゲーム》

新田橋とレトロ交番


 画面が赤い橋の架かる街のロングショットになった瞬間、オヤッと思った。似ている。橋を渡ってくる二人の女性を正面から捉えたアングルに切り替わったところで確信した。木場の新田橋だ。この地で開業していた新田清三郎医師が昭和7年、不慮の事故で亡くなった夫人の霊を慰める〝橋供養”の意味を込めて架けた橋で、当初の名称は新船橋。新田橋と呼ばれるようになったのは、この医者が「木場の赤ひげ先生」として慕われていたからだ。現在架かっているのは2代目で、最初の橋は富岡八幡宮裏手の八幡堀遊歩道に保存展示されている。
 この橋が出てくる映画は、新宿某所で深夜0時から朝7時くらいまで営業する「めしや」に集う人たちの人情劇「続・深夜食堂」。食堂の近くにある交番が随分古風で、これは月島のもんじゃストリートに残っている都内最古の交番に似ていた。松岡錠司監督は、昭和的な路地裏の雰囲気を際立たせる造形として、月島のレトロな交番を参考にしてセットを造ったのだろう。
 自分の好きな場所が登場するのはうれしいもので、それだけで満足度が上がる。映画には知らない場所に連れて行ってくれるという楽しみもある。とくに洋画の場合はそうだ。忘れられないのは、ジョージ・クルーニー主演「ラスト・ターゲット」の舞台、イタリアのカステル・デル・モンテだ。城塞のような建物が山間に並ぶ景観に溜息が出た。中世に建てられたものだという。何者かに狙撃されたクルーニーは、敵の正体が判明するまでこの街に身を潜めるのだが、その静かな佇まいが孤高の暗殺者の心情と重なり合って魅了された。

豚汁、焼うどん、焼肉定食等々庶民の味


「続・深夜食堂」には当然のことながら食事の場面が度々出てくる。映画で見た料理に舌鼓を打つ人は多いようで、それも映画の楽しみと言っていいのだろうが、私はあまり関心がない。それでも「めしや」のマスター、小林薫が「できるもんなら何でも作るよ」とお客の注文に応える料理は、庶民的なものばかりなので顔がほころんだ。タラコを焼く場面のクローズアップでは、タラコを長いこと食べていなかったこともあって、うまそうだなぁと思ったものである。
 食事のシーンでよく覚えているのは「大統領の料理人」だ。フランスの田舎町で小さな店を営んでいた女性シェフが大統領専属のシェフになった実話の映画化である。カトリーヌ・フロが演じるシェフが、窮屈なしきたりに難儀しながらも大統領に喜んでもらえる料理づくりに奮闘する。数々のフランス料理は全く記憶にないが、大統領が一人で厨房にやってきて、フロと語りながら食事する場面は印象的だった。大統領がおいしそうに食べたのはトリュフを乗せただけのパンだ。本当は自由に好きなものを食べたいのに、健康管理を第一とする側近たちのせいでそれができない。しばしの間、素朴な食事とフロとの会話に癒される姿に大統領であるが故の孤独が滲み出ていた。ヒッチコックの「フレンジー」で、スコットランド・ヤードの警部がサンドイッチを実においしそうに食べる場面も忘れ難い。フランス料理に凝っている奥さんに毎晩、奇妙な料理を出されて閉口しているので、ありふれたサンドイッチがことのほか美味なのだ。二本とも食事の場面で登場人物の心情を浮かび上がらせていた。

喪服の女と白いドレスの女刑事


「続・深夜食堂」は三篇のエピソードで構成されていて、最初のエピソードの主人公は出版社の編集者、範子。偶然にも通夜帰りの常連客が相次いだ日、喪服を着た範子がやってくる。他の客と違って誰かが亡くなったわけではない。範子は仕事のストレスがたまると、喪服姿で街を歩いて気分転換しているのだった。相当風変りな女だ。「めしや」の2階で張り込みする女性刑事もヘンテコだった。なんと白いドレス姿! 相棒の年配刑事に「お前、なんて格好してるんだよ」と呆れられ、「友だちの結婚式だったんですけど。非番なのに呼び出しといて何ですか、その言い草は」と切り返す。着替えに戻る時間を惜しんですぐ駆けつけたのだから仕事熱心とは言えるが、それにしてもネェ。インパクトが強すぎて、映画におけるファッションに興味のない私でも二人の服装は記憶に残った。
 つい最近、WOWOWで再見したフランスのラブコメ「おとなの恋の測り方」のヒロインは、場面ごとにさすがパリジェンヌと思わせる着こなしをしていて、女性はうっとりしたと思うのだが、全く覚えていなかった。「続・深夜食堂」は、服がしっかり脳裏に刻まれている例外的な映画である。もっと強く印象に残っているのは「ガール」の麻生久美子だ。アラサー女子4人の友情と仕事や恋の悩みを描いたこの映画で、麻生久美子は課長に昇進したばかりの聖子を演じた。自分より年下の女性が上司になったことが気に入らない今井という男性社員に反抗的な態度を取られ、家に帰って「ケツの穴の小さい奴だ」と罵りながらも何とか耐えていたが、重要な報告すらせずにプロジェクトを進めていることを知って、ついに怒り爆発。威圧感があることを気にして避けていた白いスーツを着て出社し、今井にコイントスの勝負を挑む。負けた方が会社を辞めるという条件だ。「選ばせてあげる。表?裏?決めなさいよ、男なら」と決断を迫り、たじろぐ今井を「女と仕事するのが嫌なら土俵で暮らしなさい」と一喝する。胸のすくカッコよさだった。以来、白いスーツを着た女性を見かける度に麻生久美子の聖子を思い出す。

魅力的な脇役のオンパレード


「ガール」では聖子の親友の先輩を壇れいが演じていて、そのキャラが強烈だった。「いくつになっても女でいたい」というポリシーを持ち、ど派手なファッションとキャピキャピガール的な言動で顰蹙を買っている年増OLだ。こういう愉快な脇役が登場する映画はいい。実は「続・深夜食堂」について書くことにした一番の理由は、魅力的な脇役が数多く登場するからだ。「あと何回晩飯食えるか分からねぇから忘れねぇように」と、食べたものをノートに書き留めるじいさん、15歳も年上の女と結婚しようとしている息子のことを嘆く蕎麦屋の女将に「僕は還暦過ぎた女性でないと燃えないですけどねぇ。あの皮膚の頼りなさがまたひとしおで」とヘンタイ発言する男、「人って答えを出さないまま漂っていたいときがあるのよねぇ。ああ、私も漂いたい」とマスターを色っぽい目で見つめる料亭の女将etc。中でも、レトロ交番に登場する関西弁のおねえちゃんは最高だった。オレオレ詐欺に引っかかって福岡から上京してきたおばあちゃんを自宅に泊めてあげている優しい女の子に、痴呆症かもしれないから親族に迎えに来てもらうことはできないかと相談され、警官が難色を示しているといつの間にか女の子が二人立っている。一人は警官を睨んでいて、もう一人が「この子も納得いかん言うとるがな。やってできひんのと、最初からやらへんのは意味が違う。公務員は納税者に誠意をみせなあかん」とお説教。この場面だけで主役級の役者を食う存在感を示していた。女優の名は知らない。
「おとなの恋の測り方」も、弁護士であるヒロイン、ディアーヌの秘書が光っていた。平然と机の上に足を乗せ、ズケズケものを言う雇い主に媚びない女性で、外見ではなく本質を重視する。ハンサムで知的、ユーモアのセンスも抜群の彼氏がいるのに、低身長(136センチ!)が気になってあと一歩を踏み出せないディアーヌに「心の器が小さい」とピシャリ。事務所を訪ねてきた彼氏に目を輝かせる表情のチャーミングなこと。惚れた。
 他にも記憶に残る脇役はたくさんいるが、それはまたの機会に。 

2019年1月9日水曜日

大竹誠《様々な時代の都市を歩く 2 —60年代を歩く 2―「デザイン批評」の時代》

オープニング荒らしで街へ


 銀座の画廊のオープニングをねらって駆けつけた。名だたるアーティストに会えるし、話すこともできた。オープニングゆえ酒やつまみがでる。酒を飲み、出された普段は食べたこともないような料理もたいらげる。一流のアーティストに、不勉強など棚上げして乱暴な議論を仕掛ける。知り合いになったところで、その作家を大学のシンポジウムへ呼び込んだ。そう、大学から出される予算でシンポジウムを持つことができたのだ。アーティストと直接面接して講演依頼する楽しみ。そんな風にして画廊にマーキング。梱包作家のAさんには、段ボール箱に入ってもらって、会場へ運び込む。2時間あまり箱の中からワイヤレスマイクで「もしもしメリーさん・・・」とかしゃべってもらった。若者が持つある種の「過激さ、未熟さ」が同居し、それをアーティストや批評家が面白がってくれた。評論家Sさんは、手に入れた現代芸術作家・イブ・クラインのオリジナル作品(ヌード女拓)を持参し、教室の壁に張ってくれた。「ムスタンク」でやって来て、まずは自分の作品紹介をする建築家Kさん。批評家Hさんは、ロンドンで活躍しはじめた建築家集団“アーキグラム”のオリジナル資料をロンドン出張のお土産に運んでくれた。これも画廊で知り合い、ロンドンへ行くならは、見つけてくださいと頼んでいたものだ。学生の生意気な要望を真摯に受け止めてくれたわけ。誠に無手勝流。シンポジウムは、学生にとって著名な作家や批評家を呼ぶことのできる有効な、少し誇らしい機会だった。無手勝流はどちらかといえば有名性の暮らしをする彼らにとって、違和感があったろうが、その違和感が新鮮だったのか?オープニングの後だったか、評論家Tさんと新宿の行きつけのバーまで付き合ったこともあった。もちろん奢っていただいて。画廊が躍動し、人が出入りし、メディアとなり、人をつなぎ、世界を、都市状況を感じさせてくれたわけ。

期待される雑誌『デザイン批評』(風土社)を手に街へ


 大学の先輩の助手から紹介された『デザイン批評』。カタカナの「デザイン」に漢字の「批評」がドッキング。広告を見てなんだか分からないけれど感動があった。何かが起こるのではないかと。その宣伝を兼ねた「発刊記念の講演会」。会場の新宿紀伊国屋ホールが若者たちで埋まった。デザインを社会的な営み(思潮)として考えることだとなんとなく理解した。A5版の『デザイン批評』を手にしたら、ワクワクしてきた。同誌は「デザイン批評塾」を企画する。会場は寺の社務所、公民館、渋谷のガーナ料理店など色々。待ったました!と各大学から学生が集まった。他大学の学生との交流は刺激的で、同じ年代なのにえらく難しい話(言葉)をする者もいた。助手クラスの若い講師による難解なしかしその気にさせる報告会。そう、彼らは「報告者」として話出すのだが格好良かった。言葉が、あるいは内容が分からなくてもそこにいる興奮。報告者であり、原稿の書き手へのあこがれ。思いっきり背伸びをしていた。編集委員には著名な作家とともにまだ無名な助手の名前も。装幀やタイポグラフィー、カット絵などを助手たちが担当しているのも羨ましかった。塾の後は酒を酌み交わすことも。そうこうするうちに大阪万博が決定された。

反万国博覧会プロジェクトの誕生


 「デザイン批評」の編集者たちが核となり、武蔵野美術大学に「革命的デザイナー同盟」が生まれた。「デザイン批評」誌上でも「反万博」特集が組まれた。著名な作家たちも「反万博」談義をし出す。その談義を聞いて改めて「デザインと社会」を考えないとダメなのではないかと意識した。そうこうするうちに具体的な活動が始まる。「デザイン批評」書き手の事務所での深夜のビラ作り。戦争で焼け出された古い写真を、シルクスクリーンの版に焼き付ける。版の水洗い、インクを入れての刷りだしと工房が活気を帯びる。評論家T氏の事務所も活用した。そして深夜タクシーに乗り、万国博参加主役の建築事務所の建物へ。当時、建物の管理はゆるくメインの入り口は開いていた。2階の事務所のガラス戸へ縦長の「反万博ポスター」をべったりと貼った。近くの横断歩道橋、電信柱、コンクリート壁へも貼った。右手に刷毛、左手に乗りの入ったバケツだ。学友が大学校門の近くにコンクリートブロック造の小屋を建て、シルク工房とした。戦力アップ。授業をサボってたまり場となり、反万博、反安保のポスターをつくり出す。数寄屋橋交差点でのビラ配り、ポスター売り、カンパ活動、若干の議論。そう、阪急ビルの屋上から巨大な「反安保・反万博」の垂れ幕も下ろした。都市に関わることの興奮、デザインの街頭化だった。

都市空間でのデモ


 バスケット・シューズを新調して遠足のような気分で出かけた成田空港建設反対のデモ。土の舞う成田の会場に群がる旗、旗、旗。ぱたっぱたっとハタメク旗の音。学生、労働者、農民、教員、市民らが入り交じった広場。埃を立てながら空港公団前へのデモ。機動隊に蹴散らされて周辺の田んぼへ逃げた。新調のバスケットシューズは泥まみれ。そう、成田は土質の良い土地だった。くるぶしぐらいまで入ってしまうふわりとした土。デモの中ではじめて出会い、仲間となり話しをする開放感。大学では体験できないものだ。帰りに「お疲れさま」と飲んだビールはうまかった。◎ベトナム戦争と深く関係してしまった「王子野戦病院」へのデモ。ベトナム戦の負傷兵が治療を受ける指定病院なのだった。行ったこともないその町でのデモ行進。知らない町の人たちからの拍手。投石、知らない町での闘争・逃走◎国際反戦デーの銀座デモ。コンクリート舗装ブロックが剥がされた。剥がされたその下は砂だった。大地だった。消費社会の象徴の銀座が、全国へと繋がる砂と大地。そのでこぼこで歩きにくい街。砂丘のように深い砂地の銀座を歩く何ともいえぬ開放感。舗石が剥がされることで隠れていた何かが現れてきたという感覚◎新宿駅そして新宿歌舞伎町界隈でのデモ。機動隊に蹴散らされる中、友達と遭遇する偶然性。そう、デモでは不思議な出会いがあった。帰り道、タクシーに乗った女性から声をかけられる。「どこへ?」「池袋」「乗らない?」。しばらくすると、「運転手さんそこで止めて」。ストリートGだったのか?これも不思議な巡り合わせ。◎お茶の水「カルチェラタン」。M大にバリケード。校舎は立て看板で覆われていた。セクトの旗がはためいていた。機動隊に追われ逃げる学生を店内に入れシャッターを降ろした街の人びと。小石を運んでくれた街の人たち。予備校の敷地へ足を入れる機動隊に出るように意見する学生。街に流された夥しい量の催涙ガスと放水車の水。煙と水が充満する街。お茶の水から本郷へ、そして再びお茶の水へと都市空間を移動する体験。現場へ駆けつける野次馬根性、あるいはごまめの歯ぎしり。どこかに問題を探すのではなく、その場を闘争の現場としてしまうこと。「都市への参加の権利」。ルフェーブルを読む。やはり背伸びしていた。国会議事堂前の広い道路幅いっぱいに広がり手を繋いだ「フランスデモ」の開放感は今からでもみんなでやりたいです。銀座から全国へと展開された「歩行者天国」はひょっとしたら、あの「フランスデモ」からパクったのかもしれませんね。デモと消費社会は裏表?

2019年1月2日水曜日

大竹誠《様々な時代の都市を歩く 1 —60年代を歩く 1―都市が意識化されだした時代》

映画『ウエストサイドストーリー』を見て街へ


 ウエストサードストーリーの身体へのあこがれ。大学に「ウエイトトレーニングクラブ」(WTC)が発足(1963年度ボディビルのミスターにっぽんの学生がいた。彼は、ビール『アサヒスタイニー』の広告モデル。)→そのNさんの指導でバーベルを持ち上げトレーニング。日増しに盛り上がる腕の筋肉を披露しあい、「WTC」のロゴ入りTシャツにバッシュー、ジーンズ姿で銀座通りへ。四丁目交差点あたりの歩道で、「さ~やるか」と、『ウエストサイドストーリー』でかっこよく歌われ踊る曲「Cool!Cool!」のパフォーマンスを模写演技。フィンガーチョップを鳴らし「Cool!Cool!」で両手上げで進む→その姿で帝国ホテルへ。お揃いの「Tシャツにバッシュー」を見たホテルドアーボーイに立ち入りを断られた→大学でのダンスパーティー(ダンパー)の流行。チケットを皆でつくり販売する。コンクリート床の広い講義室が会場だ。即席バンドの演奏に合わせて、マンボ、ジルバ、モンキーダンス、ツイスト、サーフィンダンス、モンキーダンス、ゴーゴー。とにかく身体を振った。そして、ラストはスローな曲でチークダンス。異性と身体と身体とが密に触れ合った。誰もがダンサーであり、誰もがバンドマンだった。母校ばかりではなく、他の大学のダンパーへも度々参上する。勉強などそっちのけだった。

服装の模写、模写をして街へ


 週刊誌『平凡パンチ』の表紙を飾る、大橋歩のイラストには街の若者の姿が描かれていた。そのイラストのファッションを真似た。髪型、ズボンの丈、スニーカーの形、手のしぐさなどを。イラストの若者が日に焼けていれば自分も日焼けさせた。づ太袋を抱えていれば、身の回りを探して米袋を代用。イラストは大橋歩と読者若者間の相乗効果があり、イラストにまだ描かれていない格好の若者が街に現れると、その若者たちが表紙を飾る。互いに披露しあう関係。銀座の「みゆき通り」はそのメッカとなった。昼間から通りには若者たちがたむろし、通り行く仲間たちに視線を送る。スリムなジーンズのポケットに両手を突っ込み、少し前屈みに、少し腰をくねらせながら歩く。頭はGIカット。チェックのシャツにジーンズ、バッシューの出で立ち。へんてこな服装が生み出される。暑い夏の最中に「ビニールのレインコート」を着る。白ばかりではなく、黒が流行れば黒が広がる。ジーンズの丈も短くなる。ショッキング・ピンク色の口紅、くるぶしまで隠れる長いタイトスカート、大きなサングラスなどなど。イカすやつらがたくさんいた。

ジャズを求めて“ジャズ喫茶”の街へ


 30軒はあった新宿のジャズ喫茶へ、競うように通う。「キーヨ」「DUG」。新宿ばかりではなく、渋谷の百軒店界隈、吉祥寺「ファンキー」、西荻窪へ。生意気にも一夜漬けで仕入れた情報からリクエストし、椅子のシートで体をくねらせる。周りの身振りを見ながら、首を振り、足で床を打つ。いつしか、バラバラだった動きが曲とあう時が来た。周りの身振りとも同調している。他者の身体が自分の体のようにも感じられた。陶酔の一瞬。リクエスト曲がかかっても、それがリクエスト曲なのか怪しげに聴いていた。そして、タバコと濃い珈琲の味。「Coffee & Cigarette」。仲間と入り、そして、一人でも入る。ジャズを聴く仲間と、授業が終わった午後、電車に乗って飯能まで行き、渓谷で飯盒炊爨。薪をひろい火をつける。飯が炊き上がるまでは川遊び。持参の三合の飯を完食。

東海道を自転車でツアー


 大学の夏季授業古美術研究会の帰り京都から日本橋までを自転車で帰ることに。そのために、脚力を鍛えようと大学近くでデパートの配達アルバイトを見つける。「大丸」のお中元品の自転車配達。国立市、国分寺市が配達エリア。坂の多い地区ゆえ大瓶ビール12本入ったケースの配達は、ハンドルを取られ苦労した。熱い最中、配達先のお宅で冷たいお茶などいただく。「そうか!」と、おねだりをするようになりジュースなどもちゃっかり。鍛えた足腰で研究会の地、京都へ。友人から借り受けた変速切り替えが2段の自転車は、目白駅から大阪梅田駅宛てに「鉄道チッキ」で送る。自転車を送った後、往路は、全日空整備員の中学クラスメイトの社員チケットを活用して伊丹空港へ。飛行機は登場間もないプロペラジェットのYS機。一週間の古美術研究会を終え、梅田駅で自転車を引き取り京都へ。宿の女中さんたちに見送られてポン友Nと自転車二人旅開始。道中、車から認識されやすいように、お揃いの深紅のTシャツに白い短パン姿。宿泊は東京までのルート沿いにある学友とか知人の家。一泊目は三重県津市の女子学友O宅。宇治川沿いを行く。真夏なのに水筒を用意していなかった。駅などで水を飲んだが、山にさしかかり水場がない。困った。ふと見ると宇治川上流で牛が水を飲んでいた。水は緑色だ。「牛が飲むなら毒はない」と判断して飲んだ。伊賀の里などを心地よく走らせ、夕刻、学友宅へ着く。幸いに下痢することもなかった。汗を流し、夕食をいただく。翌日朝になると、学友が道中を心配してくれて水筒を買ってくれていた。そのうえ、昼のおにぎりも。感謝!学友の家族の皆さんに見送られる。2日目はNの親戚がある名古屋まで。2日目になるとチンチンが痛い。慣れない山道を数十キロも走るなかで圧迫されたからか。名古屋の道路は広かった。伊勢湾台風で大きな被害を出した後の道路拡幅らしい。Nの親戚の理髪店は100メートル道路沿いにあった。3日目は、静岡県磐田市の学友Oの家まで。4日目は、浜名湖を眺めながら静岡へ。浜名湖湖岸の道路は幅狭く、トラックの風圧で自転車ごと飛ばされそうになる。静岡市西草深で牧師をしている伯父の家まで。五右衛門風呂に初めて入った。昔、静岡で布教をしていた外国人牧師が暮らしたという牧師館も見学。バンガロースタイルの木造建て名建築。5日目は、箱根越えは登りがしんどいかなと、伊豆半島の小浦へ。ここには大学が夏季の間、借りている民宿がある。伊豆半島を沼津から南下すると道路が悪い。泥道、砂利道、急坂、湾曲する道で自転車が思うように漕げない。暗くなり出しても子浦の、3つも4つも手前の山の中。通りかかったトラックの荷台へヒッチハイクとなる。トラックの運転手さんは「このあたりは蝮の多い所だよ」と言う。小浦の砂浜で民宿利用の学友らとウクレレで「可愛いベイビー」を歌い、テントで一泊。6日目は、平塚の学友K宅まで伊豆半島東側を行く。学友の父親から「本は本屋で立ち読みだよ」とアドバイスされる。7日目は、東海道の起点、日本橋を目指す。お金を使い果たしていた。日本橋で歓喜のビールとゆきたいところだが、水筒の水で乾杯!!!6泊7日の東海道ツーリング終了。