2019年12月29日日曜日

鎌田正志《杉浦グラフィズムの快楽と呪縛—DTPの夜明け 7》


「杉浦グラフィズム」と杉浦康平氏のデザインは違います。いや、違うというよりも杉浦康平氏のデザインスタイルが、門下(杉浦事務所出身及び工作舎出身)のデザイナー諸氏によって様々に発展、変容していったもの全体を私が勝手に「杉浦グラフィズム」と呼んでいるだけの話で、そういった言葉がこの業界で流通しているわけではありませんし(但し同じようなことを考えている方は少なくないと思います)、そもそもそういった見方が正しいのかどうかも私にはわかりません。正確に言えば、そういうふうに見える、といったところだと思います。

ともあれ、本来であれば本家本元の杉浦康平氏のデザインについても書かなくてはならないわけですが、研究者でも、まして直接教えを受けたわけでもない市井のデザイナーにすぎない私にはちょっと荷が重すぎるので、そのあたりのことはネットで検索してください。たとえば神戸芸術工科大学のサイトで自由に閲覧できる論文(神戸芸術工科大学紀要「芸術工学2018」杉浦康平のアジアンデザイン研究〈ポスターと冊子を中心に〉)などは素晴らしい資料になっています。

いずれにしても「杉浦グラフィズム」が日本のブックデザインに与えたインパクトの大きさ、影響力は圧倒的だったわけで、今もってそれを越えるようなデザインムーブメントは起きていないし、たぶん越えることはできないだろうと思います。もっと言えば2000年代に入ってブックデザインを含むグラフィックデザインは退化の一途を辿っているように私には見える。あるいはグラフィックデザインは20世紀で完成してしまったようにも思えるのです。但し誤解してもらっては困るのですが、それは「紙上のデザイン」「印刷のデザイン」についての話で、「テジダルデータとしてのデザイン=メディアを横断するデザイン」はますます進化していくだろうし、新しい表現が生まれていくのだろうと思っています。書店の衰退と同時にブックデザインの衰退はもはやどうしようもない流れだと思います。

90年代初頭、書店の書籍の平台を賑わしていた戸田ツトム氏や鈴木一誌氏のブックデザインは、今ではほとんど見かけなくなってしまいました。唯一、羽良多平吉氏の雑誌ユリイカの表紙だけが異彩を放っているように見えます。もちろん祖父江慎氏は今もというか、今まで以上に引っ張りだこですが、祖父江氏のデザインはすでに「祖父江デザイン」と言っていい領域にあるわけで、「杉浦グラフィズム」という括りにはそぐわなくなっている気もします。いずれにしても今の時代、「杉浦グラフィズム」は求められなくなっているようです。何故か? 古臭い? かっこ悪い? 

戸田ツトム氏は鈴木一誌の共著「デザインの種」の中で自身のデザインについて「冷たい」と語られています。戸田氏ほどまでではないにしても「杉浦グラフィズム」には冷たさがある。論理的であろうとする感覚が冷たさとして見えてくる、というのはあると思われます。それが時代にそぐわないのか? よくわかりません。

とはいえ「紙上のデザイン」「印刷のデザイン」あるいは「ブックデザイン」が消えていくようには見えない。というかまだまだ必要とされている。ネット印刷会社の隆盛を見てもそれは感じます。つまりは大手企業による大量出版のシステムが時代にそぐわなくなっただけの話で、少部数、低コストの印刷需要は逆に増えている、ということの左証でしょう。

DTPは個人出版の可能性の道を開きましたが、スタートして20年、今のところそれが実現したようには見えません。そういった流れが生まれる前にSNSが一気に広がり、個人の表現領域と方法はもっとお手軽なものへと進化したようです。にもかかわらず「印刷としての出版」の魅力は相変わらずだと思われます。たとえば「コミケ」で販売される漫画同人誌などはすでにメジャーな出版を凌駕している。「杉浦グラフィズム」はそういった世界を進化させる可能性を今もって孕んでいるのではないでしょうか。

2019年11月29日金曜日

鎌田正志《杉浦グラフィズムの快楽と呪縛—DTPの夜明け 6》









「杉浦グラフィズム」とは杉浦康平氏のブックデザインをリスペクトしているデザイナー作品全体を包む概念です。杉浦氏本人のデザインはもとより、多くは80年代に工作舎から出版された出版物と、そこに関わったデザイナーが中心となって作り出したデザインのスタイル。それとともに杉浦康平氏の主宰していたデザイン事務所出身のデザイナーたちが制作した出版物も含んだ、独特な日本語組版のデザインスタイルを指します。

そのデザインスタイルの中心的なデザイナーの名前を思いつくままに上げると、まずはこの連載の中心となっている戸田ツトム氏、その戸田氏のライバルとも言えそうな羽良多平吉氏、その二人を繋ぐ存在としての松田行正氏、今もって人気、というかますます活躍されている祖父江慎氏…。杉浦事務所からは戸田氏と名コンビ(?)の鈴木一誌氏、大御所の中垣信夫氏、惜しくも50代で亡くなられた谷村彰彦氏、その後を引き継ぐ海保透氏、戸田氏と共に神戸工科芸術大学で教鞭をとられている赤崎正一氏などなど。これらの才能と技術に秀でた方々の作品が「杉浦グラフィズム」の中心世界を形作っていたと思います。

そのデザインスタイルを一言で言うことは難しいのですが、平面であるグラフィックデザインに「立体的な空間感覚=本の構造の視覚化」を持ち込み、なおかつ「曖昧さ」「ノイズ」「アジア的感性」を知的に組み込んでいくデザイン、とでも言えるかもしれません。

まだざっくりとしか言語化できない「杉浦グラフィズム」ですが、「DTPの夜明け」をもう少し続けていく中で考えていこうと思います。

さて前回からの続き、いよいよDTPの時代へ入っていきます。《杉浦グラフィズムの快楽と呪縛—DTPの夜明け 1》で掲載した商業誌最初のDTP紙面と言えそうな「1988年11月の『BRUTUS 192』」から半年、戸田ツトム氏はフルDTPによる書籍を刊行されました。「森の書物」です。

……本書は、ほぼ全面的にパーソナル・コンピューターによって作られた本である。文章執筆の段階から、その編集や構成、デザインそしてレイアウト、作図・写真編み撮り製版・4色カラー分解・カバー・デザイン・版下…。つまり、著者・編集者・デザイナー・印字オペレーター・製版者が関わる一連の造本作業をコンピューターによって行った。このような本の作り方は、いわゆるDTP[デスクトップ・パブリッシング]と呼ばれる。……組織性よりも個人性を尊重したDTP[デスクトップ・パブリッシング]を追求してみよう、との観点から制作された。デスクトップ、すなわち文房四方机上空間においてことの一切にけりをつけてみよう、という実用目的を至近距離に置いた試みである。……(「はじめ」より抜粋)

この「はじめに」には、その後急激になだれ込んで行くDTPシステムの問題点と夢と限界を指摘されているように感じますが、それも後々検討していきたいと思います。

「森の書物」はDTP時代を宣言したエポックメーキングな書物として大きなインパクトを持ったものでしたが、それとともにその縦長の独特な判型がその後、新しいブックデザインのスタイルとして定着していったという、面白い効果も生みだした出版物でもありました。

「森の書物」から半年後に刊行された池澤夏樹氏との共著「都市の書物」はその精度とクオリティを一気にアップさせ、その後の戸田氏のデザイン手法のさきがけとなったようですし、ペヨトル工房で「杉浦グラフィズム」を展開されていたミルキーイソベ氏が同時期にデザインされた「Macでデザイン」「Mac評判記」なども「森の書物」に似たイメージ(紙の扱い、構成、レイアウト)で制作されました。また99年に初版が発行され、今も店頭に並ぶ工藤強勝氏デザインの「編集デザインの教科書」も同様で、その内容の構成の仕方を含め「森の書物」の影響を強く感じます。




2019年9月10日火曜日

鎌田正志《杉浦グラフィズムの快楽と呪縛—DTPの夜明け 5》









誠文堂新光社の雑誌『アイデア』最新号(387号)の特集が「現代日本のブックデザイン史 1996-2020」だそうで、なかなかタイムリーな企画だなと感心しました。私が今ここで試みているテーマ《杉浦グラフィズムの快楽と呪縛》の時代の後の時代こそ、1990年代なかば以後であることは確かで、それ以前の写植が生み出した豊かな組版の世界から、どう進化したのか、あるいは退化したのか、つまりは杉浦グラフィズムの呪縛から抜け出せたのか、いまだに抜け出せないのか、大いに興味ある特集テーマだと思います。

いつまでも写植時代の豊かな組版のノスタルジーに浸っていても埒は開かないのですが、写植時代の終わりとその成果の頂点を示しているであろう戸田ツトム氏の仕事、季刊誌『GS―たのしい知識』について書いておこうと思います。GSは1984年から1988年までに全9冊刊行された批評、評論の雑誌でした。私の手元にはその中の5冊だけがあります。前回の話の続きで言えば「読みにくい」本の筆頭のように見えるデザインですが、実際はそうでもなくて、視線の動きがよく計算された、いかにも戸田氏らしい緊張感のあるクールなデザインです。とはいえ、DTPの無い時代にこのように凝りに凝ったデザインが可能であったことに驚かされますし、たぶんDTPで制作したとしても大変な作業になる作り込み方です。現在ではこのように徹底して作り込まれたデザインの本にはお目にかかれませんが、それは技術的な問題ではなくて、そういった思考、デザインが好まれないのだろうと思います。

近年では読者を挑発しない、緊張させないデザインが大勢のように見えます。古典的なスイス・スタイルのグリッドシステムが生かされている「白っぽい」ブックデザインはよく見かけますが、テキスト、タイトルはこじんまりと配置され、「白地」を活かした「巧みな」デザインは、緊張感のあるバランスを持っていても挑発的ではなさそうです。
『GS』は現在の出版物でいえば東浩紀氏の主宰する『ゲンロン』に近いものであったように思いますが、『ゲンロン』も今風のデザインをまとっているところに時代の差を感じさせます(ゲンロンの各種ブックデザインは洗練されていて、それはそれとして好きです)。

『GS』はまさにデザインで「挑発する本」であったと思います。当時ブームとして盛り上がっていたニューアカデミズムと呼ばれた「ファッションとしての知識」を牽引していた浅田彰氏、伊藤俊治氏、四方田犬彦氏ら監修者、編集者たちの意図も強く反映されていたのでしょう(もちろん、お三方とも正統な(?)知識人ですが、そういった戦略で「知」の新しい形を生み出そうとされていた)。とくに浅田彰氏は芸術評論でも注目されている方ですし、戸田氏の刺激的な著書、「断層図鑑」にも帯文を提供されるほど戸田ツトム氏のデザインへの信頼は厚かったように思われます。

そして戸田ツトム氏の名を不動のものにしたのは、『GS』とともに、その『断層図鑑』(1986年)であろうと思います。この本は前々回紹介した戸田氏自身が編集人として出版された雑誌『MEDIA INFORMATON』のコンプリート版であり最終版だともいえます。あるいはMEDIA INFORMATONの第9号にあたる写真集『庭園都市』の別バージョンとしてとらえることもできそうです。ともあれその圧倒的にノイジーな紙面は、もはや読まれることを拒絶しているかのようです。DTPの対極にある風景です。

(今回の書影は、どの本も分厚いので私がスキャニングしたものではなくネットからコピーしたものです。本文はスキャニングしたもの)

2019年9月7日土曜日

鎌田正志《杉浦グラフィズムの快楽と呪縛—DTPの夜明け 4》





折角なのでQTからもう一つ記事を紹介しておきます。65号(1986年)の奥村靫正氏の4ページに渡るインタビューです。じつはこの連載のタイトル「杉浦グラフィズムの快楽と呪縛」も、この奥村氏のインタビューが元になっていたんだと、今回あらためて気がつきました。掲載した図版は200dpiでスキャニングしてありますから、その気になれば全文読めると思いますが、連載タイトルにインスピレーションを与えてくれた部分を引用しておきます。

「…杉浦康平さんという大先生、神様がいらっしゃいますよね。だから文字にこだわっている人は皆、杉浦コンプレックスに陥っちゃって失敗するというところ行くと思うんですよね。でも、僕はある程度その辺から離れたところにずっといたから、僕の仕事に関して杉浦さんがこれはいいとかだめだとか評価できない、多分そういう仕事だと思うんです。…」

つまりこの時代、80年代の後半に杉浦グラフィズムの影響がどれほど大きかったかを、この言葉から感じ取れます。この言葉自体については奥村さんのプライドからなのか、若さゆえのいきがりだったのかはわかりませんが、ただこの言葉を発せずにはいられなかった現実が当時は濃厚だったという証ではあるわけで、当時、私自身もこの言葉に共感するものがありました。

にもかかわらず、奥村さんのデザインはMac導入後ますます日本的、アジア的な方向へ進んでいかれたように見えます。杉浦グラフィズムの影響ではないとしても、違う方向から杉浦さんと同じようにアジア的デザインへ向かわれたのが興味深く感じられました。

鎌田正志《杉浦グラフィズムの快楽と呪縛—DTPの夜明け 3》





今や写植という活字のシステムを体験した人は40代後半以上の人でしょうか。その年齢以下の人たちは名前は知っているけど実際には見たことはないかもしれないし、あるいは美術系大学や専門学校で印刷の歴史を学ぶ授業で教わったことはあるかもしれない。いずれにしても、今現在のパーソナルコンピュータによるDTPというシステムで印刷物の組版を作る以前は、写植によって組版が作られていたわけです。また、少なからず写植が生まれる以前の金属活字による組版も同時に使われていましたが、オフセット印刷という印刷技術では写植による組版のほうが制作が速く使いやすかったこともあって、一気に広がっていったようです。
しかし、実際に写植というシステムが隆盛を極めたのは1950年代終頃から1990年代の初頭までの30数年ほどで、それまでの活字の歴史に比べれば短い期間であったと思います(私は最初に勤めた極小出版社で「スピカ」という名前の写研の手動写植機を操作していました。もっと高価な写植機は入力している文字が確認できたのですが、スピカはどんな文字もただの点としてしか確認できませんでした。印字された印画紙を現像するまでどうなっているかわからなかったのです。そのせいかどうか、やたらと打ち間違えていました。もちろん印字されてしまった文字は修正が効きませんから、その文字だけ打ち出してノリで貼るわけです)。

私がDTPをするためにMacを使い始めたのは1989年の終わりからですから、写植の歴史と同じくらいの期間MacによるDTPにたずさわっているわけですし、そしてまだ当分はパソコンによるDTPが消えそうな様子はなさそうなので、DTPは写植より長い印刷の歴史を作ることになると思われます。(個人的にはすでにDTPは「終りの始まり」を迎えつつあるように感じているのですが)

前置きが長くなってしまいましたが、その写植全盛の時代、写植大手2社である「写研」と「モリサワ」が、ともに自社製品の宣伝とメセナ(企業による文化活動)を兼ねたPR誌を発行していました。写研が発行していたPR誌は「QT」、モリサワは「たて組ヨコ組」という誌名で、「QT」はA4の縦を少し短くし、郵送費を考えてか用紙も薄いコート紙。一方「たて組ヨコ組」は「QT」より若干大きめで、用紙も厚く高級感のあるマットコート紙。図版、写真も多くレイアウトも非常に凝ったものでした。PR誌は一般にはユーザーに無料で配布されるものですが、「たて組ヨコ組」は特定の書店で販売もされていたほどで、それほど制作に力が入っていたようです。では「QT」は「たて組ヨコ組」よりも劣っていたかといえばそんなことはなくて、とくにデザイナーへのインタビューは魅力的な記事が多く、記事内容を記憶しているのはむしろ「QT」の方でした。

たとえばQT69号(1987年)には戸田ツトム氏、奥村靫正氏、鈴木一誌氏の3人のインタビューが掲載されていました。最初の図版は戸田氏のインタビューが見開きで紹介されたページです。ここで紹介されている戸田氏デザインの「殺人者の科学」を私はずっと探し続けて(今であればAmazonでサクッと見つけられますが)、4、5年前に近所のBOOK OFFで手に入れたのは喜びでした。この本、もちろんDTPでなく写植で作られています。その中でも当時先端の電算写植というコンピュータ化された写植機で制作されていて、戸田氏はそのシステムを徹底的に解析して、まさに「戸田グラフィー」と呼べる世界を生み出しています(下の図版はQT66号の付録。5人のデザイナーに同じテキストを使って文庫本の見開きを作ってもらうという企画でした。ここでも電算写植につてい戸田氏はコメントを入れています。そしてこれらの方法があの衝撃的な「GS」などを生み出すわけですが、それはまた次の機会に)。

戸田氏を筆頭に、この時代のブックデザイナーのデザインは過剰過激で実験的なものが多く、「読める、読めない」「読みやすい、読みにくい」などという激論があちこちでかわされていました。いずれにせよ、80年代の後半は極論すれば「読めなくてもいい」と思わせるほどの、圧倒的な存在感のあるブックデザインがいくつも生み出されていました(それらを牽引していたのが雑誌「游」や「エピステーメー」などの杉浦康平氏のエディトリアルデザインでした)。

2019年9月1日日曜日

鎌田正志《杉浦グラフィズムの快楽と呪縛—DTPの夜明け 2》









杉浦康平、戸田ツトムといえば松岡正剛氏のオブジェマガジン「遊」のデザイン。最初にその雑誌を見たのはたぶん20代の半ばあたり、1981、82年ではなかったかと思います。コピーライターを目指していた当時の友人が工作舎で何か手伝いをしていて、「すごい雑誌がある」と見せられたのが最初だったような気がします。それ以前からその雑誌の名前は知っていたものの、何か近寄り難いものを感じていたのか、手に取ってみることはなかったように思います。(その当時、工作舎に関わっていた友人が何人かいて、その中の女性のひとりが執筆者でもあった、今では高名な博物学者の嫁になったりといろいろありましたが、それはまたいずれ)

その「遊」の創刊が1971年。臼田捷治氏の著書「工作舍物語」によれば、戸田ツトム氏が工作舎で仕事をするようになったのが1973年とあり、「遊」の7号あたりから本誌のデザインに関わられたようですが、私が戸田氏を強く意識したのは、新井敏記氏が編集及び発行人として1981年に創刊された雑誌「THE ISSUE」を手にしてからでした。「こんな無茶苦茶でかっこいいデザインをする人とはいったいどんな人なんだ?」と思っていたところに、そのデザインをしていた戸田氏が自らが編集人として、同じく1981年に隔月刊雑誌「MEDIA INFORMATON」を創刊。デザイナーが自分自身で雑誌を発行することに大変驚かされました。ちなみに新井氏の雑誌「THE ISSUE」はその後、現在ではメジャーな雑誌となった「SWITCH」へと進化していきます。

その新井氏とは友人関係の縁で何度かお会いすることがあり、どんな話をしたのかは覚えていないのですが、あるとき青山の古びたビルの、オフィスともショップともつかない不思議な、そしてかっこいい部屋でお会いすることがありました。そこにはXEROXで作られたと思しき抽象的な絵葉書が壁面に飾られていて、プライスタグも付いていたので販売されていたと思われるのですが、奥の部屋ではふたりの人が何か打ち合わせをされていて、その方たちが戸田ツトム氏と松田行正氏でした。お二人とも30代前半だっただろうと思います。(そのころ新井氏の新しく創刊する雑誌、たぶん「SWITCH」だろうと思いますが、そこに記事を書かないかと誘われたのですが、冗談だろうと思って断ったのが今となっては悔やまれますねぇ〜)

松村喜八郎《映画を楽しむ11 ―我が愛しのキャラクター列伝⑦》

斉藤一夫・一美/1982年「転校生」


 大林宜彦監督は故郷の尾道を舞台にした映画を何本も撮った。その一作目に登場した、名前が一字違いの幼馴染み。神戸に引っ越していた一美が中学3年になって尾道に戻ってきて一夫と再会し、神社の階段から転げ落ちたショックで互いの心と体が入れ替わってしまう。一美の体になってしまう一夫を演じた小林聡美が素晴らしくて、とてもチャーミングだった。女の子らしく振舞わなくてはいけないと思いながらも、男の子の地が出てしまう言動が愉快で、その演技力に感心させられたものだ。以来、今日に至るまでこの女優のファンでありつづけている。
 相手役の尾美としのりも上手ではあるのだが、変身する前の一美のキャラクターとはちょっと違うのが残念なところだ(一美は一夫に「馴れ馴れしい」と迷惑がられても「いいじゃなーい。昔からのお友達なんだもん」とまとわりつき、一夫がスカートをめくって逃げると「やっぱり一夫ちゃんだ」と喜んで後を追う活発な女の子なのに、変身してからの一美はなよなよしすぎている感があった)。
 原作の「おれがあいつであいつがおれで」は何度も映像化されてよく知られていると思うので、細かいストーリー説明は省いて、小林聡美の演技が印象的な場面をいくつか紹介する。まずは変身に気付く場面。
 鏡に映った自分の姿に驚愕し、胸に触ってみるとふくらんでいる。まさか?とスカートの中に手を入れる。
「オオッ!ない。なくなってる」
 摩訶不思議な現象を親に話しても信じてもらうのはとうてい無理。仕方なく一夫は一美、一美は一夫の家で暮らし始め、自分の家の様子を聞きに電話してきた一美に「オカマみたいな言い方すんなよ。〝ネ"とか〝ワ"とか言うのやめてくんねぇかなぁ。我ながら気色悪くてよぉ」。
 一美だって男の子の癖が抜けない一夫が不満で、「もう少し女の子らしく歩いてよ」となじる。すると、「オー」と応じて腰を振り振りしてふざけるので、一美が「もう!」。互いに今の体が気に入らない。「イヤイヤ、この手、この足、この顔大嫌い」と嘆く一美に「馬鹿野郎。俺だってなぁこの体、正直言ってそう心地良くねぇんだよ。アーアー、早く元に戻って立ちションしてぇなぁ」。
 わざと上品な女言葉を使う場面もある。神戸からボーイフレンドのヒロシが会いに来てくれるというのでウキウキしている一美に「そんなに嬉しいんでございますのぉ。あんまりベタベタしない方がよろしいんじゃないですか?」。一美は今の姿では会えないので一夫についてきてもらう。そこで出会ったのがヒロシと一緒にやってきたアケミで、この女の子が傑作なキャラクターだった。アケミは一夫のスカートの中に手を突っ込み、「ふーん、肉体は確かに一美のものだね。しかし、中身はどうやら一夫くんのようだ」。アケミは事の顛末を一美からの手紙で知らされていて、「すごいわ。これがSFだわ。私、書くわ。この体験を」と大喜びする。一夫はアケミが秘密を暴露しそうにないのでホッと安堵し、ヒロシは「あん畜生だよ」と教えられて「よーし、そんじゃ“一美”をやってくっか」。    
 この後、しとやかに一美を演じていたのに、いい雰囲気になったことに嫉妬した一美にお尻を蹴られて男に豹変してしまい、慌てて「ごめんなさーい、はしたないところを見せちゃったわ。嬉しくてつい悪ふざけしちゃったの」と取り繕う場面のおかしさ。
 ゲラゲラ笑わせてくれるからといって、この映画をコメディのジャンルに入れるのは正しくない。思春期特有の心情をきめ細かに描いた珠玉の青春映画である。しんみりさせる描写も多い。一夫の父親が横浜に転勤することを知った一美が、離れ離れになる前に自分の体を見ようとする場面は切なかった。
「見ておきたいの。ちゃんとしっかりと。私の体にさよならを言わせて」 
 一夫はためらう。変身直後は平気で胸をはだけて一美にたしなめられていたのに…。恥じらいの感情を表現した小林聡美の演技が光っていた。

安達郁子/1987年「『さよなら』の女たち」


 斉藤由貴がキラキラと輝いていた時期、大森一樹監督とのコンビで撮った青春三部作の二作目の主人公で、映画の完成度では一作目の「恋する女たち」に劣るものの、キャラクターに惚れ込んだという点では郁子ちゃんが上だ。魅力的な脇役も数多く登場する。
 札幌のタウン誌編集部でアルバイトしている大学生の郁子は、就職活動もせずノホホンと過ごしていた。そのまま就職できると思っていたからだが、経費削減を余儀なくされたため、正社員の採用を見送ると告げられて大慌て。おまけに、父親が教師を辞めて歌手になると仰天の宣言。なんで?
 父はグループサウンズのメンバーとして地元では人気があった。しかし、ファンの女の子を妊娠させたことに責任を感じ、子供が一人前になるまで収入の安定している職業に就くことにした。そのファンが母親、生まれてきた子が郁子である。
「感動的な話だわ。でも私、ちっとも感動できない」
 おまけに母親までイルカの調教師を目指すと言い出した。またまたなんで?(目を大きく見開いて驚く斉藤由貴の表情が可愛い) 夢を追う両親と違って、郁子は「父親が歌手で、母親がイルカの調教。私、普通の両親が欲しい」と嘆く現実的な女の子だ。だから、父親に同行した東京のレコード会社で、そのルックスに一目惚れしたスタッフに誘われても「結構です。今更アイドルって年齢じゃありませんから」とあっさり拒絶する。上京したついでに友人の麻理(当時、美人女優として人気のあった古村比呂)を訪ねると、同棲相手の男が出てきて宝塚へ行ったきり戻ってこないという。麻理は男と同じ小劇団で女優をしていたのだが、熱狂的な宝塚歌劇のファンだったこともあって「こんなのは私のやりたい芝居じゃない」と言って家を飛び出した。なぜか、郁子の周りは夢見る人ばかりだ。
 なかなか就職先が見つからない郁子は、気晴らしを兼ねて宝塚へ。そこで不思議な女性、淑恵(久し振りの映画出演だった歌手の雪村いづみ)に出会う。淑恵は宝塚音楽学校出身なのに歌劇団には入らず、税理士の資格を取ってタカラジェンヌ専門に税金の相談に乗っている人で、郁子と麻理を神戸の海を見下ろす山の手の古い洋館に誘う。ここを改修して3人で住もうというのだ。しかも、業者に依頼するのではなく、女3人だけで。おしゃれな洋館に住めるというのではしゃぐ麻理とは対照的に郁子はトホホである。なんとかリニューアルを終え、淑恵が「女たちの館に」、麻理が「海の見える洋館に」と言って乾杯するのに、郁子は「我々の偉大なる労働に」。どこまでも郁子はリアリストだ。
 この洋館については淑恵の両親のロマンチックなエピソードが秘められているのだが、はしょらせていただく。重要なのは、郁子が淑恵や麻理、途中から洋館暮らしの仲間に加わるタウン誌の先輩などと交流していくうちに、少しずつ変わっていくということだ。
 郁子の父親は歌手デビューを果たして評判も上々、前途有望と見られていた。それなのにまたしても夢を打ち砕かれる事態が起こる。郁子の母親が妊娠したのだ。「最後の日に寝たのがまさかなぁ…。あと20年父親やってみろ、60過ぎちまう。シナトラじゃあるまいし、60過ぎて歌手やってたらそれこそ笑い話だよ」と嘆く(今と違ってそういう時代だった)父親を郁子が励ます。
「歌ってるお父さんってとっても素敵よ。ずーっと歌って。私の弟だか妹だか知んないけど、その子にお父さんの歌聞かせてあげて」
 郁子はガチガチのリアリストではなくなっていた。生まれたばかりの赤ん坊を抱いて郁子が話しかける。
「君が20歳になる時、今度は私が40歳を過ぎてるね。その時、私はどんな女になっているかしら」
 20年後の自分を想像し、満足しているかのように見える斉藤由貴の表情が良かった。

鎌田正志《杉浦グラフィズムの快楽と呪縛—DTPの夜明け 1》




このメルマガ『デザインの周辺……INSIDE AND OUT』に寄稿していただいている私の恩師でもある大竹誠氏の「様々な時代の都市を歩く」から刺激を受け、私自身のデザイン史を一度振り返ってみることにしました。そこにはもうひとつ、「今の時代のデザインが面白くない」と感じるのはなぜだろう…という、自分自身の疑問への回答を探したいという思いもあります(年齢的なこともあるとしても)。

杉浦康平という、現代日本のブックデザイン、エディトリアルデザインの頂点にある巨匠への憧れ、そして杉浦氏がいなければ日本のブックデザインの景色は全く違ったものになっていただろう、圧倒的な影響力をどう言葉にできるのか。またそこを出発点として、幸か不幸か本のデザインを生業にしていきたいと本気で思ってしまった切っ掛けとしての、戸田ツトム氏の仕事とその人となりへの思いについても書き留めておきたいと思います。

内容は時系列というより、私自身にとってエポックな出来事を繋いでいくことにしました。なので話は時代を前後すると思います。デザインヘの関わりそのものは70年代の終わりからだろうと思われますが、まずは今や当然のデザイン制作システムとなっているDTP(Desktop Publishing)についての話からスタートします。

冒頭に挙げた画像は1988年11月の『BRUTUS 192』(マガジンハウス)号の記事ページです。たぶん日本で最初にMacによるDTPで作られた商業誌のカラー紙面だと思われます(最初の見開き)。使用されたコンピュータはApple Macintoch II。出力機はライノトロニック300というイメージセッター。ソフトウェアはDTPという言葉を生み出したアルダス社のページメーカー。画像は演算星組というソフトウェア会社が販売していた「電脳絵巻」から読み込まれたもの。(付け加えておくと、Macの最初の専門誌『MacLife』は1987年に創刊されていましたが、紙面はDTPではなく従来通りの電算写植による印刷工程で製作されていました。但し、注目すべきはその創刊号だか、2号だかに杉浦康平氏のインタビュー記事が掲載されていました)

その下の見開きは当時のMacにバンドルされていたマルチメディアのオーサリングソフト「ハイパーカード」についての記事です。これは今で言うところの電子書籍(当時まだその言葉は作られていなかった)の元となり、「ハイパートーク」と名付けられた簡易なプログラム言語によって、テキストや画像、音声を合成したメディアを制作することができました。これもまた私にとって強烈な刺激となって「頭の中身を全部ここに外部化することができる」などと夢想したものです(実際に初期の電子書籍の実験をこれで作っていました。1990年くらいの頃です)。

ともあれこのたった4ページの見開きページこそが、少なくとも私にとってはデジタルによるデザインの最初の出会いであり、DTPによるデザイン制作の切っ掛けとなったものです。そしてこれからちょうど1年後に全財産をはたいて最初のMac、SE/30を購入することになりました(2メガのメモリーと20メガのハードディスクで50数万円しました)。20代の最後に買うつもりが、誕生日をちょっと過ぎて30代の最初に購入したと記憶します。私は当時、寝ても覚めてもこの2つの記事を眺めていました。DTPもマルチメディア(ハイパーカード)もまるで夢の様な話で、それが現実に手に入ることの興奮は、今のiPhoneやiPadの比ではなかったのです。

それから約30年、今も相変わらずこうしてAppleのMacでキーボードを打ち続けています。大げさにいえば、Appleという特異で魅力的なコンピュータ会社を生んだスティーブ・ジョブズという存在がなければ今の自分はなかったでしょうし(良かったのか悪かったのかそこは微妙ですが)、現在のようなグラフィックデザインの風景も存在しなかったかもしれません。

2019年7月29日月曜日

特別寄稿 大竹誠+木村恒久 《「我が家の旗」+「広告受講者諸君へ」》

東京造形大学1類 広告専攻学生客員教授課題 「わが家の旗」(2001年)

客員教授木村恒久さんから初回の課題として「わが家の旗」が提案される。国の旗、選挙時の政党の旗、高校野球入場式の各学校旗などは度々目にしてきた。それらは「錦の御旗」「主上の旗」。自分たちの旗を作ること、それはまさに「広告」。『暮しの手帖』を立ち上げた、花森安治は「人民の旗」をボロきれのパッチワークで作った。自分たちの立ち位置を、よせ集めの布地の姿に託した。「旗」を作ることはデザインの根幹かもしれない。全てのデザインは「わが家の旗」から開始される。

 授業の初めは「企画書」。我が家に関するエピソードを原稿用紙(400字)に書き起こす。それぞれの家の物語が書かれる。その企画書を、みんなの前で「朗読」する。木村さんは腕を組み、「ほ~」「ほ~~」と頷いている。翌週は企画書を元に「ラフスケッチ」を持参となる。我が家に関するイメージやエピソードを元にしたラフスケッチが提出される。学生の多くはすでに完成したような(デザインされまとまりを見せる)スケッチを描いた。S君は、野球好きで家が江戸火消しのめ組の子孫。そこで、1案は「野球ボールにクロスするバット」、1案は「火消しの纏」を鉛筆で写実表現。それを見た木村さん、「それはデザインではない!」。「どこが悪いの?」と首をかしげるS君。ここからS君と木村さんとの戦いが始まった。確かにS君の写実スケッチは、そのまま旗にしてもおかしくはないもの。これまでの授業なら、それらを部分修正してゆきフィニッシュワークでOKだった。

 多くの学生のスケッチは似た者同士。完成されていた。それで完成と思ったら「デザイン教育」はいらない。月並みな、判例のようなデザインでよければ大学などで学ぶこともない。パソコンソフト活用で十二分に対応できる。というのが木村さんの「それはデザインではない」だった。

 呆れた木村さん、課題のプロセスに変化をつけた。

(A)児童向きの絵本や単行本、また、成人向きの書籍から、……ジャンルを問わずに、自分の気に入った本の「タイトル」100点を書き出し、タテ8㎝×ヨコ20㎝の白い紙10枚に、10点づつタイトルを振り分けて……縦書きで書き込むこと(説明図つき)。
黒い紙の中央に縦長の穴をあける(説明図つき)。

(B)は、タテ25㎝×ヨコ10㎝の黒い厚手の紙の中央に、タテ20㎝×ヨコ3㎝の穴をあける(説明図ではこの穴の部分に斜線表現。「斜線の箇所を切り抜き、素通にする」と書き込みあり)。

*(A)(B)とも26日持参のこと。

 26日。学生たちは半信半疑で「タイトル」を原稿書きして持ってきた。
 1週間に描いた「スケッチ」を机の上に置き、「タイトル」に「黒紙の窓」を当てみる。そして「〇〇〇〇〇〇我が家の旗」と読んでゆく。予期しない言葉合わせに、あちこちから笑いの声。木村さんの提案は、凝り固まったデザインワークを一度反故にして、別次元のフィールドに自らを置いて出発させようというものでした。
 選んだタイトルと「わが家の象徴=シンボル」と全く関係がないはずなのに、異なるもの同士を重ねてみるとなんだか意味が浮上してきたのでした。「予期せぬ出来事」。その不意打ちのような組み合わせから、しかしイメージが浮上してくるのだから仕方ない。今度は、その不意打ちされたイメージからラフスケッチを開始。スケッチが描かれてゆくから不思議。描かれたスケッチはまたまた壊されてゆきます。
 すぐにまとまり出すスケッチではなく、目の前のスケッチを壊して、次のスケッチを生み出すこと。自分では信じていたスケッチが、木村さんの言葉でズタズタにされてゆきます。全体が壊され部分に切り分けられ、その部分が拡大コピーされ、その拡大コピーがまた壊されてゆきます。もう何が起きているのか分からなくなってくる。半信半疑(これがデザイン?)の状態。
 でもS君はしぶとくしぶとくスケッチを重ねてゆきました。その数、数百枚。頭の硬かった(世間一般のデザインとはこうであるという)S君、どんどん柔らかになり(迷いに迷い)、眼を見張るようなスケッチが流れ出るようになりました。木村さんのサジェスチョンは「デザインで思考すること」「デザインは思考のためのトレーニング」「デザインで哲学する」「哲学をするためにデザインする」という生きる根源に触れるものでした。
*S君の作品プロセスの詳細は『初めてデザインを学ぶ人のために……ある大学授業の試み』(論創社)を参照してください。

 以下、授業の際、木村さんが書いてきた、課題「わが家の旗」出題の趣旨原稿です。学生に起立させ読ませました(学生にとってこのような言葉が投げかけられるのは珍しく、「目が点」となる学生続々)。

広告受講者諸君へ


 その1…【物語へ!】


 近代デザインのアーキ・タイプと目されているバウハウスのデザイン理論は、美術、建築、工芸、グラフィックスなど、中味の異なるクリエーションの、その原典はすべてアーキテクチュアであると設定していた。
 それは、近代以降狭まった建築の概念を、ルネサンス時代の幅広い思考に戻す作業を意味していた。従ってバウハウスに於けるアーキテクチュアの語は、単なる物理的スペースのビルディングを超えた、知的な思考概念であった。そこでは広告デザインは、建築行為と地続きのクリエーションなのだ。
 いうまでもなく、アーキテクチュアの歴史概念の基範は教会である。教会建造物は、コミュニケーションの場としての、文化的スペースのための器である。

 今、テクノロジに創造性を見出す者にとっては、テレビやインターネットの映像情報を、教会に匹敵するコミュニケーションの場と認識している。その観点から捕えると、映像上での建築概念が発生する。つまり映像だけを手がかりにして、想像上の「物語」としてのアーキテクチュアが浮上するのだ。メディアとしての建築である。
 メディアとしての建築は、物理的建築を前提としたシミュレーションの試図ではない。ハイテクの……ネットワークとして展開するアーキテクチュアの概念だ。
 広告デザインも建築的行為だと定義するバウハウスのコンセプトに従えば、ハイテク時代の広告の概念は、映像を媒介にした「物語」の創出ということになろう。そういうことでは「わが家の旗」のデザイン製作のキーワードは「物語」でもある。

 かつてデザインは、「形」の論理に専従していた。だがテクノロジー時代は、形から物語性にシフトしている。形から物語への移行期に於いては、物語性を重い課題とせずに、物語の初源である「オトギ話」のレベルからスタートすべきであろう。オトギ話のコリアグラフィーが、「わが家の旗」の形を具現化する。
 コリアグラフィーは、踊りの振付と同義である。コンピュター・グラフィックスの分野では、形を動画にするアニメーションを演出する場合に、動作を振付(コリアグラフィー)という。「わが家の旗」では、造形的な形の形成の試行錯誤は多々起るが、この場合、形を造り出すというよりも、オトギ話の内容を振付してゆくと考えるべきであろう。

『要約』
 広告とは、新たな「物語」を創出することである。
 そこでの形は、物語の内容を視覚的に振付ける行為である。振付は、身体で考え、身体で表現する行為である。
 電子メディアの映像情報が核になって展開する時代は、美術家、建築家、デザイナーは等しくデジタル・アーキテクトになろう。そこで最も重視されるのは美術ではなく、映画の手法だろう。

 その2…【表現実践における10のポイント】


①言語
 スタート・アップの次元での表現意識は、身体の中から発現した内発的な状態で、そこには素材の区別も、メディア的性格の差異は存在しない。
 表現意識が内部的能力である限り、そこでのイメージには高低はなく、すべて等価値だ。従って初期の段階では、デザインも、音楽も、絵画もすべて同一である。初源の立ち上がりの表現意識は、共通して「言語」だ。形態ではない。

②概念化
 発端の表現意識である「言語」としてのイメージを、想定した標題を基軸にして文章化した「企画書」。これには、初めての言語的イメージの動機を裏づける概念が記述されている。と同時に企画書によってデザインの実相化への路線が決定し、ここで初めて自己の表現意識が、詩や音楽、絵画と異なる分野に進展する、外部能力を自覚する。自覚の中心になるのは、デザインとはすべて「世界デザイン」であるという確認でもある。どんな小さなマークや、商品ラベルでも、世界デザインでなければ、流通機構で機能しない。デザインは、閉じられた境界の内側に存在せず、開かれた外部能力を意味する。

③試図
 企画書に寄りそって、その概念を試図にした、アイディア・スケッチ。ここではデザインの性格や機能を暗示する。試図によって、無形な状態から有形化に進展するが、試図は、あくまでも実相化への推測としての断片的解釈で、構図以前の抽象的記号である。

④主語点出
 無形から有形化に発展した試図のスケッチを、絵画的手法で情景描写する。絵画的な手法によるイラストには、無意識に書き込んだ箇所が多い。これを綿密に点検すると、企画書に記述した主語と述語の関係が確認できる。試図のイラスト化は、表現の実践現場での重要なデーターで、参照に値する。

⑤言語遊戯
 点出した主語、述語を、言葉遊びのアナグラムでテストする。サンプリングした言語や文法を主語に挿入し、その組合わせを繰り返してテストすると、主語のイメージが増幅する。④のイラストと共に、このアナグラムを参照にすると、表現の実践過程での、形の論理の形成の背景説明が豊かになる。又、無意識な状態にあるイメージの深層が、意識化のレベルに浮上してくる。遊戯とは想像力だ。

⑥表現の実践
 ④、⑤の実験データーを手本に置き、身体を通じて、企画書の意図を形に紡ぎ出す、表現の実践作業の開始。ここでは構想した主題を、粘り強く握り返す、冴えた感受性が求められる。硬くならずに、リラックスすることが、逆にエネルギーの集中になる。
 実践の現場では、素朴に「楽しい」「うれしい」の感情を大事にすること。文人画の世界ではこれを「自娯」という。自らがたのし娯無という意味だ。自分の気持ちを自由に泳がす。

⑦形の試行錯誤
 無形の状態から有形化に向かう形の論理は、必然的に大きな矛盾と謎がはらんでいる。ない方が不自然である。そのためか、謎を「明証」する行為が形の完成と錯覚する。
 哲学的論評の分野では、主題の明証は必要である。だが表現とは思考を重ねて、思考が折り重なって、更なる深い問題に向うのであって、明証は一切必要はない。
 謎を秘めた形の生成は、試行錯誤の連鎖であって、このカオスを逡巡しながらの根気のいる作業であることを充分自覚すること。
 多く見かけるのは、錯乱した手詰りの状態を明証しようとして、短絡的に、普遍性という平準化の幻想に閉じ込もることだ。普遍性とは、ゼロの空白から出現しない。普遍性の初源はすべて特殊性であり、それが進展して普遍的価値を持つ。逆にいえば特殊性を保有しない形態は普遍化しないということだ。
従って形の生成は、あくまでも企画書に盛られた独異性意識を振り返って、徹底して特性を追求する行為が、表現者の個有の主体性投影である。

⑧バーチャル・ポリシー
 形の生成が、絶妙なバランスで調和を得た段階が訪れる。そこでバーチャル・ポリシー、つまり仮想問題を自分に提起する。バランスが釣り合っている形の条件を、仮にそれが釣り合いを破ったらどうなるかといった、逆説論的な疑問符の提案である。それによってバランスの取れた形を、逆方向から裏返しにして点検すると、そこから意表を突く異化効果が突出し、形の進展に大きなヒントを与える。
 バーチャル・ポリシーは、形の形成を一段と伸縮自在に発展させ、転回させる方法論であって、表現の中核になるテキストである。

⑨細部調整
 バーチャルな逆転の視点と、ストレートな視点を組合わせた複眼的な視点を、自由に使い分ければ、形の論理は極めて柔軟な、自由な解釈で流動化する。そこから解放感のある自由な遊び「自遊」の気分が高まる。「自遊」がないところには洗練された形は発現しない。その精神で、最終の微調整に向かう。
 ここでは、企画書と形とを相互に点検し、欠陥があれば修正を施す。全体の見通しが立てば、完成への仕上げに全力を注ぐ。それは多分、無心の状態であろう。

完成
 実践作業収束の完結。


 かつて広告製作の現場では、①から⑤までを、企業の担当者や代理店が練り上げ準備した。デザイナーには⑩の仕上げのみを要求し、従って若いデザイナーは⑥から⑨の存在に無知であった。
 だが今の広告デザインで、企業側が発注するのは①から⑩の全コースであり、以前のように①、⑤までのお膳立ては一切しない。フル・コース運営するペース・メーカーがデザイナープロだからだ。これを実行出来ない者は、広告の現場では無用の存在である。広告製作では、企画と表現が専門化しているとしても、専門分類化は、フル・コースの体験を前提にして行われる。
 ①から⑩のフル・コースを解読すれば理解できることは、表現とは、①から⑩に至るポイントの相互作用による「知の化学反応」である。広告デザインとは、複雑な「知恵」の総合化であることを確認する必要がある。


2019年7月21日日曜日

志子田薫《写真の重箱10 —ギャラリー巡り》


 皆様こんにちは。写真、撮ってますか? そして写真を見てますか?

 先日写真家飯田鉄さんの街歩きワークショップでの前期講評会に向けて写真セレクトとプリントを行ないました。撮っている時には多少の手応えを感じてはいたのですが、いざ前期2回の撮影会の写真を見返してみると、久々のWSという事で、迷走をしているという感がありました。
 それでも何とか方向性を示して持って行きましたが、自分で説明しながらなんとも歯切れの悪い内容になっていた感があります。もっと自分の写真を客観視しなければと思う次第です。
写真展のはなし


 さて、最近友人知人の個展が立て続けにありまして、キヤノンギャラリー銀座で行われた小澤太一さんの【SAHARA】やRoonee 247 Fine Artsで開催された外山由梨佳さんの【マテリアル】、”Alt Medium”での飯田鉄先生の個展【球体上の点列】は第1期「揺らし箱」と第2期「球体演戯」、中藤毅彦さん主催のGallery Niepce(ニエプス)メンバーと飯田先生他ゲスト作家による、檜画廊での【令和元年東京】など。観に行けたものの多くはモノクロ作品が主でした。

 一方で、個人的に楽しみにしていたのに断念した展示も多く、特に残念だったのが祐天寺Paperpoolで開催されていた岡田祐二さんの【手彩色和紙写真】に家庭の事情などが重なり都合が付けられず行かれなかった事。
 岡田さんはオールドレンズ界で著名な方、というよりそもそもオールドレンズという言葉も彼が生み出したようなものですが、レンズの特性を生かした素敵な写真を撮られています。そんな彼がここ数年手がけている「和紙にプリントした写真に手で彩色を施している」とても個性あふれる特徴的かつ素敵な作品たちがありまして、私はとても大好きなんです。ここ数年機会あるごとに観せていただいていた身としては、ある意味現時点での集大成と言える個展に是非とも足を運びたかったんですよね。手彩色ですから全ての作品が一点ものですので、売れてしまった作品たちには二度と出会えないという意味でも、そして岡田さんのマイルストーンとしても、駆け足でよいから観に行くべきだったなぁ(そして出来れば買いたかったなぁ)と悔いています。


 ここの所、自分の先祖、と言っても高々祖父母や曽祖父母とその親族ですが、その写真を見る機会が幾度かありました。カラーのもの、モノクロのもの、銀が浮き出ているものなどを見て、直接会ったことのない先祖たちが築いてきた歴史を実感したわけです。。。

 若い夫婦がスマホで自分の子供達の写真や動画を撮影している姿も今では珍しくなくなりましたね。そしてよく言われるのがそういう写真をプリントしない人が多いということ。
じゃあプリントすれば良いかというと、なかなかそういうわけにもいかないと思います。デジタルの時代になってからは、昔みたいに一枚一枚撮ったり、36枚撮りのフィルム1本〜数本から必要なコマをセレクトするのと違って膨大な量を、しかも動画も混ざった状態で撮っているわけですから、選んでいるヒマも、いや、もはや見返すヒマもないかもしれません。
 せっかくプリントしても、画面の色と違ってイメージ通りでなかったりした日には。。。
 ただ、プリントの精度も上がってきましたし、それらをフォトブックのように別の形態で出力していれば、写真とはまた違った魅力が出てきますね。

 また個人の写真データはその端末内に入れっぱなしの場合、端末が壊れた途端に永遠に消え去ってしまいます。それを防ぐために各社も初期はカードやPCへのバックアップ推奨し、現在はインターネット上に保存領域をサービスもしくは有料で提供しています。GoogleフォトやiCloud、OneDriveなど所謂クラウドストレージですね。
 何しろ設定さえしてあれば、無意識のうちに撮った写真はクラウド上にバックアップされており、紐付けされたサービスとアカウントで、色々な端末から写真を見ることが可能になります。スマホで撮った画像を自宅のPCや親戚のテレビで観ることも徐々に根付いてきましたね。

 ただ、今まで色々な保存用メディアの栄枯盛衰や写真用クラウドのサービス終了などを見てきた人として、まして過去の写真と対面することが増えた最近では、やっぱりアウトプットは大事だなと。そして可能ならやはりフォトブックでも良いから紙という物理的なモノとして、形に残したいなと改めて思うようになりました。


 最初の勢いは何処へやら。元からSDカード程の厚みしかない内容が、気がつけば印画紙どころかフィルムよりも薄っぺらいものになってます。しかも当たり前ながらフィルムよりも密度が薄いのでもはや目の当てようもありません。
 ここいらで一丁踏ん切りをつけてみるのも悪くないかなと思っています。

2019年7月16日火曜日

大竹誠《様々な時代の都市を歩く 10 ―90年代の街を歩く3—1995年:カナダのトロントへ「デザイン出前」》

「Today’s Japan展」の会場設営でトロントへ


 日本とカナダの交流を記念して、日本のパフォーミングアート、デザイン、音楽、映画、アートを紹介する催し物。国際交流基金経由、日本デザインコミッティの仕事であった。成田からアメリカ大陸東側のトロントまで14時間の直行便。お初のアメリカ大陸。飛行機の中はエンジンの音もあり眠れない。何度も食事でお腹は膨れたまま。疲れてはいるが夕暮れのダウンタウンへ。大型バイクが駐車するカフェが目に留まる。太い腕に入れ墨のライダーが屋外でビール。いや〜いい風景だ。一緒に飲みたくなる。店内からブルースミュージック。これがまたいける。けだるいそのブルース、人生は味なものと語りかける。
 打ち合わせの仕事場のハーバーフロントセンターへ。オンタリオ湖畔につくられた港湾施設(トラックターミナル、倉庫など)をコンバージョンして人の集まるパブリックマーケットや文化センターとしたものらしい。→展示空間を見学。ガラスや陶芸の工房もある。火を吹いているガラスの釜。展示空間とオフィスもある。片側が全面ガラスのシャッターの通路がある。かつてのトラックターミナルの一部だ。この通路が気に入り、ここも展示空間にと申し出る。広めのホールがメインの展示スペース。隣接地はパワープラントをそのまま生かしシアターになっている。倉庫の連なりは飲食店やアンティークショップとなる。それぞれの建物の形も違うし、平屋のその建物は中へ入ってみたくなる装置だ。日本に帰ってから知るのだが、オンタリオ湖畔の“ハーバーフロント”は再開発地区として世界から注目されていた。→水辺のレストランで昼食。屋外の方が屋内よりも混雑している。水辺からさわやかな風が流れているし、水鳥を見れるし、帆船も近くに停泊中。この帆船を使った子供対象の“サーカスキャンプ”というのがあるそうだ。帆を上げたり下げたりしての操船は共同作業。教育的効果満点らしい。→作業チームのメンバーと夕食。住宅をそのまま活かしたレストラン。メンバーの家に招かれたようでうれしい。食べながら、古い街や、町並みの魅力について話しがはずむ(でも英語も混じるのだから???)。魅力ある街の話をしていたら、「そのような街が近くにあるよ」と通訳さん。食後、近くの住宅街を散歩。車道と歩道が大きな樹木で覆われている。ゆったりとした通りで散歩したくなる。住宅の多くは築100年以上はあるものだろう。ジョージアン様式とかヴィクトリアン様式で、住宅から歩道までの空間が前庭。芝が植えられ、花が咲いている。どの家も塀が低く道路からの見通しがいい。というか親しくなれそうな環境をつくっている。敷地が大きいとこのようにできるのだな〜と思う。カナダでは、庭の樹木でも伐採するときには周りの家の了解が必要だし、古い家を取り壊して新しい家を立てるとなると高い税金をかけられるそうだ。住民たちが古くから育ててきた環境を頑固に守る姿勢があり驚いた。玄関と隣室は道路から中を覗ける。玄関ポーチに座り通る人に声をかける人もいる。隣室の中でバグパイプを演奏している姿が見える。
 ホテルの机に持参したミニ製図板と三角スケール、三角定規を置いて展示会場の図面を書き出す。ホテルの照明は薄暗かった。目を図面に近づけての作業。「デザイン・サンプリング」された日本のデザイナーの作品、110点あまりを配置展示しなくてはいけない。 基本パターンは60cm角の透明な立方体に入れる展示。ホールにはこれを並べ、下見で気に入った通路にも並べてみる。ポスターも展示するので、この通路の上部にぶら下げることにする。下には透明な展示ボックス、上にポスターという具合に。即席でなんとか図面を仕上げた。翌日、図面を持って打ち合わせ。一晩で図面を仕上げたのでカナダの担当者は喜んでくれた。片言の英語を交えながら制作担当者ともディスカッション。質問が来たときには、その都度スケッチを書く。そのスケッチを見ながら細部など確認してゆく。スケッチがあるので担当者も、言葉では十分通じないが、納得できるようだし、親しくなれた。それらを元にカナダ側は制作となる。→打ち合わせのオフの日に、トロントの街を散策。古めの建物と新しい建物が混ざっている。ビルの壁には洒落た落書き。高さ553.33mの自立式トロントタワーにもあがる。当時世界一高かった。地上342mのフロアーは、ガラス張り。真下の街が見えている。恐ろしい限りだ。歩くのが怖い。一歩一歩進んでみる。時差ボケがすっ飛ぶ感じだった。

「Today’s Japan展」のオープニングへ


◎スケッチと図面を元にカナダ側の担当者たちが制作してくれたものたちが並び出す。ほぼ予定通りの仕上げだ。そして、オープニングとなる。高円宮もやってくる。宮さんはトロントの大学にも所属していた。夜は晩餐会となる。ホテルでレンタルのタキシードに着替え会場へ。大きな丸いテーブルにカナダ側と日本側が混ざって着席。両隣から英語で話しかけられる。これが困った。何を飲んだか、何を食べたのか怪しい。一緒に行った友人も同様にコミュニケーションしにくいので困った表情。→ある晩、通訳など手がける、エイデルマン・敏子さんとジェイコブズさんの話しをしていたら、「向かいに住んでいるわよ」となり実現。『アメリカ大都市の死と生』を書いたジェイン・ジェイコブズさんだ。ではということでジェイコブズさんの家へ。ビクトリアン様式の建物で、玄関ポーチを入った所がリビング。大きな体のジェイコブズさんが挨拶に。旦那さんのボブさんは建築家。その時、ジェイコブズさんの年に関わる活動の一端を聞いた。「トロントで大雪があった日、家の前にトラックが止まり、運転手は道路の雪をジェイコブズさんの家の方へかき出した。ジェイコブズさんはそれを見て、表へ出てゆきクレームをつける」。「運転手が元の通りにするまで腕を組んで道路上にいた」。自分だけよければいいという考え方を問題にしたのだろう。都市の調査をしながら、市民のための街づくりを唱えてきた人の活動の迫力を感じる。静かに話す優しい人だった。日本のジグソーパズルが好きな様子で、理由は、小さなチップをはめ込む作業が、都市の問題を一つ一つはめ込む作業と似ているからだそうだ。そして、美しい画面が現れる。

◎トロントには「ファクトリーシアター」がある。かつての工場建築を劇場として使っている。現役のビール工場で開かれるコンサートもあった。ビール酵母の香りが充満しアルミの大きなビール樽の並ぶ工場だ。床はコンクリートのまま。ガラス屋根に反射する音響効果もあって、いいライブの体験。街にはこのような活用できる空間があるのだなと思う。

◎“ムースプロジェクト”に遭遇。カナダに生息する大きなムースを原寸大(2mぐらいある)で作り、それを街の中200カ所に置くプロジェクト。型抜きされたプラスチックのムースの表面はそれぞれのアーティストが彩色デザイン。制作費はスポンサー。そして場所の提供者。したがって作品には、アーティスト名、スポンサー名、場所提供者名が並列されている。街のあちこちに設置されたムースを見ながら街を散策するのは面白い仕掛けだ。プロジェクトのムース地図も準備されている。ムースを探しながら、自ずと街を知り、学ぶトレーニングになるところが画期的であった。

◎「Today’s Japan展」の2年後(1997年)再びカナダへ。バンクーバー経由でカナダ東端のハリファックスへ。タイタニック号沈没の際、多くの遺体が流れ着いた街でもあった。「カナダ政府主催のアジア・パシフィック年の「アジアの力(The Energy of Asian Design)」展の会場デザインである。企画内容は、アジアのグラフィックデザインを一堂に集めたもので、日本からは、勝井三雄、木村恒久、杉浦康平、平野甲賀、佐藤晃一、原研哉。台湾からは、LiuKai、Huang Yung-Suug、韓国からは、ahn Sang-soo、香港からは、Alan chan、Kan tai-Keung、Freeman Lau、中国からは、Wang Xu、インドネシアからは、Hermawan Tanzil。展覧会は回遊式で、皮切りがハリファックス。そのあと、トロント、アルバータへ巡回する。→日本の7人の作品を会場で展示する。木村恒久さんは、CG処理した現代社会風刺のフォトモンタージュ作品だが、担当者が成田から飛び立つ途中で作品を手渡してくれた。最後の最後まで手を入れるその姿勢には頭がさがる。担当者はヒヤヒヤものだが。ハリファックスの古く建てられた数棟の建物をつないでアートスクールとしているスペースが会場。教室を見せてもらう。古い建物ゆえ、階段は狭い。階段もいろいろ、床面の段差もあちこちにある。コンバージョンゆえに、補強の鉄骨などが教室内に露出していて興味がつきない。階段踊り場の狭小なアトリエ(2畳ぐらい)もあり変化に富んでいる。迷子になってしまいそうだ。授業は大小の部屋を巧みに使いながらやっているようだった。そして、校舎は24時間学生に解放されていると聞いて驚く。自主運営なのだ。街の中心に位置しているので、すぐ近くにはカフェやライブスタジオもある。このカフェでランチをとりながら、展示に携わったカナダの教授助手と学生たちは対等に、かつ真剣に議論をしている。日本の大学と違うのが印象的であった。

2000年に再びカナダへ


「E-12 生きるためのデザイン」という展覧会の設営でトロントへ。21世紀のあり方を、カナダと日本のデザイナーが、それぞれ二人のチームを組み、それぞれの国のやり方で表現する展覧会。カナダ側のキュレター、ラリー・リチャーズさんとともに手がける。日本チームは、木村恒久+布野修司、真田岳彦+鷲田清一ほか。これも巡回展で、モントリオール、トロント、バンクーバー、名古屋デザインセンター、カナダ大使館ギャラリーの5箇所開催。事前にそれぞれの会場のレイアウトなど打ち合わせを済ませる。同行した真田岳彦さんは、「プレハブ・コート」という作品。コートにチャックをつけて何枚かのコートを繋げば、一緒に歩けたり、非常時のテントになったり変化してゆくというものであった。それを天井から吊るした。斬新な作品であった。

バンクーバーへも


 訪問した美術大学(エミリー・カー)はバンクーバー港の島にあった。一体は大きな食品市場があり、市場と一体化して再開発された場所。キャンパス内にはかつて使われた港の貨物線のレールが路面に残る。海辺にはボートハウスも並んでいた。そのような環境の中にあるキャンパスは刺激的。暮らしと一体化する中から、デザインやアートの思考が展開できそうだった。

松村喜八郎《映画を楽しむ 10―クレジットタイトルに工夫あれ》

 今回はキャラクター列伝を休載させていただく。どうしてもクレジットタイトルのことを書きたくなったからで、そんな気にさせたのは、意外な大ヒットとなった「翔んで埼玉」である。この映画の満足度については、一番面白かったのが荒唐無稽な本筋とは関係ない夫婦喧嘩の場面(埼玉県人の夫に噛みつく千葉県出身の妻を演じた麻生久美子がコメディエンヌの本領を発揮してくれたのでニッコニコ)だと言えば察しがつくだろう。気に入ったのはエンディングクレジットに流れるはなわの歌だ。彼が人気を獲得した、あの佐賀県の歌と同じ趣向で埼玉県のことをおちょくる歌詞がおかしくて、館内が明るくなるまでの間、全く退屈しなかった。
こういう工夫はいい。
 エンディングクレジットが長くなったのはいつ頃からだろうか。リスクを軽減するために何社もの製作会社が連携するようになってからだと思うのだが、5〜6分も黒地に白抜き文字のタイトルを見せられるのは辛い。途中で席を立つ人がいるのも無理からぬところだ。あれだけのスタッフ、キャスト、協力会社等々を紹介しなくてはならない事情があるのだとしたら、せめて観客を楽しませる工夫をしてほしい。そういう映画に時たま出会えることがある。
 科白で楽しませてくれたのは、熊澤尚人監督の「おと・な・り」だった。隣りから聞こえてくる音で互いの人柄を想像していた男女、岡田准一と麻生久美子がようやく顔を合わせる場面で終わるラブストーリーで、エンディングクレジットの間に二人の会話だけが聞こえてくる。二人の姿は映らなくても、その後どうなったのかが分かる素敵なエピローグになっていた。
 逆に、科白のない映像で楽しませてくれた映画もあった。ジョエル・ホプキンス監督の「新しい人生のはじめかた」だ。娘の結婚式に出席するためロンドンを訪れた初老のCМ音楽家(ダスティン・ホフマン)と、婚期を逃した中年の女性(エマ・トンプソン)が交流を重ねるうちに惹かれあう。この二人が空港で出会い、共に不運な出来事に見舞われたことを嘆く場面が大好きだ。最初は互いに自分の方こそ不幸だと主張するのだが、ホフマンの話を聞き終えたトンプソンが「あなたの勝ち」と言って、もう自分の不幸について語ろうとしない。なんていい女だろうと感激したものである。それはさておき、エンディングクレジットは心憎いものだった。二人の交流とは関係なく何度か登場し、いがみ合っていた爺さんと婆さんが仲良くなっているのだ。それはホフマンとトンプソンの将来を暗示しているかのようだった。
 ドラマチックな締めくくりに活用していたのは、ジョージ・C・ウルフ監督の「サヨナラの代わりに」だ。筋萎縮性側索硬化症のケイト(ヒラリー・スワンク)と、彼女に介助人として雇われたベック(エミー・ロッサム)。境遇や考え方の全く異なる二人が友情を育み、笑いと涙を誘う感動の物語はケイトの死で終わるのだが、本当の感動はエンディングクレジットでやってくる。スタッフ、キャストの名前が流れる画面の横にはステージで歌うベックの姿。歌手になることを諦めていたベックが再び夢に向かって歩み始めたのだなぁと思って観ていると、カメラが足元をアップで映す。ラフな服装には不似合いなハイヒール。それはケイトからプレゼントされたものである。ベックはハイヒールを嫌っていた。それなのに履いた。この1ショットで、今もベックがケイトと強い絆で結ばれていることが分かり、グッときた。
 オープニングのクレジットタイトルにも物申したい。今は、いきなり本編が始まり、ストーリーを進行させながら主なスタッフ、キャストの名前を紹介していく手法が多く、タイトルを独立させている映画は滅多にない。たまにあっても、デザイン的に優れたものがないのは寂しい限りだ。
 クレジットタイトルだけでも楽しめたのは、ソウル・バスがデザインを担当した映画だった。グラフィックデザイナーとして著名だったバスは、オットー・プレミンジャー監督に依頼されて「カルメン・ジョーンズ」のタイトルを手掛けてから次々と斬新なタイトルを作り出した。私が最初に観たのは、ガンジー暗殺を描いたマーク・ロブソン監督の「暗殺?5時12分」である。BSやCSで放送されることもない映画なので自信はないが、丸い時計の文字盤と人物のシルエットが画面に現れ、秒針の動きがサスペンスを醸し出していたように記憶している。書体もスマートなものだった。なんておしゃれなタイトルだろうと感激したものだ。それがソウル・バスという人の手になるものであることを後に映画雑誌で知った。
 バスの手掛けたタイトルがどんなものなのか興味がある人は、アルフレッド・ヒッチコック監督の「サイコ」「めまい」「北北西に進路を取れ」を観ていただきたい。
 イラストや新聞の紙面、実写のモンタージュ、アニメーションなどさまざまな手法を使ったバスは、映画界に刺激を与え(007シリーズ初期のタイトルを担当したモーリス・ビンダーの仕事にはバスの影響が見て取れる)、タイトルに革命をもたらした。その最高作と言われているのは、オープニングとエンディングにアニメを使った「八十日間世界一周」である。とくに本編終了後に出る、ゲストスター紹介を兼ねたアニメの楽しさは最高で、本編より面白いとまで言われたほどだった。
 日本でも、かつてはタイトルデザインを重視した監督がいた。その代表格である市川崑のほか、勅使河原宏は「おとし穴」「砂の女」でグラフィックデザイナーの粟津潔を、篠田正浩は「夕陽に赤い俺の顔」でイラストレーターの真鍋博を起用したことがある。ただ、こういう流れが広まることはなかった。
 日本映画のタイトルで私が一番好きなのは「座頭市千両首」だ。漆黒の画面の左隅から座頭市が登場し、揉み療治の客を呼ぶための笛を吹きながら歩いていく。すると、右手から2人のやくざが現れて斬りかかる。これを居合い抜きの早業で倒し、何事もなかったように歩く座頭市。次に座っている座頭市を映す画面に変わり、前後から襲った4人のやくざが斬り捨てられる。こうした趣向で、座頭市とやくざとの斬り合いを見せながらスタッフ・キャストの文字が出る。常にバックが漆黒という視覚効果が素晴らしく、中でも画面の下に連なる黄色い三度笠を見せ、カメラがサッと引いて大勢のやくざが映る描写は見事だった。座頭市シリーズの6作目、居合い抜きの技に磨きのかかった勝新太郎の殺陣を様式美として表現したこのタイトルは、池広一夫監督と名カメラマン宮川一夫の共同作業で生み出されたものではないかと思う。森一生監督へのインタビューをまとめた『森一生映画旅』によると、宮川一夫は撮影方法についてアイデアを出すことがあったそうだ。
「座頭市千両首」はシリーズ中屈指の好編で、勝新太郎が実兄の若山富三郎(当時は城健三朗)と死闘を繰り広げる場面は大迫力だったが、タイトルだけでも楽しめる。 そんなタイトルがなくなって久しい。年寄りの愚痴と言われるかもしれないが、もっとタイトルに工夫してほしいと切に願う。

鎌田正志《写真家の死》

 今から2年ほど前の、2017年の6月に一人の写真家が亡くなりました。享年56歳。孤独死(病死?)でした。発見された時はすでに腐敗が始まっていたようです。彼には友人を介して2度ほど会ったことがありました。とはいえ、数分立ち話をしただけで親密になるほどの会話はしていません。
 最初に会ったのは彼が北海道から世田谷区に引っ越して1年ほど過ぎたくらいの時だったように思います(2007年くらい。正確には思い出せません)。彼は自分の写真作品を売ることで生計を立てることを信条としていたようで、当時の我が家のすぐ近所だった、井の頭池の側で週末写真を売っていて、そこに当時吉祥寺在住だった友人と訪ねたように思います。彼は自分の写真について何か一生懸命説明されていたように思いますが、何を話されていたのか今はもう思い出せません。その1、2年後、吉祥寺のコミュニケーションセンター(?)のロビーで個展をしているのを観にいったのが最後になりました。

 友人とその写真家がどこで知り合ってどういう関係だったか聞いたことはありませんでしたが、友人はそのプリント技術を高く評価してはいたものの、借金まみれの生活には批判的だったようです。確かに彼は写真を売って生活することを信条としながらも、その売り上げは生活を支えるには程遠く、実際のところは友人知人に借金をして暮らしていたようです(現実として彼はプロカメラマンとしての技術(および機材)は無かったようで、カメラマンあるいは写真家として依頼仕事を受けることが難しかったと思われます)。

 それでもその写真家は、2006年に写真の世界ではわりと権威のある「写真家協会新人賞」を受賞し、その前後にも地方の写真賞をいくつか受賞するほどの実力者で、彼が世田谷移住を機に始めたブログは毎日結構な数のアクセスがあったようです。私も時々彼のブログを覗いていました。そしてそのブログを死の数日前まで続けていたようです。
 ブログには作品制作への思いや日々の食事、訪ねてきた友人の話などが綴られていましたが、思い返せば亡くなる数か月前くらいから、体調の不良や死への不安など、切実な内容が増えていたようでした。何らかの病気のせいだったのか、あるいは貧しい食生活のせいだったのか、いつも体調が悪かったようで、一年のほとんどを床の中で過ごしているようなことも書かれていましたし、そういった状況なので生活保護を申請されようとしていたみたいでしたが、拒否されたのか、そこまで手続きを進めなかったのか、結局生活保護は受けられなかったようです。

 世田谷では2年ほど暮らして、その後、写真家の友人であるミュージシャンの経営する狭山市のアパートに越して数年暮らし(家賃は支払っていなかったようです)、その友人が沖縄に引っ越したのを機に、終焉の地となってしまった千葉県館山市の借家に転居。そこで2年ほど過ごして亡くなられました。

 彼がいくつかの賞を受賞したのは、自治体として初めて倒産の憂き目にあった、夕張市の炭鉱遺産を撮った写真集でした。北海道の小さな出版社が制作したものでしたが、ブックデザインは著名なブックデザイナーの鈴木一誌さん。写真のセレクトも鈴木さんが決められたようです。北海道から東京に転居された際に、その鈴木さんに他の作品(絵とか書とかフォトグラムとか)も見てもらったようですが、ちゃんと写真を撮るようにと諭されて終わったようです。

 彼のブログを見続けていた人は、いずれ彼が亡くなるんじゃないかという思いを共有していたように思われます。残酷と言えば残酷な話です。けれども、彼の友人といえども彼の生活を支え、面倒を見るなんてことは簡単な話ではないわけで、なんというか、世界がネットで繋がっていることの残酷さを見せつけられたような気がしました。

 死後、沢山の写真が発見された無名の写真家の話はときどき聞くことがあります。そもそも生前は「写真家」ですらなかった人が死後偉大な作家として祭り上げられる。作品が変わるわけではなく評価が変わる。作品とは一体何なのか、どういうことなのかよくわかりません。一方で公的な支援を受けて、海外で制作活動を続けているアーティストたちの評価というものがある。美術的、芸術的評価や価値とは一体何なんだろうと考えるたびに、孤独死した写真家のことを思い出します。

2019年5月20日月曜日

大竹誠《様々な時代の都市を歩く 9 ―90年代の街を歩く2—阪神淡路大震災の災害地へ》

1995年1月20日、阪神大震災(1995.1.17)の現場へ


 テレビでは上空から煙のあがる薄暗い街をヘリコプターからの映し出し、「古い木造建築に被害が出ているようだ」とスタジオからのコメントが流れている。しかし、古い木造建築に住まわざるを得ない人がいることを無視した「木造悪者論」に聞こえた→墨田区の木造住宅密集地「京島」をだしに使った脅し、あるいは都市が危険であることを隠してきた都市開発。→華やかな都市、消費都市、情報都市、ファッション都市なんでもよいが、都市の潜在的な、また、解決していない問題を忘れた考え→今、目の前で起きている現場を徹底的に取材し記録することではなくて、早くも、次の災害シミュレーションをやるテレビ人→「人災」だと決して言わないマスメディア→ならばと1.20現地へ。東京駅から新幹線で新大阪へ。新大阪でボトルウオーター(芦屋地区の友人宅実家のために)を入手し、「JR西宮北口駅」へ。駅前は夥しい数の自転車。人でごった返している。軍手、タオル、ペットボトル、ブルーシート、ヘルメットなどを並べる店がある。→国道2号を神戸方面から歩いてきた人、逆に西宮から神戸方面に行く人。みんなリュックを背負い、キャリアカーを引き、防塵よけマスク、軍手姿→歩き出す。少し先から様相が変わる。道路沿いの建物は、均一ではない倒れ方、押しつぶされた住宅、上に持ち上げそのまま下へ落とされた状態の住宅。瓦やモルタルの落下、剥離。内部からガスの爆発で壊れたような倒れ方の建物。新しく建てられたRC構造のビルのひび割れした柱や壁。道路を塞ぐ倒壊家屋、電信柱、ブロック塀→爆撃を受けたようにある部分が徹底的に破壊されている。その倒壊家屋が延々と芦屋まで続く。倒壊した家と、倒壊しなかった家との間には、どんな差があったのか。手をつけられず老朽化したものがやられ、金をかけてつくられたものはやられていないということか。新しい鉄筋のビルも倒れている。→「緊急車両」マークを張った車が往き来する。普段は歩くこともなかった街を、皆が行列をつくり往き来する。これまで歩いたことはなかったであろう20キロメートル離れていた街が繋がっていることを、知らない人からあちらの情報を聞くことを、道路で休息することを、道路沿いで飯を食べることを、人の家を心配そうに覗くことを、20キロメートルを歩けることを学び、実践する人々。

 芦屋市・翠ヶ岡の友人宅へ:大規模な集合住宅だ。外見上はなんでもないようだが、水が出ず、停電し、ガスが出ないとのこと。地震後、奥さんは靴下を二重に履き、スリッパをつっかける。部屋に中は食器が棚から飛び出して氾濫。怪我をしないようにとの判断だ。同時に、電気が来ていることを確かめ、何度も炊飯器で飯を炊いた。非常用にと。さらに中学生の男の子に自転車で街の災害状況を見てくるように指示を出す。そして、水道をひねりまだ出ているうちに風呂桶や容器に水を溜めた。母としての直感の正しさ。→近所では、同じように屋根のシート張り、老人世帯の水汲みを手伝う中学生。おしぼりを段ボール箱で持ち込んだ見舞客、さまざまな紙に消息を書いて壊れた家に掲げた人、近所の片付けを手伝う人、自転車を貸し借りする人、自転車修理の手書きビラ、バイクのダンピングセールの手書きビラ、自転車で街の様子を見回りする父と子がいた。→災害遭遇時の的確な判断と対応。予備・緊急用の生活用品のストックの必要性。巨大なインフラではなく、ミニサイズのインフラシステムを!これは、すでに60年代に提案されていた考えではなかったか?生活を緊急用のプログラムに変える被災者。

 芦屋駅前スーパーの倒壊現場、阪神高速道路の倒壊現場→建築工学、土木工学は何をやってきたのか。航空機や自動車ほどの緻密な研究があったとはとても思えない。かなりいい加減な計算しかやってこなかったのではないか?あるいは、専門家だけで考え出された「数値とか基準」を鵜呑みにしてきたツケ→生活の具体的なプログラムを考えない「プロのプログラム」がどうなるのかという実例→倒壊しない建築、倒壊しない構造物なんて可能なのだろうか。倒壊しない建築は不可能であると、なぜ発言しないのか→時間とともに建築も経年変化して、劣化するのだから、いずれ壊れることをプログラムに入れておく設計が必要となる。→ということは、修正が効かないメガロニックなものを都市空間に持ち込まないことが必要となる→厚さ1メートルほどに潰された家々。消費社会が生み出すものたちをどんどん囲い込んだ家々の崩壊。表層的なデザインも壊れてみるとただのゴミとなる→壊れたその風景は、不謹慎だがアートのように見えたし、だだっ広いアジアの大地のようにも見えた→夜になってもリックを背負い歩く人々。多くの人々が人を捜し、あるいは一時的に身を寄せる先へと歩く。これほど街を歩いた経験はこれまでになかったのではないか。歩くことで、どこが通行でき、できないか。どこが危ないビルか、どこに地割れが生じ、どの店が開いているのか、どこの人が亡くなっているのかなど把握しているようだ→マスメディアに頼らない情報が街に行き交っている→大阪までの帰りの電車。人々はさすがに疲れきった表情をしている。これほどの放心状態の人々の顔はこれまでに見たことがなかった。これほどの疲れを私たち都市社会は忘れていた。いや、隠してきた。→被害の少なっかった大阪は別世界のように、ネオンが輝き、建物に明かりがともっていた。

1.27日再び現地へ


 青木駅から長田へ→被災地の人たちと同じように20数キロメートルを歩くこと。臨時バスが運行しているが、まだ多くの人は歩いている。人が歩くことで街に流れができている。その流れに乗ることで方角や方向感覚を養える→歩けば歩くほど被害が延々と続いていることが分かる。切れることがない。→スプロール化したメガロポリスをはじめて襲った災害。どこの都市にもある普通の街を襲った災害。そのような意味ではこれは、私たちの街が襲われたことと同じだという認識。「東京でなくてよかった」と語る人々に、では「関西は何なのか?関西ならば、長田ならば災害にあってもよいのか?」。東京が守られて、何があるのか?むしろ「東京でなくて残念と言い返そうか」。そのような想像力が欠如している、節度が欠如している。→長田は靴製造の町工場が集まって町。木造の二階建ての長屋が路地に連なり、路地を介在して半製品や完成品が行き交っていた。その町が全滅、焼失してしまった。焼けた臭いが鼻をつく。菅原市場も同様の状態。アーケードは焼け落ちている。鉄道の高架基地も橋脚が座屈して電車が落ち込んでいる。→延々と歩くことで気づいたこと。川沿いは地盤が柔らかいのだろうか、倒壊家屋、護岸の崩れ、橋脚のズレなどが多い。同様に、崖地附近あるいは、坂道沿いでの被害が多い。被害の激しい地区のすぐ隣でそれほど被害を受けていない地区もある。地震の波はかなりムラのある、ずいぶんと不公平なものだ。その不公平さの原因を考えてみること→倒壊した建物の残土と、通行する車両の排気ガスとで街が埃っぽい。きれいに整備された街でも、一度壊れるとこのようになるのだ。そう見かけの現代都市が隠してきたものとは。→安全性を示す基準であり、基準の数値・数学、美しく見せるためのルール(どんな都市にしようかといったプログラムも議論にないのに)、衛生的思考、つまり脱前時代、脱土着、脱貧乏の思考。


3.1日3度目の現地歩き


 住吉から王子公園〜灘〜鷹取を歩く。3ヶ月あまり経過してが、まだ手がつけられない状態である。潰れた家屋の中に入れ込まれた黒色のゴム製フレキシブルダクトと残土に捧げられた「菊の花と茶碗」。再会しそれぞれの無事を確かめあう人。街角に置かれたトイレ。半壊しながらも営業を始めている喫茶店、中華料理店。街の活気はやはりこのような店の営業から立ち上がる。あるいは市場の営業再開から。→分断された鉄道を乗り継いで通勤、通学する人々。かつては通ったこともない道を人々が通ううちに自然と出来上がった通い道がある。しかも何本もできている。その一本一本に、そのコースを選んだ人々のクセのようなものを感じる。神社の境内を通り、植栽の垣根の多い所を通り、寄りたい店を通り、車の少ない所を通り、しかも最短距離のルートをつくり出した。したがって人の流れに着いてゆけば、土地の人でなくても目的地に辿り着ける。→タクシーの運転手さんの話し:「私は舞子町に住んでいるのだが、明石海峡横断橋の橋脚工事のおかげで命拾い。橋脚工事は巨大なもので何千本もの杭を打ち込んだので、淡路島北で発生した地震の波が、まず舞子のほうへ向かったが、その杭で向きを変え東の神戸の方へと進んだ」→横断橋の工事を今回の地震の原因とする小田実氏の意見。「神戸の山をあれだけ崩し、横断橋の工事のために大地にあれだけの穴を開ければ、大地だって持ちこたえられなくなるだろう。今回の地震は大地の怒りなのだ」。→タクシーの運転手さんの話。「長田は複雑な所で、役所がこれまで何をやるについても上手くいかなかった。長田の消防活動が遅かったのはそのことと関係している」。「道路に飛び出した倒壊家屋も多いが、まだ、手が付けられていないものは複雑な関係のある人達のものだよ」。→火災被害の大きかった長田の街の電信柱(なぜか電信柱は倒れずにあった)に掲げられた神戸市からのお知らせ「復興計画」。そこには、どこにでもよく見かける都市計画の絵が描かれている。街の中央に大きな街区ビルがあり、その周りを緑地と太い道路が取り囲むもの。ちょっとまってよ!これまで何十年にも渡り長田の人たちが育て、作り上げてきた街の風景はどこへいったの?誰がいつどのような議論をへて描いた都市計画なの?地震後の反省の上にたつ計画とはこのようなものなの?わずか一ヶ月あまりの時間で考えられたものと、何十年もかけてつくられたものとの違いに愕然とする。憤りをいだく。あまりに興奮したせいかカメラのフルム巻き取り操作を誤り、裏蓋を開けてしまう。おかげで、その「お知らせ」を撮影したコマは光りかぶりとなってしまった。→兵庫県南部大地震の現場を見ているうちに「あらゆる建築物は壊れるのだ」といことがあたりまえのこととして思えてきた。そして、その目で東京を眺め歩いてみると、ああ、この高速道路は倒壊するな、あの建物も倒れるだろうなと感じるようになった。そのような第六感を鍛えて行くことも、都市を歩くトレーニングの一つとなろう。



後日談


 東京造形大学のグラフィッククラスで、学生たちと阪神大震災をテーマにしたビジュアル表現を試みる。学生たちは、新聞記事などを参考に試行錯誤。写真を選んだり、文言を書いたりラフスケッチ。ラフを元に版下をつくる。最終的にはシルクスクリーン印刷。木枠にシルクを張り、感光製版。版をを洗い目止めする。手を抜けない作業なので、一連の動きに身が入り出す。色違いの版を作り、刷り始めとなる。一版では定かではなかった図像が、版を重ねることで鮮明となってくる。学生から歓喜の声。「やったね」。「災害」の「災」の字をクレーンで吊り上げると、「人」だけが落ちてくるビジュアル。「人がもたらした災害」というメッセージである。もう一枚は「災害写真」を背景に、この災害で亡くなった死者数6305を大きなもにで表示したビジュアル。

 出来上がった作品をどうするか?そうだ、小田実に送ろうということにした。小田実さんに送ったら(文学者住所録から)、後日、小田さんから返事があった。彼が出演した大阪のシンポジウムで、舞台の背景にそれら学生のポスターを貼り出してくれたというもの。その手紙を学生に見せる。

2019年5月12日日曜日

志子田薫《写真の重箱 9 —ギャラリー巡り》

 皆様こんにちは。写真、撮ってますか? そして写真を見てますか?

 私は新しい職場や仕事、そして通勤にもなんとか馴染みつつ、職場の周りを毎日少しずつ撮り始めています。
 しかしショックな出来事が……
 メインで使っているフィルムカメラは、巻き戻して裏蓋を開けるまではカウンターがリセットされないので、完全に巻き戻ったかどうかは、フィルムが巻き取り側から外れた感覚と巻き戻しレバーの空回りを確認してということになります。
 今回もいつものことなので普段通りにやっていたつもりでしたが、ちょっと考え事をしていたからでしょうか。
 いつものように裏蓋を開けたところ、まだフィルムが巻き取り側に残っていました。
完全に巻き戻したと思っていたフィルムが巻き戻し切れていなかったのです。慌てて裏蓋を閉めたところで後の祭り。転職初日に撮った写真が感光してしまいました。こんなことは初めてです。

 当初は36枚撮りで1日1枚撮れればちょうど良いかなと思ってフィルム縛りにしたのに、月の真ん中で既に3本目に突入してしまったことに加え、初日分が感光してボツになってしまったこと等からフィルム縛りは早々に諦め、もう少し肩の力を抜いて撮り続けることに決めました。


 いつも書き出しで「写真を見てますか?」と問いかけておきながら、実はここ最近あまり写真を見に行けていないんです。
 というのも、もちろん個人的に慌ただしい時期にぶつかっていることもありますが、最近見たい写真展の会場(ハコ)が増え、しかもそれらが例えば都内であっても地域的に分散しているから、ルートを考えるのが大変になってきたんですよね。日曜休みのところも増えたので、物理的に限界が出てきました。さらに自分が展示に参加していたりすると、そこも含めてルートを考えねばなりません。
 ここ最近でもお世話になった方の個展や友人の参加しているグループ展など、いくつも行き損ねてしまいました。

 それにしても、まぁ今に始まった事ではないのですが、最近は写真展を開催できる会場の候補として、写真専門のギャラリーや公共の貸しスペースだけでなく、美術系ギャラリーやギャラリーカフェ、おしゃれなカフェの片隅にコーナーがあるなど、裾野が広がりました。写真の「展示」自体のハードルはかなり低くなりましたね。

 この私も、ギャラリーカフェでの企画展参加や、アート系書籍をメインで扱うブックカフェでの個展経験があります。
 そしてギャラリーといえば、もともと絵画をメインで展示するギャラリーが広尾にあり、そこで生け花とコラボレーションというかルームシェアというか、ともかくそのギャラリーで初の本格的な写真展示を行ったことがあります。
 その後このギャラリーは恵比寿に移転し、今では絵画はもちろん数多くの写真展を開催しています。
 実は生け花の方々から、移転後のギャラリーで又やりませんかとお声がけ頂いたのですが、個人的事情により辞退する事に。
 折角のチャンスだったのだから、もったいなかったとは思いますが、ある意味そのお陰で今があるので、これも縁という事ですかね。

 とはいえ、やっぱり古い頭だからでしょうか。きちんと写真専門ギャラリーで展示をしたいなという思いがあります。

 ちょっと話題が逸れてしまいましたので、話を写真ギャラリーに戻しましょう。

 数年前は自主ギャラリーやメーカー系ギャラリーが閉廊する話を聞くことが多く、寂しかったのですが、最近はそれらとはまた別のギャラリーが様々な所で出来つつあります。
 それは(流れ自体は過去にあったものに近いのかも知れませんが)、新しい写真学校が併設するギャラリーや、それらの仲間から派生したギャラリー、写真関係者が開いたギャラリー、そして異業種が手がけるギャラリーなどです。
 これらはある意味場所に縛られる必要がありません。なにしろ展示するにしろ見るにしろ固定客(関係者)が来る前提がある訳ですから、銀座や新宿などの写真ギャラリーが多い場所に作る必要がないのです。

 その一方で、写真専門のレンタルギャラリーの中には岐路に立たされている所も出てきているようです。
 今までは、写真を展示する場所はそれらに限られていましたが、別カテゴリの展示場所が増えてきたため、展示する人たちが分散することに加え、携帯やモニタで見られることを前提とする写真が増えてきているので、今までのようにプリントを見せる必要性を感じない人が増えてきていることもあるのでしょう。

 今後はこの流れがさらに細分化されていくのかもしれませんね。そうなれば写真展を見にいくのが今以上に大変になりそうです。


 以前写真集の話を書きましたが、私は首都圏近郊に住んでいる事もあり、写真集目当てで神保町などによく顔を出します。カメラを探しに新宿や銀座、その他の地域のお店に行く事も。古書でも中古カメラでも実店舗がある場合、可能であればお店に出向き、基本的に自分の目で見てから買うようにしています。

 ネットで物を買うときには、内容や商品状態が想像通りの状態かどうか届くまでワクワクドキドキな気分で、想像以上に良い状態だと本当に嬉しいのですが、例えば商品が傷ついて届くのは受け取り側はもちろん送り手側にとっても悲しい。しかもそれが送り主側のミスや商品に対する気遣いのなさから生まれたものであればなおさら……

 書籍を例にとると、表面はもちろんですが、角などは傷みやすく、意識的に保護をしなければなりません。それを怠った状態で送られてきた商品の角が潰れていたら……これは運送業者の責任とは一概に言えないですし、若しかすると販売側が商品確認を怠ったか、既に傷つけてしまった状態のものを発送したのではと考えてしまいます。

 売買された商品にせよ、そして献本や返品の類なら尚更、そのモノを丁寧に扱いたい。最近連続で似たようなお話を聞いただけに、余計にそう思う次第です。

 逆に先日訪れた古書店は、支払いで私が小銭を準備している間に、素早く本にビニールカバーをかけ、更にラッピングペーパーで包み、袋に入れる迄の一連の動作をスムーズに行いました。実はあまりにも自然な動作だったので、店頭では気付かず、帰宅してから気がついた次第です。

 人によっては過剰に思えるかもしれません。でも私には、そのお店が商品に対して愛情を持って扱っているお店だという印象を受けました。


 今回はいつも以上に纏まりがなくなってしまいました。書きたいことが迷走してしまったため、継ぎ接ぎだらけの文章になってしまった感があります。自分に喝を入れ、新しい年度はもっと内容を充実させなければと思います。

 ではまた次号。

鎌田正志《デザインの陰り 1》

エドワード・ホッパーな爺さんの圖


好きな画家の一人にアメリカ人のエドワード・ホッパーがいます。2000年の7月に東急Bunkamiraで初めて本物を見ることができました。好きな作家の絵の本物を見ると「複製(画集、図録)」との違いがよくわかるのは当然として、その絵を描こうとした作家の心に少しだけ近づけたような気がしてくるものです。本物を見るのは大事、ということよりも本物を見ないとわからないこともあるなぁ…と、そのとき思ったのを想い出します。

写真は私の故郷である島根県浜田市の自宅近くの小さな入江で撮った写真です。今年の初め父が92歳で亡くなったことで、この町に血縁者がひとりもいなくなり、もう帰省することもなくなりそうです。

デザインの周辺……INSIDE AND OUT

8号まで続けていたメールマガジン『月刊デザインの周辺……INSIDE AND OUT』をリニューアル。メールマガジンとしては記事の分量が多く、メール形式では読みにくさもあった問題を解決するために、メールマガジンでは記事の紹介に徹して本文はこのBlogで読んでいただくことにしました。メールマガジンではその構造上、無理な改行をせざるを得ません出したが、こちらではそんな規制もなく、ずっと読みやすくなってい ます。また記事掲載も、月間ということにこだわらず、執筆者に合わせて自由に掲載することにしました。『デザインの周辺……INSIDE AND OUT』は今後も精力的に発信し続けます。

2019年5月11日土曜日

大竹誠《様々な時代の都市を歩く 8 —90年代の街を歩く1—バブルで散々いじり回された都市を離れて》


「都市の死」とともに開始された、「街づくり」


 飯田橋に事務所を構えた後の数年後。「千代田区街づくり協議会」へ参加することになった。飯田橋から神田神保町界隈は地上げの現場でもあった。古い長屋が底地買いされていた。「地上げ」。→知らないうちに地域を離れる地主、家主。「地上げ」の横行を「それは困る!」と訴える借家人。「地上げ」の実体を把握していない(把握していても知らんぷり)役人→ヒューマンスケールに富んでいる古くからの木造住宅や路地の草花を残したいと述べる人がいて、あれは困るという人がいる→テレビではそんな対比を紹介。「まちづくり協議会」でNHKテレビに出場も。事前に決められた人が決められたことの範囲語る虚しさ。司会者も他の人に話を振らない。→銀行では、土地を売った金持ちがソファにでんと座り、行員と親しげに話している。飯田橋を離れ、世田谷に住み出したと。「へえ~」そうなんだ。ショートケーキの美味かった店も閉店。歯こぼれ状の街が現れた。→そんな中で、飯田橋の古くなり汚れの目立つJR高架線下に壁画を描いたらとプロジェクトが始まる→いいだべい(飯田橋の壁ゆえ)と商店のご主人の提案。武蔵野美大の学生らの下絵+プロのペンキ屋さんによる壁画が生まれた。1000匹の大小クジラ群。スーパーグラフィック。まちづくりで行政がお金を出せるのは、公共の空間や、道路上だから、この手のプロジェクトは全国に広まり出した。

 そんな中、相模原駅の商店街の「カラー舗装化」の仕事がやってくる。相模原駅近くの「街づくり協議会」と一緒に考える仕事。商店街の活性化の提案。一つは、「道路のカラー舗装化」、もう一つは「ストリートファニチュアー」。「どんなカラーにする?」「どんな街路灯、どんな入口ゲートにする?」意見を聞いて、該当するであろうデザイン案を、外国の雑誌などから切り抜きパネルに貼りプレゼ。十分な時間がない中でのプレゼは、どこの事務所もこんな具合であった。→一応の提案をした後、打ち上げということで、「まちづくり協議会」の人たちと、箱根へ温泉合宿。嬉しいような面倒くさいような気分で。仕事にはこのような付き合いがついてくる。

 「トヨタ自動車」ディーラーショップの実態調査の仕事も舞い込んだ→東京、横浜のディーラーショップをめぐり歩き、問題点を探し出す仕事だ。ショップサイエンス(「環境計画」という会社が編み出した、店舗デザインの検証の研究書)の視点から調査分析。街の中にあるディーラーショップの見え方、ショップのデザインの形式などを、写真取材、図面化。大した提案ができるわけではないが、看板の見え方、周りの環境の中で目に立つ建物のありかたなどをレポート。その延長から、銀座「SONY」ビル2階のトヨタ自動車ショールームのリニューアルの仕事もやってきた。ビル内を歩いて回り、銀座の街も歩いた。銀座はギャラリーの街。そこで、ショールームの壁などを取り払い、オープン型ショールーム“TOYOTAギャラリーを提案。あのギャラリーは2階から車を入れる方式であった。→友人に誘われて。飯田橋から両国へ事務所引っ越し。同じ階に友人の事務所「E.T.プランニング」(東京の東に位置して、その立ち位置から都市を考えようと命名)、下の階に「現代建築思潮社」(『住宅建築』を発行)。「E.T.プランニング」との街の議論。東京都の政策で、都庁が新宿に移転。その界隈は建設ラッシュ。加えて、渋谷など東京の西側に大規模な資本が投下された。一方、頭部低地の下町は現状維持。ちょっと待ってください!東側には江戸以来の大衆文化が根付いている。それを忘れて東京の都市計画もないだろうと。東に拠点を置いて活動をしてゆこうと、両国に仲間が集まり出した(以降の東側には、「スカイツリー」「錦糸町駅界隈再開発」「すみだ北斎館」などが建てられたが)。「E.T.プランニング」といくつかの街の調査の仕事を実施。


再びヨーロッパへ(友人の会社「メディア・リンク」のツアーに参加)


 「電子ブック」を手がけるプロジェクトが始まった。紙に比べ電子メディアならば、生産にかかるエネルギーが少なくて済む。それが大メーカーを動かして友人の会社のビッグなプロジェクトとなった。「電子ブック」のパッケージデザインセクションとして参加。契約が結ばれたところで、ヨーロッパ研修ツアーをと繰り出した。→デジタルブックの研修先があるわけではなかった。そこで、最先端の話題のパリの施設などを織り交ぜて散策。→「パリの蚤の市」:高架線橋脚の下、ゴミと区別のつかない品物を売る人、壊れている玄関錠を売る人、靴の片方を売る人、通常の店では考えられない品物が並べられ売られる。文字通り多国籍な人たちが群れている。同行の仲間と「蚤の市プレゼント交換」。→「パサージュ都市」あるいは「博覧会都市」パリ:異なる建物をガラスの天蓋で覆い歩行者専用の街路ができた。ガラスのショーウインドー、鉄製の装飾柱、シャッター、照明、入り口アーチ、時計。パサージュからパサージュへの連続、接合→「科学都市ヴィレット」へ。屠殺場であった場所の再生。体験できる未来都市の感覚。徹底してキュービックな建物群。かつてあった水路の再生→ミュンヘン、ニュルンベルグへ。中州の科学博物館。原寸大の飛行機の陳列。夜のビヤホールへ。数百人がわいわいがやがやの大空間。両腕に1Lのジョッキーを45杯差し込み束ねて運ぶ店員。あちらこちらから歌が聞こえてくる。机に乗って踊る人もいる。日本のゲームを即興的に披露し、その場の人たちと戯れる(ちん!~ちょう!~ぶらぶら!そして、ちょう!~ちん!~ぶらぶら!というゲーム。「ちん」=両手合掌で人へ向ける。指された人は「ちょう」と誰かに向けて言うだけ。言われた人は「ぶらぶら」=片手で蛇が動くような動作で誰かに向ける。この繰り返しをしてゆくだけ)。大いに受けた。帰りは路上で小学生の集団に遭遇。すかさず『菩提樹』の曲を歌う。→「ニュルンベルグ」:古城の街。水路があり、金属細工のおもちゃが店頭を飾る→スイスの「ベルン」へ。思わぬ水の豊富な川辺の街。自転車が多く排気ガス対策を理解する市民。古い建物多く、古い噴水も多い。建物一階はアーケード、そして地下がある。そこは核のシェルターを兼ねたスペース。アーケードに並ぶ野菜には産地の名前が表示されている。チェリノブィリの不安の影か。この街はアインシュタインも住んでいた。→「インターラーケン」:リゾート地。ユングフラウヨッホ山へ。登山鉄道で展望台直下まで辿れる。そこは銀世界。Tバーで移動して、スキーができた。→「電子ブック」のパッケージデザインでは、当初は弁当箱ぐらいの厚さがあった。ハードウエアーがまだまだ圧縮できなかった。漫画の時代ゆえ、両面画面のボディも手がけた。FDに入れられた漫画が要画面に表示されると、一同歓喜の声!片手で操作できる薄型も製作される。現在のi-podと変わりはないデザインだった。使う機能を優先させればキーもほとんどないデザインとなるのは当たり前。その画面で、囲碁ソフトを表示しゲームしだす。そんなプロジェクトが獲得できたのは、やはりバブルだったのか。

香港へ(メディア・リンクのツアーに参加)


 九竜城址のスラム取り壊し寸前の廃墟、その前の道路の移動祭壇。取り壊されるのを惜しむ人の祈りの場か。隣接地の共同住宅もすでに激しい増改築が行われている。窓からは竿が突き出され、開口部での増築をあちこちで目撃。九龍城跡のスラムがなくなっても、香港は街全体がカオス。→市場。上海夜店通り、店舗の前に臨時の露店が店を開き、街を包み込んでいる。どこからどこまでが店なのか?重ね着のようだ。道路上で店を開くリアカー利用の店。チェックがあればいつでも逃げられる。→「女人街」「男人街」「スポーツ・シューズ街」など→ギャンブル都市マカオへフォーバークラフトで渡る。夜間、荒れ模様に中、船は速度を上げ、たびたびバウンドしては上下して疾走。並ぶギャンブルビル。ゲームセンターのようなスロットマシーン回廊。シークレット・ルームの静けさ、殺気。ルーレットにトランプ。→背の高い金網フェンスで四方を囲まれたダウンタウンの市場。鳥かごに詰め込まれたニワトリ。血を抜かれぶら下げられたニワトリ→高層ビルの真下に広がる屋台。ニワトリ、魚、カニが並ぶ。ランチに食べたスープには、鳥の皮つき脚と爪が入る薬膳→圧倒される看板。道路に深くかぶさる看板。縦書き、横書きと氾濫する看板。所狭しと並ぶ看板、負けじと大きさとデザインを競い合う。→半日、中国の経済特区である「深圳」へ。駅前は巨大な看板。マルボロもある。→パスポートチェックのお姉さんの放漫な態度。高座からパスポートを投げて返す。即席に建てられたような超高層ビルの下はバラック群が広がる。とにかく活気に満ちている。地方へ向かう長距離バスには、縞柄の旅行バッグをいくつも持った人の列。埃に満ち砂漠の中にできたような都市である。昼を取ろうとレストランへ。注文とともに、漢字をメモ用紙に書いて「醤油」を催促。ソルトで通じなかったが、漢字なら通た。お互いに笑顔。

再び「住宅情報」のグラビアページ企画。「住んでみたい街」のまとめ役として街へ



 バブリーな建物とバブルの波を受けていない建物の混在とアラベスク。気になるものの撮影、筆者が書こうとした視点----「住んでみたい街の隣の街に住む」「何かを使用とした時に訪れてしまう街」「都会の疲れを癒す街」「新旧の表情が混ざった街」「急行が止まらないから落ち着ける街」などなど。人が街をどのように捉えているのか?多彩な解釈があることの確認→写真家が撮ろうとしたもの、撮ろうとしなかったもの。現場の空気の読み方の写真家の違い。じっと待つ写真家。女子高校生を追いかける写真家。3時間でも撮れるまで歩く写真家。小一時間ではい終わりとなる写真家。→生活の痕跡、歴史の記憶、街の気分、目の前を行く人、植栽、猫、水、畑、空→「匂いのする街」「食をそそる街」「甘くけだるい匂いが漂う街」→流れる水、漂う水。凸凹の肌触り、つるつるとした肌触り→影のある街、影のない街。街の音がある街、無い街→歩きやすい街、歩きにくい街→ものがある街、ものが無い街→街の路上集積物から街を読む。この第二期は、56の街を歩いた。事務所へ戻り、二千分の一の縮尺の白地図(役所の都市計画課で入手)へ歩いた軌跡をはめ込み、ランドマーク、撮影地点など記入。同時に自分で撮影したポジも現像出し。

2019年5月10日金曜日

松村喜八郎《映画を楽しむ8 ―我が愛しのキャラクター列伝⑥》



マレル艦長とシュトルベルク艦長/1957年「眼下の敵」


 4月半ばに久し振りの潜水艦もの「ハンターキラー潜航せよ」が公開される予定で、これがなかなか面白そうだ。潜水艦ものには名作が多く、その先駆けとなった「眼下の敵」は、南大西洋で繰り広げられる米駆逐艦と独潜水艦Uボートとの攻防戦の面白さもさりながら、両艦長のキャラクターがいい。駆逐艦の艦長がマレル(ロバート・ミッチャム)、潜水艦の艦長がシュトルベルク(クルト・ユルゲンス)である。

 貨物船の航海士だったマレルは、出航してから艦長室を出てこないため「船酔いなのさ。海軍も落ちたもんだ。民間人を送ってきた」と不安視されていた。その不安は、レーダーが潜水艦の司令塔らしきものを捉えてからの的確な指示で一掃される。マレルは、受信しやすいよう減速して追跡させ、レーダー影の進行方向が変わっても一定の進路を保つ。Uボートなら、相手も我々の存在をキャッチし、変針してみて敵かどうか確認するはずだ。変針に合わせて進路を変えれば潜航されてしまう。この推測どおりレーダーに映っているのは偽反射だろうと判断したUボートは浮上しての航行を続ける。

 一方、シュトルベルクは第一次大戦でも戦った古強者で、偽反射と決めつけるような無能な男ではない。それでも潜航しなかったのは水中航行では速度が遅くなり、48時間で僚船と接触して暗号書を受け取るという重要任務を果たせなくなるからだった。任務に忠実だからといってヒトラーを信奉しているわけではなく、むしろ批判的であることが、艦内の貼り紙“総統が命じ、我らは従う”を見る表情で分かる。シュトルベルクは信頼の厚い副長に言う。「この戦争に栄誉はない。勝っても醜悪だ」と。ユルゲンスには古武士のような風格があり、このキャラクターには適役だった。

 いつも眠っているような風貌のミッチャムも良かった。マレルには、自分の船が魚雷攻撃を受け、帰国させるために乗せていた新妻を死なせてしまったという悲しい過去があるのだが、ドイツ憎しの感情に凝り固まってはいない。軍医に「悲惨と破壊に終わりはない。頭を切り落としてもまた生えてくる蛇だ。敵は我々自身の中にある」と語り、激戦の最中でも沈着冷静だ。発見したUボートが急速潜航し、魚雷を発射してくることは確実なのにジグザグ航行をさせない。艦尾魚雷を使わせ、再装填している間に爆雷攻撃しようという作戦だ。いつ発射するかの判断を誤れば魚雷の餌食になる危険な作戦だが、「潜航に5分、潜望鏡深度に戻るのに3分、確認に2分、今から10分後に発射だろう」という読みが的中する。発射のタイミングに合わせて取り舵を切った駆逐艦の脇を魚雷が通過していき、間一髪セーフ。さぁ反撃開始だ。

 駆逐艦の艦長が容易ならざる相手だと知ったシュトルベルクは、爆雷から逃れるために我が艦の深度をつかませようとする。まず深度100に潜航し、爆雷投下の準備が終わった頃を見計らったうえで深度を150に変更。だが、マレルはそれを予期していた。敵がさらに潜航し始めたことを確認してから爆雷の深度を150に設定させる。爆雷投下。Uボートが激しく揺れ、艦がきしむ。この絶体絶命の危機を、何度も死線をくぐり抜けてきたシュトルベルクは見事な操艦で乗り切る。

 Uボートを見失ってもマレルは慌てない。再びUボートに遭遇できるであろう地点を航海士に計算させる。これまでの敵の動きから重要な任務を帯びていることを察知し、必ず進路を元に戻すと読んでいるからだ。計算した通りの地点でUボートを発見し、第2ラウンド開始。こんな調子で両者の攻防を書いていると長くなるし、観ていない人の興をそぐのでやめておくが、マイケル・パウエル監督の演出が冴えわたり、マレルとシュトルベルクが顔を合わせる場面の清々しも忘れ難い。シュトルベルクが敬礼すると、マレルも敬礼を返す。互いの尊敬の念がそうさせたのだ。

トッシュ・ハーン二等兵/1969年「燃える戦場」


ロバート・アルドリッチ監督の戦争アクションに登場した看護兵で、後にも先にもこんなユニークなヒーローはなかった。演じたのはマイケル・ケイン。その型破りなキャラクターは指揮官が作戦の内容を説明する場面で端的に示される。


 南西太平洋・ニューヘブリデス島の英軍基地。指揮官が米軍から派遣されてきた日本語に堪能なローソン大尉(クリフ・ロバートソン)を紹介し、1週間後に近くの海域を通過する米軍船団を守るため、島の北部にある日本軍基地に潜入して無線機を破壊してくるよう命じる。ローソン大尉が来たのは、無線機を破壊した後、持参した無線機で日本語の平常通信を行い、基地に異状がないと思わせるためだという。話を聞き終えてトッシュが手を挙げて質問する。

「ローソン大尉にもしものことがあれば、作戦変更もあり得ますか?」

 この発言に一同唖然。「もしものこと」とは死ぬことではないか。できれば危険な任務は回避したいという本音が透けて見える。作戦変更などあり得るはずもなく、指揮官は日本語の偽装通信は時間稼ぎであり、無線機を壊せばまずは成功だと話す。ローソンは、それなら俺を呼ばなくてもいいじゃないかと思ったはずだ。ローソンは戦闘経験がない。最前線から遠い基地で日本軍の無線を傍受するだけの日々を満喫していた。「お門違いだ。戦争好きなら他にいる」と、一度はニューヘブリデス行きを拒否した人物である。戦闘はまっぴらごめんという点でトッシュとローソンは似た者同士だった。

 だが、作戦が失敗して退却する途中、存在しないはずの空軍基地を発見してからローソンが変わる。このままでは船団が空襲に遭う。自分たちの無線機を失っているので、知らせるには基地に帰るしかない。部隊は日本軍の追跡をかわしながらジャングルの中を進む。すると、拡声器を使って英語で投降を呼びかける声。

「諸君が基地へ戻る気なら漏斗を通る水と同じだ。今どこにいてどの道を通ろうと、必ず境界線の前に出る。漏斗と同様、先細りの運命だ。基地に近付くほど我々の網は狭まる。この島の空軍には度肝を抜かれたはずだ。戻って報告したいだろうが、諦めてもらう」

 声は山口少佐。演じているのは高倉健。初めてのアメリカ映画出演だった。山口少佐が言う境界線とは、ジャングルを抜けた場所に広がる草原のことで、その先に英軍基地がある。草原では身を隠せないから銃撃を逃れることは極めて困難だ。山口少佐は、今すぐ全員が投降すれば、飛行機の存在が公然の秘密となる1週間後に釈放しようと提案する。何度もこの呼びかけが続き、心理的に追い詰められて投降しようと言い出す兵士が出てくるが、トッシュもローソンも山口少佐の言葉を信じない。違うのは、なんとしても基地に戻ろうとするローソンに対し、トッシュは北に向かおうと提案することだ。

「北に引き返して2日も寝てりゃ後は笑っておしまい。月曜の朝になれば敵は船を沈めるのに大わらわだ。俺たちを探すどころじゃない。のんびりと基地にご帰還さ。北は盲点なんだ。絶対に探しっこない」

 この逆転の発想に、ローソンは「放っておけば大勢の米兵が死ぬんだぞ」と噛み付く。それでもトッシュは「そりゃ何百人かはな。運が悪かったのさ。連中のためならやるだけのことはやった」と太々しい。血も涙もない人間とも言えるが、危険な戦闘を拒否する思想は一貫している。だから、仕方なく行動を共にして草原を駆け抜け、一人だけ基地に生還したトッシュは、あと一歩のところで銃弾に倒れたローソンを讃える。

草原に倒れているのは誰かと聞かれてこう答えるのだ。

「あれは…どえらい英雄です。日本兵を15人も殺した」

 自分が英雄になれば、有能な兵士として再び危険な前線に送り込まれかねない。これまでどおり臆病者と思われている方がいいと考えたのだろう。アルドリッチ監督は、トッシュに反戦思想を込めたのではないかと思う。

 ついでに書くと、山口少佐が立派な軍人として描かれているのがうれしかった。出てこなければ、内緒で投降してきた兵士を処刑すると言っていたのに、実際には銃声だけ聞かせ、ホッとする兵士に「本当に殺すと思ったか?」。健さんは、日本軍を悪く描いていない脚本だったから山口少佐役を受けたのではないか。後年、大ヒットした「ベストキッド」の空手の師匠としてオファーを受けたとき、自分に合う役ではないとして断わったという。ハリウッドから誘いがかかればダボハゼのように食いつく人ではなかった。さすがは健さん!

2019年5月1日水曜日

志子田薫《写真の重箱 8 —ギャラリー巡り》

 皆様こんにちは。写真、撮ってますか? そして写真を見てますか?

 私は新しい職場や仕事、そして通勤にもなんとか馴染みつつ、職場の周りを毎日少しずつ撮り始めています。
 しかしショックな出来事が……
 メインで使っているフィルムカメラは、巻き戻して裏蓋を開けるまではカウンターがリセットされないので、完全に巻き戻ったかどうかは、フィルムが巻き取り側から外れた感覚と巻き戻しレバーの空回りを確認してということになります。
 今回もいつものことなので普段通りにやっていたつもりでしたが、ちょっと考え事をしていたからでしょうか。
 いつものように裏蓋を開けたところ、まだフィルムが巻き取り側に残っていました。
完全に巻き戻したと思っていたフィルムが巻き戻し切れていなかったのです。慌てて裏蓋を閉めたところで後の祭り。転職初日に撮った写真が感光してしまいました。こんなことは初めてです。

 当初は36枚撮りで1日1枚撮れればちょうど良いかなと思ってフィルム縛りにしたのに、月の真ん中で既に3本目に突入してしまったことに加え、初日分が感光してボツになってしまったこと等からフィルム縛りは早々に諦め、もう少し肩の力を抜いて撮り続けることに決めました。


 いつも書き出しで「写真を見てますか?」と問いかけておきながら、実はここ最近あまり写真を見に行けていないんです。
 というのも、もちろん個人的に慌ただしい時期にぶつかっていることもありますが、最近見たい写真展の会場(ハコ)が増え、しかもそれらが例えば都内であっても地域的に分散しているから、ルートを考えるのが大変になってきたんですよね。日曜休みのところも増えたので、物理的に限界が出てきました。さらに自分が展示に参加していたりすると、そこも含めてルートを考えねばなりません。
 ここ最近でもお世話になった方の個展や友人の参加しているグループ展など、いくつも行き損ねてしまいました。

 それにしても、まぁ今に始まった事ではないのですが、最近は写真展を開催できる会場の候補として、写真専門のギャラリーや公共の貸しスペースだけでなく、美術系ギャラリーやギャラリーカフェ、おしゃれなカフェの片隅にコーナーがあるなど、裾野が広がりました。写真の「展示」自体のハードルはかなり低くなりましたね。

 この私も、ギャラリーカフェでの企画展参加や、アート系書籍をメインで扱うブックカフェでの個展経験があります。
 そしてギャラリーといえば、もともと絵画をメインで展示するギャラリーが広尾にあり、そこで生け花とコラボレーションというかルームシェアというか、ともかくそのギャラリーで初の本格的な写真展示を行ったことがあります。
 その後このギャラリーは恵比寿に移転し、今では絵画はもちろん数多くの写真展を開催しています。
 実は生け花の方々から、移転後のギャラリーで又やりませんかとお声がけ頂いたのですが、個人的事情により辞退する事に。
 折角のチャンスだったのだから、もったいなかったとは思いますが、ある意味そのお陰で今があるので、これも縁という事ですかね。

 とはいえ、やっぱり古い頭だからでしょうか。きちんと写真専門ギャラリーで展示をしたいなという思いがあります。

 ちょっと話題が逸れてしまいましたので、話を写真ギャラリーに戻しましょう。

 数年前は自主ギャラリーやメーカー系ギャラリーが閉廊する話を聞くことが多く、寂しかったのですが、最近はそれらとはまた別のギャラリーが様々な所で出来つつあります。
 それは(流れ自体は過去にあったものに近いのかも知れませんが)、新しい写真学校が併設するギャラリーや、それらの仲間から派生したギャラリー、写真関係者が開いたギャラリー、そして異業種が手がけるギャラリーなどです。
 これらはある意味場所に縛られる必要がありません。なにしろ展示するにしろ見るにしろ固定客(関係者)が来る前提がある訳ですから、銀座や新宿などの写真ギャラリーが多い場所に作る必要がないのです。

 その一方で、写真専門のレンタルギャラリーの中には岐路に立たされている所も出てきているようです。
 今までは、写真を展示する場所はそれらに限られていましたが、別カテゴリの展示場所が増えてきたため、展示する人たちが分散することに加え、携帯やモニタで見られることを前提とする写真が増えてきているので、今までのようにプリントを見せる必要性を感じない人が増えてきていることもあるのでしょう。

 今後はこの流れがさらに細分化されていくのかもしれませんね。そうなれば写真展を見にいくのが今以上に大変になりそうです。


 以前写真集の話を書きましたが、私は首都圏近郊に住んでいる事もあり、写真集目当てで神保町などによく顔を出します。カメラを探しに新宿や銀座、その他の地域のお店に行く事も。古書でも中古カメラでも実店舗がある場合、可能であればお店に出向き、基本的に自分の目で見てから買うようにしています。

 ネットで物を買うときには、内容や商品状態が想像通りの状態かどうか届くまでワクワクドキドキな気分で、想像以上に良い状態だと本当に嬉しいのですが、例えば商品が傷ついて届くのは受け取り側はもちろん送り手側にとっても悲しい。しかもそれが送り主側のミスや商品に対する気遣いのなさから生まれたものであればなおさら……

 書籍を例にとると、表面はもちろんですが、角などは傷みやすく、意識的に保護をしなければなりません。それを怠った状態で送られてきた商品の角が潰れていたら……これは運送業者の責任とは一概に言えないですし、若しかすると販売側が商品確認を怠ったか、既に傷つけてしまった状態のものを発送したのではと考えてしまいます。

 売買された商品にせよ、そして献本や返品の類なら尚更、そのモノを丁寧に扱いたい。最近連続で似たようなお話を聞いただけに、余計にそう思う次第です。

 逆に先日訪れた古書店は、支払いで私が小銭を準備している間に、素早く本にビニールカバーをかけ、更にラッピングペーパーで包み、袋に入れる迄の一連の動作をスムーズに行いました。実はあまりにも自然な動作だったので、店頭では気付かず、帰宅してから気がついた次第です。

 人によっては過剰に思えるかもしれません。でも私には、そのお店が商品に対して愛情を持って扱っているお店だという印象を受けました。


 今回はいつも以上に纏まりがなくなってしまいました。書きたいことが迷走してしまったため、継ぎ接ぎだらけの文章になってしまった感があります。自分に喝を入れ、新しい年度はもっと内容を充実させなければと思います。

 ではまた次号。

2019年4月30日火曜日

志子田薫《写真の重箱 7 —ギャラリー巡り》

 皆様こんにちは。写真、撮ってますか? そして写真を見てますか?

 私的な事ですが、今号が発刊される頃には仕事場が変わります。今までの仕事場は「町」にあって、それはそれで地続き感があって楽しかったのですが、今度は「街」というか「都市」なので色々と勝手が違います。
 既にその街には数回足を踏み入れているとはいえ、今まで縁がなかった場所ですので、被写体がそこかしこに溢れており、これからが楽しみです。

 さて、いよいよ花粉症の季節到来ですが、皆さまは花粉症は大丈夫ですか?
 私は、二十年ほど前、……思い返すともうそんなに経つのかとゾッとしますが……、発症して以来、この時期はマスクが欠かせません。
 でも、花粉症対策でマスクをつけると、ファインダーを覗く時に接眼部が曇るんですよね……
 以前の一眼レフには寒暖の差が激しくてもファインダーの接眼部が曇らないように、アンチフォグアイピースなどが売ってましたが、今はどうなんでしょう?
 まあ、デジタルカメラなら背面モニターで撮影すればそんな心配は無用ですから、便利になったものです。

 とはいえ、私はいつもの癖でファインダーを覗いてしまうのですがね(苦笑)



 ところで、前回写真集の話を書きましたが、私は首都圏近郊に住んでいる事もあり、写真集目当てで神保町などによく顔を出します。カメラを探しに新宿や銀座、その他の地域のお店に行く事も。古書でも中古カメラでも実店舗がある場合、可能であればお店に出向き、基本的に自分の目で見てから買うようにしています。

 ネットで物を買うときには、内容や商品状態が想像通りの状態かどうか届くまでワクワクドキドキな気分で、想像以上に良い状態だと本当に嬉しいのですが、例えば商品が傷ついて届くのは受け取り側はもちろん送り手側にとっても悲しい。しかもそれが送り主側のミスや商品に対する気遣いのなさから生まれたものであればなおさら。
 書籍を例にとると、表面はもちろんですが、角などは傷みやすく、意識的に保護をしなければなりません。それを怠った状態で送られてきた商品の角が潰れていたら……これは運送業者の責任とは一概に言えないですし、若しかすると販売側が商品確認を怠ったか、既に傷つけてしまった状態のものを発送したのではと考えてしまいます。

 売買された商品にせよ、そして献本や返品の類なら尚更、そのモノを丁寧に扱いたい。最近連続で似たようなお話を聞いただけに、余計にそう思う次第です。



 さて、年末に「このままでは『写真の重箱』というより『カメラの銀箱』になってしまう」と書いておきながら、年明け一発目にもカメラに纏わる話を書いてしまった反省と、そもそも書いている人間からしても、内容がいささかマンネリ化してきた感がありますから、カメラからはちょいと離れて、ここ数年の写真展を取り巻く環境とSNSとの絡みについて思うところを書いていこうかと思います。



 先日、三好耕三さんの「繭 MAYU」を観にPGIへ行ってきました。会期が長いからと油断していたら最終日。こういうパターンが多すぎるので、なるべく早く会期の前半に行かなければと思うのですが、スケジュールの都合でなかなかうまくいきません。会場でバッタリ会った知り合いもいたので、自分だけではないのかもしれませんね。

 写真は16×20インチの大判カメラで撮影されたモノクロームの作品。30点近くはあったでしょうか。
 自然光のみで撮影されたという、繭の入った「蔟(まぶし)」と呼ばれる枠組みが、大判のカットフィルムの枠に綺麗に収められている為、実は蚕がこの印画紙上に絹を吐いたのではと思えるほどのリアリティーで、言葉の綾ではなく本当に思わず触りたい衝動に駆られました。蚕の繭には細かな凹凸があるので、繭の周りに掛かっている糸と共にに様々な光の濃淡を生み出しており、それはとても美しいものでした。

 作家である三好さんご本人がいらっしゃったので少しお話を聞けたのですが、入口脇に掲げられた、蚕達が蔟を這っている写真はシャッタースピードが1/2秒で撮影されたそうです。20枚ほど撮った中で、ほぼ全ての蚕が静止していたのは唯一1枚だけだったとの事です。

 実は蚕は、その成長期は食べているか寝ているか、糞をしているかと言うぐらい忙しなく、そして繭を作る段階になって蔟に載せられてからも首をフリフリ自分の入りたい枠を探しています。そしてやっと自分の枠を見つけたかと思ったら、繭を作るために糸を吐き出しながら身体をクネクネと動かし、繭が完成してその姿が見えなくなるまでのおよそ二日間、誠に忙しく動き廻ります(実際にはその繭の中で蛹になるまでもゴソゴソ動いているのですが)。
 そんな状態ですから、蔟の上で何匹もの蚕がほぼ静止した状態を撮るというのはスローシャッターでは至難の業です。
 しかも大判なので一枚一枚を撮るにはとても手間が掛かります。「お蚕様」のご機嫌を損ねてしまうと良い糸を吐いてくれませんから、養蚕農家もハラハラしながら協力していたのではないでしょうか。三好さんと養蚕農家、そして「お蚕様」との関係性が保たれたからこそ生み出された作品なのでしょうね。

 実は私自身、幼少の頃、親戚筋に養蚕をしていた所がありました。「していた」と書いたのは、やはり多くの養蚕農家と同じように格安輸入品や後継者問題など様々な要因で断念されたからなのですが、ある時その家から夏休みの自由研究を兼ねて蚕を分けてもらい自宅と学校で育てた覚えがあります。当時はうちの近所にも「ドラえもんに出てくるような空き地」や未整地の土地が多く、蚕の餌となる桑も豊富あったので、飼う事ができたのです。
 三好さんの写真を見ていたら、蚕の糞の始末が大変だったことや、桑の葉を食べる「カサカサ」「サワサワ」とした音が昼夜問わず聞こえていた記憶が蘇りました。

 三好さんは今回の展示で、メインとなった蔟の中に整然と並ぶ繭達の写真のみで成立させようとしていたそうですが、先に書いた蔟上の蚕達、そして繭の入った蔟が養蚕農家の床の間に置かれている写真、繭玉が文字通り山になっている写真などを補足的に展示したことで、繭を生み出す蚕と養蚕農家という存在が我々鑑賞者に提示され、美しさの裏に隠された日本の産業の繁栄と衰退を暗に匂わせるような、陰陽のモノクロームにぴったりな展示になっていたと思います。



 そういえば写真展を観に行ったり、参加したりすると、会場の様子を写真や動画で撮影している方に出くわす事があります。私も今回の三好さんの作品はその美しさや感動を留めておきたいなと思いましたが、もちろん撮ることはしませんでした。
 もし本当にそう思うなら、今回の展示の場合、作品は販売されているので買うべきが筋ですしね。

 しかし出展者自身が記録や宣伝の為に撮る事もあるでしょうし、会場が許可している場合、観覧側が自分の記録や後学の為などに撮影する場合もあるでしょう。
 もちろん出展者側からSNSでの掲載許可が出ていたり、むしろ宣伝としてお客さんに会場の様子を撮影してもらい、指定したハッシュタグをつけてSNSによる拡散をお願いする事も最近ではかなり当たり前になってきました。
 今は便利ですよね〜。デジタルカメラやスマホで写真や動画を撮ったり、THETAなどを使う事で一瞬で360度会場全体を撮影したり、アクションカメラとスタビライザー、果ては室内用ミニドローンなどで会場内を縦横無尽に撮影できますからね。

 でも出展者や会場が許可を出していない場合、了解を得ずにネットに載せる行為はまた別次元の問題が発生します。たとえその掲載先がオープンであろうとクローズであろうと。

 以前、展示の搬入が「ほぼ」終わったばかりの企画展の全景や各作品を撮った映像を、まだ展示が始まった訳でもないのに、SNS上にアップした方がいました。
 本人は準備が終わった達成感と、自分が出展している宣伝のためだったのでしょう。不特定多数に向けてではなく、あくまでもその方の友人であれば閲覧できる環境ではあるものの、ほぼリアルタイムで掲載したのです。

 しかし実はその企画は実際に会場に足を運んでもらって展示を見ることで「なるほど」と思ってほしい内容でした。それに加え、そもそもゲスト作家の写真が仮止め状態で掛けられている、完全に準備が終わってない時に撮影されたものだったので、主催者は頭を抱えてしまいました。

 では、主催者は事前にSNSへのアップを禁じていたかというと、「搬入直後に参加者がネタバラシをするとは想像しなかった」とのことでしたし、他の多くの方々も「まさか」という感じでした。
 撮影しアップした方は一足先に会場を後にしていたため、面と向かって「現時点でのアップは困る」「削除してくれ」というわけにもいかず、伝えるタイミングを逃してしまいました。しかもこういう場合相手も悪気があってやっているのではないからこそ、結局うやむやのまま……

 此処で難しいのは、そもそもの写真の特性として「目の前のものを複写」し「他者に広める」という面があります。だから、完全に否定すると目の前にある写真もそもそも「写真」という存在としての立ち位置が問われてしまうという堂々巡りが出てきます。
 その堂々巡りから抜け出すためには、例えば今回の企画展であればその企画自体の趣旨、つまり「写真」という言葉から一歩引いて全体を俯瞰した状態で関係者や鑑賞者に考えてもらう必要がありそうです。
 この辺りについては強要するわけにもいかないし、なかなか結論が出ない問題だと思うので、常日頃から頭の片隅で考えておきたいなと思っています。



 短くしようしようと思いつつ、最初に考えていた内容からどんどん膨らんで、今回も自分の目安をオーバーしてしまいました。一部分でも次回分に取っておけば、頭を悩ますことはないのですがね。

 そんな訳で、今回はこの辺りで。

2019年4月2日火曜日

志子田薫《写真の重箱 6 —ギャラリー巡り》

 皆様こんにちは。写真、撮ってますか? そして写真を見てますか?
 さて、先ずはお礼とお詫びです。
 Up40Galleryの『増殖』、そしてPaperPoolの『135 x 135mm』展(前期)はお陰様で盛況でした。足を運んでくださった皆様、そして気にかけてくださった皆様、ありがとうございました。
 『135 x 135mm』展の後期は2月3日17時まで開催中です。こちらもぜひご覧ください。
 そして前号の『135 x 135mm』展の説明において、自分の文字置換時のミスにより「135フィルム」と書くべき所を「135mmフィルム」と書いてしまいました。恥ずかしいったらありゃしない!/(^o^)\



 さて、年明け早々、『135×135mm』展に出すプリントを出力していた時に、Twitterで興味深い展示を発見しました。それは吉祥寺にある[book obscura]という写真集を専門に扱う古本屋で開かれている「写真集研究展 Vol.3『写真集とカメラ』」と云うものでした。
 昨年知人がここで写真展を開きトークイベントを行ったので、その時に初めてお邪魔したのですが、その時はイベントは勿論、終了後も賑わっていて、取り扱っている写真集をじっくり観る事が出来なかった事もあり、また企画がこのメルマガで書いている内容とリンクしてるじゃないかと思い、再訪して来ました。

 今回は多少時間に余裕を持って…

 結果、やはり時間が足りませんでした(笑)
 古書店巡りや写真展ではよくある事ですが、やはり今回の企画をじっくり観るには開店直後から閉店までいて、それでも時間が足りないだろうなと。写真集をじっくり観ようとすれば、1冊でも結構な時間とパワーを使いますから、当たり前といえば当たり前ですが。

 そして、元々神保町の有名な古書店で店員をされていた経験をお持ちの店主は、流石写真雑誌でも記事を書かれるだけのことはあります。写真集に関する博識さは勿論、「写真集」に対する並々ならぬ愛情を持っており、とても私なんか足元にも及びません。
 我々が某写真集の新旧版に於ける違いとその解釈を巡る印象を話していた時には、後からいらっしゃった常連さんが「そう云う見方もあるんですね」と言いつつ少し退いていた気も…(笑)



 さて、そこでも話が出たのですが、多くの写真家は、様々なフォーマットのカメラを使用しますから、誰をどのカメラで括るかは非常に悩ましいところです。
 4号で触れた高梨豊さんも、多くの代表作はレンジファインダーのライカで撮影されていますが、ライカといっても一眼レフのライカを使うこともあるし、もちろんプラウベルマキナなどの中判や、ジナーなどの大判カメラを使用して作品を生み出しています。
 大判で作品を生み出してきた写真家はといえば、アジェやヨセフ・スデク、アンセル・アダムス、ベッヒャー夫妻、ベレニス・アボットなど多くが浮かびます。しかし時代によっては大判しか選択肢がなかったこともありますので、ここではとっつき易い近年の日本の写真家をピックアップしてみましょう。

 ここに3冊の写真集があります。
 『町』『small planet』『ランドスケープ』
 これらの写真集は、ほぼ全ての写真が大判カメラで撮られています。

 それこそ高梨さんの『町』は、以前も書きましたから、多くは触れませんが、大判特有の細密さで町をしっかりと記録したものです。方法論の一つとして、そして大判特有の写真集として機会があったら是非観てみることをお勧めします。



 2006年に発表した『small planet』で、世の中をミニチュア世界に変えてしまったのは本城直季さんです。

 最近のデジタルカメラやスマートフォンのアプリには「ミニチュア撮影機能」と呼べるようなフィルターが搭載されていることがありますので、お使いになった方もいらっしゃるのではないでしょうか。これらは本城さんの作品がヒントになって生まれたものです。

 本城さんは、大判特有のティルトというアオリ機能を使って、実際に存在する事物をあたかも「ミニチュアで再現して撮影した」かのような作品は、元々大判を使っていた写真家達からは「別に新しくも何ともない」と言われたようですが、それは結局写真界という内輪の世界でしか考えていなかったからでしょう。
 彼が今まで一般の人が見たことのない新たな世界を見せてくれた功績は大きく、同年度の“写真界の芥川賞”とも呼ばれる木村伊兵衛賞を受賞しました。



 長年に渡って自然界と人工物との際を大判写真ならではの精細さで表現しているのは柴田敏雄さんです。先ほどの本城さんと同じ木村伊兵衛賞を1991年度『日本典型』で受賞されており、2008年には東京都写真美術館で大々的な個展「ランドスケープ 柴田敏雄展」が開催されました。この写真展に合わせて出版されたのが、今手元にある『ランドスケープ』です。
 当時写美の友の会に入会していた私は、特別内覧で作家自ら作品の説明をしてくれるという企画に当選し、その壮大なスケールの写真と対峙しながら柴田さんの話を聞く機会に恵まれました。
 自然界と、ダムなどの巨大な建造物とのせめぎ合い。共存しているようで、でも決して一つになることのないその関係性や、自然の強さと人間の作り出した巨大な力。それらを大判で隅々までピントを行き渡らせて撮影することで、よりその魅力を引き出しています。もともとモノクロでの作品がメインだった柴田さんですが、2000年代に入ってからカラーでも撮影し始めたタイミングでの大々的な個展はとても見ごたえのあるものでした。それにははるかに及ばないものの、写真集からもそのパワーは感じられると思います。



 さて、もう一つ紹介したいのは佐藤信太郎さんの『非常階段東京 -Tokyo Twilight Zone-』です。
 黄昏時の東京という街を、非常階段や建物の屋上などから撮ることによって、街の密度や光が織りなす不思議な秩序を作品にしています。
 これも大判の、それもフィルムならではという作品に仕上がっています。
 近年のスカイツリーの建設から完成までをデジタルで追うことで、新たな歴史の証人となった『東京|天空樹』と見比べると、また違った東京の魅力が発見できます。

 佐藤さんは2月末から「The Origin of Tokyo」という個展を東麻布にあるPGIで開催されます。
 東京の東側を作品のメインとして押し出していた氏が、江戸の中心地であった現在の皇居周辺を中心とした方角に目を向け、また新たな東京を見せてくれそうです。
 おそらくですが、個展会場では過去の写真集も見られるかもしれませんから、それらと本展示での作品を見比べたりしながら、氏の視点の移り変わりと大判とデジタルによるアプローチの違いなども意識して観たいと思っています。

 今回はこの辺で筆を置こうと思います。
 

2019年4月1日月曜日

大竹誠《様々な時代の都市を歩く 7 —80年代を歩く(後編)》


『木の事典』


 神谷町の“かなえ書房”

 友人の会社を8ヶ月で退職。その会社から300M先の知人の新しく作られた会社へ。そこはかつて『デザイン批評』の編集社があった場所。木材の開発と木造建築の見直しを勉強してゆこうと組織された組織。嘱託のような契約だが一安心。月々の収入を得るために、開発された『置き水屋』を販売して回った。茶室を持つことはそう簡単ではない。そこに目をつけて、マンションなどの部屋に置いてお茶を楽しもうという什器。都内のお茶屋をまわる。しかしなかなか売れない。そうこうするうちに、会社は木造建築を見直すための「日本建築セミナー」なるものをスタート。その事務方も仕事に。セミナーでは、文化庁の人や、有能な棟梁、建築や木材の専門家などもと、「建築見学会」「セミナー」が持たれる。普段見学できない物件も見ることができた。都内はもとより、近郊、大垣にも足を運び建物に触れた。毎回30数名の参加者。セミナーが終われば先生方との一献。参加者の多くは建築事務所勤務でお互いの情報が交換されていく。木材の仕事に関わったことから、後日。『木の事典』の編集、出版に関わる。

 中学の同級生が編集事務所(「かなえ書房」)を開いていた。他の仕事をしようかなと考えていたので、訪ねる。学友はカード式の書籍を作りたかった。カード式ならば読者がページを組み替えて自分なりのページ構成ができるわけと言う。そこから「カード式104葉の『木の事典』」を制作しだす。木材開発で知った、上村武、平井信二さんに会い折衝。「B5カード、箱入り」の初期全7巻が完成、販売。記載木材のそれぞれに「樹種」「枝葉」「樹幹」「組成」「利用」「組織の顕微鏡写真」のカードがある。つづいて第二期の「7巻」。最終的には20数巻まで刊行。

 「かなえ書房」では月1回の「焼き肉会」が持たれた。大きな餃子鍋を浅草の合羽橋で入手。ガスコンロに乗せて焼いた。酒盛りでは談論風発。そんな中、白井晟一研究の刊行も始まり、多彩なメンバーとの雑談。白井晟一の設計の現場、登呂遺跡近くの“石水館”(芹沢銈介美術館)へ。そうこうするうちに「かなえ書房」の机を借りてデザイン事務所を開いた。机2台分のスペースを借りで「現代デザイン研究室」とした。そこからアルバイトで建築雑誌社の「建築知識」の編集の請負仕事、家具商「海市」の図面下職などをゲット。住んでいた市川(千葉県)と「かなえ書房」の神谷町、「建築知識社」の乃木坂を往復。一時期は50ccバイクで排気ガスを吸いながら通勤。



いくつかの取材で歩く


「建築知識社」で創刊した『設計カタログ』は、友人が編集人。そのつてから編集請負をする。建築設計では膨大な量の製品の世界から選ぶ必要が生じていた。友人はそこに目をつけた。建築家が一目で製品の世界を把握できるように。生きるための『全地球カタログ』(アメリカで刊行)のように。請負仕事しながら、コラムページをやらないかということになる。
物件の取材や対談の企画など。→タイムリーに建築家「クリストファー・アレグザンダー」の盈進学園・東野高校の建設現場を取材(入間市)→キャンパス・プランを早々に描き起こすのではなく、まずはキャンパス構成員がどのような高校をイメージしているのか、期待しているものは何か、どのような教室で、どのような校庭で学園生活を過ごしたいのかをヒアリング→それらを200のパタン・ランゲージ(空間造形のイメージ言語)にまとめ、そのパタン・ランゲージを組み合わせることでデザインをした高校。→アレグザンダーの特色は、多彩なスタイルの引用(近代建築のなかで否定されたものもある)、スタイルの見直し、土着的な工法・構法の採用(自分の足で歩いて探し当てた素材。焼きムラのある屋根瓦、変形サイズのコンクリートブロック、形状の異なるPCコンクリート柱、色ムラのあるカラー鉄板など)→これが綾織りのような肌触りを生み出す。使用者の深い経験を尊重した設計(講堂の白漆喰柱、壁に色を塗りたい。そこで模造紙に原寸大の柄を描いて、かなりの時間利用者の目にさらし、そのうえで感想を聞きながら最終的な色柄を決める)。「一分の一(one
to one=現場合わせ)」という縮尺での思考。打ち上がったコンクリート壁を見て、出入り口が違うとチョークで指示する変更優先思考。→建築計画とは一つの闘争なのだという攻撃的。問題定義の姿勢。

集成材の産地へ


 奈良県の桜井市の工場など。他に、「Time Out」ページの座談会サポート。木村恒久、粉川哲夫、布野修司、石山修など。

・『現代和風建築集成』(講談社第一出版センター)の刊行が始まっていた。紙面記載の和風建築の実測調査の仕事の紹介が、先の木材開発会社の知人からあった。実測調査の経験はその会社での建物見学会ぐらいしかなかったが請け負った。どうにかなるだろうと。困ったら、専門の人を探し協力を仰げばいいのだから。画板と巻尺(スケール)、下げ振り、写真機を持って動き出す。写真家が取材に入るサポートも同時に。
・藤沢の近藤邸(遠藤新)、日暮里の朝倉邸、埼玉の益田孝(鈍翁)邸、箱根の白雲荘。京都大山崎の聴竹居(藤井厚二)、京都・北村邸、愛媛県・大洲の臥龍山荘、高山市の吉島住宅、神奈川の富永譲邸、軽井沢山荘、青山の植田邸(吉村順三)、週末集合住宅、谷口別荘(谷口吉郎)、六甲の石井修邸、南林間の桂花の舎(白井晟一)など。→名作に触れたことはとても参考になった。近代和風の中でも職人さんの手がちゃんと入ったものは美しい。建築家の自意識が露骨に見えてくるものは、空間の質がうすぺらでつまらなかった。

取材の現場から


 飯田橋に事務所(木造モルタルアパートの2階の一部屋で)を開き、家具制作の下請けなどとともに、雑多な仕事を開始。「週間住宅情報」への売り込みから、カラー16ページの仕事が来た。友人の事務所と共同でこなす。手探り状態で、取材開始、写真家と連絡を取る。その仕事のまとめ方を評価?されたのか。続いて、「私の住んでみたい街」(カラー4ページ)が始まる。当初、6回ぐらいの予定だったらしいのだが、読者に好評とのことから、1年半も続き、76回にもなった。著名な作家やタレントに「住んでみたい街」を歩いてもらい、高梨豊、荒木経惟、飯田鉄ら写真家がその街の「ここか?」という場所を撮影。編集請負としては、原稿取り、ポジ写真受け取り、ページの構成、歩いたコースと目印を地図の中に書き入れてマップ化。著名人の中には、原稿締め切りギリギリまで待たされることもあった。ハラハラドキドキの連続。モノクロ2ページの「間取りウオッチング」というページや、「住まいのサイエンス」のようなページも手がけてゆく。前記「住んでみたい街」は、第二期もあり40数回分の街を歩く。

 雑誌「ハイファッション」の取材で、東京、横浜の映画館巡りをやり記事化。建築のディズニーランド化としての「オランダ村」へも。→空路で長崎へ→船で大村へ。この間土着的な土を踏まずに。一気に異国の感じ。→オランダにもないオランダ村(オランダから昔の民家の図面をもらって参考に)をセールスポイントにしたハイパー・リアルな町。→オランダムードの表層との戯れ、オランダ気分のなかで時間を過ごすこと→観光村の一画にあるATMもある。テーマパークという名の「消費パーク」の証し。現代版遊郭?
◎ブローチを付け出した建築がみられ出す。そこで街を歩いた。→衣服にブローチを付けるように建築もブローチを付け出した。馬、キリン、ゴリラ、猟犬など動物ブローチ。バレリーナー、ペンキ屋など人物ブローチ。ゴルフボール、ロケット、靴、メガネなどモノブローチ。→それらは建築の広告化(話題作り)であり、建築の情報化(表層化)であり、建築の商品化(パッケージデザイン)である。
◎イマジナリーな建築の「ヤマト・インターナショナル」へ。→バブル経済の中から生み出されたポスト・モダン建築(見た目の豪華さ、ファッショナブルさ、ハイテクノロジーさ、アーティフィシャルさなどなどを狙った)。設計の建築家は、山国(長野?)で育った少年時代の想いを“雲母”(キラキラ輝く)に譬え、その重層的な雲母のイメージを東京湾ウオーター・フロントの建物ファサードに転写したという。
◎できながらにして“悪意”に満ちた(取材したが責任者の所在など対応が横柄、無責任)商業施設。数掛け月後、吊り下げた6トンの照明機器が落下して死亡者を出し、倒産、廃墟となったディスコ。「砂の惑星」などの物語りから個室がデザインされ、見るからに折れそうな華奢な鉄製階段。その欠点を隠すかのように迷宮化させるバリー・ライト。このライトはチェーンで吊り下げられ、ディスコが始まると一分間に何度も上げ下げされた。専門家によればチェーンは切れるものだと言う。→あの“悪意”感じた第六感は当たったのだ!


ポストモダン建築の寿命は早い!


 完成し、話題を呼んだ「結晶の花」(原宿)は数年の命。ファッション・ショーのように華やかな見せ場となりながらも、ファッションの寿命を全うした。建てられた時のプログラムは何だったのか?取り壊される時のプログラムは?経済の、商品の、つまりマーケットの論理そのままに従った住宅建築の登場か!
◎ショーのフィナーレにふさわしい「階段」をテーマとした建築の登場。→麻布一丁目の「エッジビル」。神宮前のレストラン。浅草のアサヒ・ビヤホール前の「ガラスの階段」。その他にも「京都駅ビル」など街のあちこちに「階段」がつくられだした。それら“階段”は何を目的としているのか?
スペイン広場のように多くの人がたむろする階段ではなくてファッション・ショーのように、脚光を浴びるスーパーモデル(虚像)がくねくねと降りてくる階段。
◎金属の棺桶のような映画館ビル:銭湯が激減するように、かつての映画館らしい単独の映画館も減りだした。変わって登場したビル内の映画館=シネコン。「大きな絵看板」「手だけ窓のあるチケット売り場」「映画館独特のドーム屋根」「入り口まで上がる広いスロープ」など映画館の特有のアイデンティティが失われていく。
◎からくり人形時計に吸い寄せられる人びと:銀座マリオン前、小田急ハルク前、原宿商業ビルなど街に増えだした「からくり時計」。時間になるとどこからともなく集まってくる人びと。インスタントなからくり時計を見ている人たちも「からくり人形」に見えてしまう。それらの人たちはからくり時計以上のさまざまな動きを見せてくれる。→有り余るほどの時計が生産されている時代に現れた、これらのからくり時計は、有限なを意識化させるからくり?「急がなくては!」。時報とともに、人びとが集まり、そこで物々交換をしたり、情報を交換したり、パフォーマンスをしたりしたらどうなるか。

地上げの現場から


 飯田橋の事務所開設後、にわかにバブルの時代となる→「地上げ」といわれる輩が横行する。地上げで買われたビルは、建物の窓枠を抜き取り、暮らしている人がいるのに建物内部を風雨に晒させて追い立てる。空き部屋のドアーを破り、残された家具、調度品を床に投げ飛ばされている。→建築資材の鉄パイプと足場板がどんどんと搬入される。その荒くれ作業は恐怖だ。なぜ?そんなやり方が許されるのか!荒くれ作業者は全体の計画など知らされず、依頼者の名前も知らず、それだけにやけくそで、投げやりに、そして乱暴となるのか。
◎「移転しない」と言っていた飲食店が、ある日夜逃げ同様にいなくなる。あの気だての良い夫婦はどこへいったのか?
◎四軒長屋の真ん中を買い取り、たちまちにその部分を解体し、長屋をつなぐ構造の梁・桁を露出させ、残された両側の長屋の壁面を工事用のシートかぶせたままの現場。ここでも住んでいる人に対して「住めなくさせる」恐怖の追い立ての手法が見える。
◎ある日、まだ使用できるビルの屋上にユンボがあった?屋上から下階へと少しずつユンボで解体してゆく現場。その風景はとてもシュールだ。そういえば、溜池の「小松ビル」の屋上に巨大なユンボの張りぼてが陳列されていたが、あれはこのことを示していたのか?

 街の銭湯をターゲットに地上げして、「銭湯経営なんか儲かる時代ではないよ」と買い取る手法→街の人々のささやかな社交場である銭湯を無くすことで、街の組成を破壊してゆくのだ→八丁堀の「藤の湯」のサヨナラ・パーティでご主人は近所の人の前で涙。うれしい涙ではなく、悔しい涙、恥ずかしい涙なのだ。家に風呂を持たずにきた街の人々の期待に応えることができない、そして街の社交場でもあるその空間を、自分の代で閉じることへの複雑な涙なのだ
◎地上げによって、土地が売り買いされ街の一画が、刃こぼれ状態となった街(神田神保町、外神田、小石川など)、地上げされた土地は駐車場にされたりするが、それも見せかけ。しばらくするとフェンスで四方を囲んで中に入れなくしたもの、駐車のためのラインや番号を路面に表示してあるのだが、どこからも車が入って来れないものなど傑作もある。しかし、駐車場となったものは、周辺の住民にとって気が気ではないだろう。2層3層に積み上げられた自動車は危険極まるものだから。ガソリンを摘んだ爆弾なのだから。そのような駐車場化を行政が支援しているのだから開いた口も閉まらない
◎銀行をロビーのように使用している土地成金の人たち→そう、彼らは地元から出てしまい、郊外に「億円邸」を建て、「アパート」を建て、後は銀行の利子で生活しようとしているのだ。刃こぼれの風景から戦後時代の風景が垣間見える→切断された長屋の壁に貼付けられたブリキ波板、隣の建物が取り壊されることで、それまでの隣の建物によって隠されていた住まいの裏側が露出する。壊されたコンクリート床と露出する大地。残された建物の外壁に痕跡を残す以前あった建物のシルエット。真ん中の家を取り壊され、残った壁を養生シートが梱包する。それは美しくもある。取り壊され、更地化され、そこが雑草で覆われる。

•廃墟の流行:
地上げによる「都市の死」、あるいは「都市の都死」によって「廃墟・廃棄」が現実のものとなった→生きられた香港の九竜城址、大友克洋の描く「アキラ」の廃墟都市、廃墟を棲家とする石川淳の『風狂記』、映画『ブレードランナー』のジャンク都市、『転形劇場』の廃墟のような、墓場のような舞台“地の駅”。数トンのゴミを積んだ舞台セット。「廃墟写真」や「廃墟ツアー」「廃墟アート」も生まれだした‘80年代だった。


松村喜八郎《映画を楽しむ 7 ―我が愛しのキャラクター列伝⑤》

追分の伊三蔵/1968年「ひとり狼」


市川雷蔵が演じた孤高のやくざ。その魅力については、冒頭で孫八というやくざ(長門勇)が語る言葉に集約されている。
「誰から聞きなすった?追分の伊三蔵、俺はよく知ってるよ。兄弟分かって?とんでもねぇ。俺は同じやくざでも半端者だよ。伊三蔵はそんなこたねぇ。筋金入りとでもいうか、本物のやくざってのはあの男のこったろう。追分の、というより人斬りの、というのがぴったりの男で、一つの場所に三日といたことはねぇんだ。兇状を重ねて、いつも誰かに狙われてるって覚悟が体にぴったり染み渡ってて、親分なしの子分なし、誰も傍に寄せ付けようとはしねぇんだ。一匹狼そのままだったなぁ」
 信州・塩尻峠の斬りI合いに遭遇して伊三蔵と知り合った孫八が二度目の出会いを果たす場面。上州・坂本宿に草鞋を脱いで井戸端に向かうと、先客がいて後ろ姿に見覚えがある。伊三蔵だった。近付いて行くと、足音を耳にした伊三蔵は懐から匕首を取り出して身構える。一瞬たりとも油断しない。なんだかゴルゴ13みたいだ。喧嘩(でいり)は伊三蔵が手を貸した方が勝ちと喧伝されているぐらい強いから、敵対する一家と一触即発の状況にある貸元が助っ人を頼んでくる。その貸元に非があったとしても、頼まれれば伊三蔵は手を貸す。「渡世の掟がたった一つの頼りよ。人情なんて余計なものをしょってちゃ生きていけねぇ」と言う伊三蔵はプロに徹している。その点でもゴルゴ的だ。
 女への冷たい態度もそうだ。昔、情を交わした酌婦に声を掛けられても素っ気ない。「達者で何よりだ」と言うだけで、表情ひとつ変えることなく酒を飲み続ける。カッとなった酌婦に「さんざん夢中にさせといて、さよならも言わずに放りだした。お前さんなんか、どこかの喧嘩場で殺されるがいいんだ。誰が泣いてやるもんか」と罵られても泰然自若。そのカッコよさにしびれた。
 言葉とは裏腹にまだ惚れている酌婦は、用心棒をしている浪人に伊三蔵が勝負を挑まれると心配でたまらない。こっそり果し合いの場にやってきて「大丈夫なんだろうねぇ」と本音がポロリ。たまたま店にいて事の成り行きを知っている孫八も固唾をのんで決闘を見守る。塩尻峠で見事な太刀さばきを見たとはいえ、今度の相手はかなり腕が立ちそうだ。そんな二人の心配は杞憂に終わる。伊三蔵は用心棒を斬り捨てて虚無的な表情で呟く。
「今夜もまた……、この目の中に新しい卒塔婆を一本立てるのか」
 この言葉は後半、「卒塔婆の夢を見るのか」と、少し表現を変えてまた出てくる。死者を悼む気持ちがあるからであり、非情ではあっても冷血ではない。
「サイコロの睨みに関しても神業」の伊三蔵は壺の中の賽の目が丁か半かを正確に見抜く。しかし、決して勝ちっぱなしで帰るようなことはせず、頃合いを見計らってわざと負け、いくばくかの金を置いて「皆さんで一口やっておくんなさい」と挨拶して去っていく。それが一宿一飯の恩義を受けている貸元への礼儀であり、余計な恨みを買わない一匹狼としての処世術でもある。こうした描写も「ひとり狼」のたまらない魅力だった。
 伊三蔵がやくざになったのは、奉公していた武家の娘、由乃との仲を引き裂かれたからだった。父親が門前で行き倒れとなり、みなし子となった伊三蔵は由乃の家に引き取られ、働きながら字を習い、武芸を学んでいるうちに由乃と愛し合うようになった。家名を重んじる武家にとって許されぬ恋は両親の怒りを買うことになり、「私を勘当してください」という由乃の必死の訴えも実らなかった。伊三蔵が女に深入りしないのは、今でも由乃を愛しているからだ。だから、由乃が婚約者との結婚を拒絶し、仕立物で細々と暮らしていることを知って、博打で稼いだ金を送っていた。由乃も伊三蔵を愛し続けていたのだ。だが、ようやく再会した伊三蔵はやくざになっていた。そのことをなじられて伊三蔵は言う。
「俺の両の手は斬った人の血で汚れてる。それを恥とは思わねぇ。悔やみもしねぇ。一人の味方もねぇ俺が誰にも頼らず生きていくには、この渡世しかなかった」
 やくざ渡世に生きる男の覚悟が滲み出ている言葉だ。伊三蔵について語り終えた孫八が「きっとどこか旅の空で、新しい卒塔婆の夢でも見ながら流れているにちげぇねぇや」と感慨にふけった後、場面が一転して、カメラは雪の中を歩く伊三蔵を映す。一匹狼のやくざとしての覚悟が浮かぶ顔がクローズアップされてエンドマーク。思わず拍手したくなるほど素晴らしかった。
 池広一夫監督が村上元三の原作に惚れ込み、何度も会社に企画を提出してようやく映画化に漕ぎ着けたという。その執念が雷蔵主演の股旅ものの中でも抜きん出た一作とした。中村錦之助(後の萬屋錦之助)主演「関の彌太っぺ」「遊侠一匹・沓掛時次郎」と並ぶ傑作だ。

木颪の酉蔵/1972年「子連れ狼/死に風に向かう乳母車」


 若山富三郎が、幼い大五郎とともに流浪の旅を続けながら、高額の謝礼で刺客を引き受ける拝一刀を演じたシリーズに登場した異色のキャラクターで、貧しい家の娘を買い、女郎として働かせることを生業とする女衒の元締め。酉蔵と名乗っているが、女である。掛川藩筆頭家老・三浦帯刀の娘として生まれながら、忌み嫌われる双子だったことから、越尾一家と縁のある乳母に育てられ、女だてらに跡目を継いだ。
 酉蔵は『週刊漫画アクション』に長期連載された原作の中でもとりわけ印象深く、魅力的だったので、観る前はそのイメージが損なわれるのではないかと危惧していたのだが、浜木綿子が見事に体現化していて大満足。小説であれ、漫画であれ、惚れ込んだ人物ほど頭の中に確固としたイメージができあがる。だから映画やドラマになったとき、たいていはガッカリさせられるので、こういうことは珍しい。
 酉蔵は旅籠の一室で一刀と出会う。一刀は、女衒の舌を噛み切って逃げてきた娘を匿い、宿改めに来た役人を追い払ったばかりである。酉蔵は、娘を渡せといきり立つ子分たちを鎮めて丁寧に挨拶する。
「手前は越尾一家の酉蔵と申しやす。この宿場から刈谷までの遊び場所すべてを束ねておりやす忘八者で、その娘は私どもの女衒、文句松が買ってきた玉でござんす。どうかお引き渡し願いとう存じやす」
 一刀は毅然とした態度で断るが、酉蔵は役人とは違ってひるまない。短銃を取り出し、忘八者とは信・義・礼など何もかもを忘れたやくざ者であることを話し、なおも引き渡しを迫る。
「手前どもと張り合っても何の得にもなりやせん。買っても負けても。その娘を渡したところでお侍様のご体面に傷が付くわけでもなし、どうかここのところはお手を引きなすって」
「断ると申しておる」
「どうでもその娘を渡せねぇと?」
「くどい」
 酉蔵は銃を撃つ。一刀は手練の早業でかわす。これで酉蔵は一刀が並々ならぬ腕であることを悟る。だが、それでも一歩も引かない。一刀に斬りかかろうとする子分たちを押しとどめ、「お侍様、私どもにも忘八者としての面子がごさいやす。このままでは引き下がれやせん。といって、小娘一人のために可愛い子分を死なせるわけにもいきやせん」と、殺し合いをせずに済む方法を提案する。逃げ出した女郎が受ける折檻を娘に科してから解放するというものだ。一刀は、死ぬかもしれないその折檻を代わりに受ける。声一つ出さずに凄まじい責めを耐え抜いて気を失った一刀を見下ろし、酉蔵は感に堪えたように呟く。
「本当のお侍ってのは少なくなったが、まだこんなお人がいるんだねぇ…」
 この侍は噂に聞く子連れ狼に違いない。酉蔵は一刀を父親に引き合わせて刺客を依頼する。掛川藩は、領主が狂人であることを側用人の猿渡玄蕃に密告されたため取り潰しに遭った。その功績で天領地の代官となっている裏切者、玄蕃を殺してほしいという。一方、玄蕃も画策を巡らし…、というストーリーはどうでもよくて、この映画がシリーズでも上質の出来栄えになり得たのは、浜木綿子の酉蔵が素晴らしかったからだと言っても過言ではない。二百人の侍と死闘を繰り広げ、依頼を果たして去っていく一刀を酉蔵が追おうとする。一刀との出会いが、男として生きてきた酉蔵を女にしていたのだ。「元締め、行っちゃいけねぇ。あれは人間じゃねぇ、化け物ですぜ」と子分に止められ、追いたい気持ちを懸命に抑えようとする酉蔵。その顔に浮かぶ思慕の情。浜木綿子の最高作ではないかと思う。

2019年3月31日日曜日

志子田薫《写真の重箱 5》

 皆様こんにちは。写真、撮ってますか? そして写真を見てますか?
 私は今、横でスキャナがウィーンと唸っている中、このキーボードを叩いています。
 年始に祐天寺の“Paper Pool”にて行われる「135 x 135mm展」に使用する写真を取り込んでいるのです。
 この写真展は、『昔は重宝されていたものの、今となっては普段あまり使われない焦点距離である135mmレンズに光を当て、35mm判フィルムフォーマット(=135mmフィルム)で撮影し、その魅力を表現する』という趣旨なのですが、やはり難しい……

 当時は28mmなど広角よりも、標準域の前後が好まれていたのでしょうか。80年代に発売されていたカメラのキットレンズは35〜105mmが多く、私が最初に手に入れたズームレンズもそうでした。そうなると望遠側も105mmは微妙に物足りなく、当時高校生だった私は個人的に手の届かない距離の物が写せる望遠レンズに魅力を感じていた為、単焦点の135mmに憧れていました。

 私が今回使うレンズは、十数年前に当時錦糸町テルミナの中にあったヒカリカメラさんで購入しました。ジャンク品とありましたが、レンズは綺麗だし、某マウントとそっくりなので使えるのではと浅はかな考えで購入したそのレンズは、とあるカメラの専用レンズとして1950年代に販売されたものでした。
 デジタルカメラといろいろな道具を組み合わせて何とか使えましたが、スマートとはとても言い難いゴテゴテしたシステムになってしまったため、その後このレンズは部屋の片隅で眠っていました。

 近年のオールドレンズとマウントアダプターのブームにより、マイナーなこのレンズ用のマウントアダプターを発売するところが出てきましたので、今年の後半にライカのスクリューマウントに変換するマウントアダプターを購入し、やっとデジタルではスマートに使えるようになったところへ、今回の写真展のお話が出てきました。
 しかし、何を隠そう(別に隠していませんが)、私は所謂フルサイズのデジタルカメラを持っていないので、今回の写真展の主旨に沿うにはフィルムカメラで撮ることになります。今回はライカM6とDIIの双方で撮り歩いてみました。
 ライカというと基本的に内蔵距離計でピントを合わせますが、このレンズとマウントアダプターの組み合わせは距離計に連動しませんから、ファインダーでおおよその見当をつけたら、外付けの距離計で距離を図り、その数値通りにレンズのピントリングを回し、改めてファインダーで構図を確認し撮影するという、なんとも手間のかかる方法になってしまいます。誤差もあるし、距離計にない数値のところで決めるしかない。しかも距離計で距離を測ってからシャッターを切るまでの間に多少の前後差が出てピントがズレてしまったり、ファインダーとレンズとの誤差もあったりして、とてもスナップどころではありません。結局思い通りのものが撮れていたかというと……

 まぁ、今回の撮影を通じて、改めて「撮影内容と機材の組み合わせは重要だ」という、ここ最近のメルマガに書いているような事を実感しています。

 写真展「135 x 135mm展」は、祐天寺 Paper Poolにて、前期は2019/1/10(木)〜1/20(日)、後期は1/24(木)〜2/3(日)の木曜〜日曜に開催されます(月〜水はお休み)。
 私は前期に出展します。末席を汚してしまいますが、ご笑覧いただければ幸いです。

※板橋区大山にあるUP40GALLERY & SANISTAでの公募展「増殖 2018」展にも参加しています。



 さて、12月中旬、メルマガの打ち合わせをしたいという、このメルマガ編集人の鎌田さんからの連絡に、私が指定した待ち合わせ場所は新宿にあるMapCameraの地下一階。
 なぜここで待ち合わせたかというと、前回の「重箱」の内容を受けて、鎌田さんからこんなコメントが届いたのです。

「何故ライカ(あるいはレンジファインダー?)というのは強力な磁力があるのか知りたい。プリント(あるいは画像データ)としての写真だけ見ても、余程のことでもない限り何のカメラで写したかを特定するのは難しいと思うのですが、つまり『綺麗に写るから』だけが『ライカの磁力』ではないわけですよね。そのあたりが知りたいなぁ、と思いました。」

 確かにプリントから“どのカメラとどのレンズの組み合わせか”を特定するのは難しいですよね。レンズの描写に詳しい方なら、どのメーカーのカメラかが分かれば、それに着けられるレンズを推測し、その描写から推測される方もいらっしゃいますが、今はマウントアダプターがありますから、カメラが何れかというのは特定しにくいし……
 そもそも今回のお話はそれとは別の次元です。一体何が惹きつけるのか。それに迫るためには、実際に触れてもらった方が良いのではと考えたわけです。
 MapCameraの地下一階は「ライカブティック」という看板を掲げ、新品・中古のライカを主に扱っているフロアでして、実際にデモ機としてライカや中判デジタルカメラを気軽に試すことが出来るスペースがあります。以前はフィルムのライカも列んでいたのですが、今回は全てデジタルになっていたのが残念でした。

 それはともかく、約束の5分前に行くと既に鎌田さんは到着しており、ライカに触れながら「本物って感じがしますね」と仰いました。
 外観だけでなく、手に触れた時の感覚なども含めて、しっかりと作り込んであること、シンプルな操作系(メニュー内は別としてw)、シャッターのフィーリングなどがそう思わせたのかもしれません。
 鎌田さんはデザイナーであり、ご自身も写真を撮り(それこそ私以上に写暦がある方ですし)レンジファインダーもコシナ製ベッサを使った事があるなど、様々なカメラをお使いになっていますが、やはりそれまでのカメラとは違うと感じたようです。勿論その後新品の価格を知って驚いていましたが……ドイツ車と日本車との違いを挙げ乍ら思った事を話して頂きました。やはり良くも悪くもドイツらしいのかもしれませんね。

 横には富士フイルムから出ている中判デジタルカメラも置かれていて、それはそれで日本の技術の結晶が詰まっていて流石と思いますが、この二つを並べてしまうと両者の違いが感じられます。そして「レンジファインダースタイル」と呼ばれるデザインですが、勿論それは形だけであって、実際にレンジファインダー、つまり“距離計”を使ったカメラではありません。軽くて使い勝手は良いですが、ファインダーはEVFですし、そこには様々な情報が表示されます。欲しいカメラの一つではありますが、素通しガラスのレンジファインダーカメラの様に両眼を開いて撮影した時に、個人的には実物とEVF上の映像に違和感を覚えるので、レンジファインダーではないと割り切って、合理的な道具として、そして「消耗品」として割り切って使う事になるだろうなと思ってしまいます。

 最近のカメラは基本的にフルオートにもなる便利で多機能なものです。中にはトリミングまでオススメしてくれるカメラもありますから、自分はそのカメラを持ってその場に居合わせ、シャッターを押せば良いわけです。動画から切り出す写真ならシャッターすら切る必要はありませんね。

 対してライカは、フィルム時代に絞り優先機能のついた機種が出た事でシャッタースピードこそオートに身を委ねることが出来るようになったものの、絞りとピントは撮影者自身が決める必要がありました、そしてこれはデジタルになった今も変わりません。
 デジタルの時代に入って、ライカも枚数と感度の呪縛から解き放たれたものの、それはあくまでもオプショナルなものであり、実際にはピントや露出など撮影にまつわる総てを使う人間が決めるのが前提なので、フィルムのライカ同様にそれだけ潔いシンプルなデザインを維持できるのかもしれません。

 しかし、物質的な魅力があっても、100%万能なカメラではないという事、レンジファインダーカメラならではの不得意なものも知って欲しかったので、更に鎌田さんには実際に色々操作して頂きました。

 ライカでファインダー内のフレームで切り取った「つもり」の場所と実際に撮影された写真とでは、実際には微妙な誤差が生まれることがあります。これはデジタルのライカで撮るとリアルタイムで確認できるからより簡単に分かりますから、鎌田さんにも体験してもらいました。レンジファインダー機には良くあるこの誤差、高梨豊さんはある撮影とカメラとの組み合わせにおいてこれを「揺らぎ」と考え、受け入れるようになって撮り進めることが出来た作品があるそうです。

 そもそもレンジファインダーに於けるフレームという存在自体が(幾ら補正がかかる機種だとしても)曖昧なものですから、自分が覗いた通りの切り取り方をどうしてもして欲しいと考える人は一眼レフ(もちろん視野率100%のもの)や中判・大判カメラ、デジタルカメラなどで撮れば良いわけです。

 そしてレンジファインダーカメラが実際に報道などで使用されていた頃は、それと一緒に、一眼レフを長玉(望遠レンズ)と組み合わせて撮影する人も多かったようです。というのもレンジファインダーカメラの場合は焦点距離が大きくなればなるほどファインダー内のフレームは逆に小さくなってしまいますし、小さなカメラに組み込まれた距離計の精度上ピントを合わせ辛くなります。これについては距離計、そして三角測量の原理などに触れなければならないので割愛しますが、同様に距離計の苦手な1メートル以内の至近距離のモノなどもレンジファインダーはお手上げです。それに対して一眼レフは長玉であろうとマクロであろうとファインダーには実像しか入りませんから全く問題ありません。「撮影内容と機材の組み合わせ」を使い分けて利用するわけです。
 デジタルのライカになって、ライブビューや外付けEVFを取り付ける事で視野率100%の写真や、長玉やマクロ撮影、ピントを追い込んだ写真は撮れるようになりましたが、速写という面がスポイルされてしまいますから、自分が写真を撮るときに何を求めるかで、使うカメラの種類は自ずと決まってきます。



今回、本当ならば前回の続きで大判写真、4×5や8×10、それ以外のサイズを使う人を書こうと思っていたのですが、ちょっと脇道に逸れてしまいました。次号では本来のルートに戻って進めていきましょう。

2019年3月3日日曜日

志子田薫《写真の重箱 4─ 続 カメラのハナシ》

 皆様こんにちは。写真、撮ってますか? そして写真を見てますか?
 私はやっと少し肩の力が抜けたようで、以前ほどではないにせよ写真を撮ることが増えており、先日は久々に現像所へ顔を出して数本フィルムを現像してもらいました。同時進行でデジタルカメラでも撮影をしているのですが、この二者をまとめるのか、それとも別個のプロジェクトにして行くのかは未だ見えていないのがネックです。



 既に終わってしまった展示ですが、10月2日から7日の間[Roonee 247 fine arts]にて写真家 飯田鉄さんの『RECORDARE』という個展が開催されました。これは同名の自費出版写真集の発売記念的な意味合いもありました。
 飯田鉄さんは都市環境や庶民生活を被写体とし、写真集『街区の眺め』や寺田侑氏の詩とともに綴られた『まちの呼吸』、そして過去の写真展で昭和の残り香や都市の変遷を写真に封じ込めてきました。
 しかし今回は導入部こそ前出の流れを汲んだ建築写真が並ぶものの、その先は一見すると今までとはちょっと違う写真が並びます。自然が奏でる空気感や、人間若しくは自然が生み出した造形美を追い求め、むしろ「レンズ汎神論」や「使うライカレンズ」などの作例写真で垣間見られたような世界が広がっていました。デビュー当時の飯田さんをご存知な方は「彼が好き好んで撮っていたのはこんな感じだった」と仰っていましたし、ギャラリートークのゲストとして招かれた河野和典さん(元『日本カメラ』編集長で『レンズ汎神論』でもタッグを組み、現在は日本写真協会『日本写真年間』編集委員などを務める)からも「作家の目は一貫している」という言葉が。当の飯田さんも「こういうのがずっと好きなんです」と仰っていました。

 今回の作品が撮られたのはここ数年、2006年から今年4月までの写真。それもデジタルカメラで撮られた写真ばかりとの事。中には昨年のギャラリーニエプスでの個展「草のオルガン」で私が気に入った作品も展示されていました。

 飯田さんはカメラやレンズの作例写真家としても著名ですが、ギャラリートークでもその話が出てきました。前述の河野さんも飯田さんのことを、多岐に渡る(カメラやレンズ、アクセサリ類などの)機材への造詣が深く、その上で機材を活かす作例写真が撮れる数少ない写真家だと太鼓判。
 もちろんその為には膨大な量の撮影で培われた経験、そして機材やフィルムなどの知識との組み合わせから導き出される勘、そして想像力をフル回転させて(何しろフィルムは現像するまで結果が判りませんから!)一つ一つの作例を作り上げていったのでしょう。
 私はそんなノウハウの一端を直接吸収できた、飯田さんが教鞭をとられていた学校の生徒さんたちが羨ましく思えましたし、会場に来ていた学生さんやOBOGの楽しそうな顔を見て、更にその気持ちが強まりました。

 写真展は終了してしまいましたが、写真集『RECORDARE』は引き続きRoonee 247 Fine Artsで取り扱っているので、興味のある方は是非お手にとって見てください(表紙が赤と青の2種類で各150部、計300部限定)。
 表紙を開くと奥付(書籍の最後の方にある出版社や著者の情報が記載された「奥に付ける」頁)から始まるという不思議な装丁です。まるで現在から記憶を順に辿って行くような感覚で(実際には写真は時系列ではないのですが)ページを捲る楽しさがあります。



 さて、前回のメルマガの締めに、『写真家の方々は実際にどういったカメラを使って、どのような写真を生み出してきたのか。この辺に関して次回触れていきたい』と大風呂敷を広げてしまいましたが、これに関しては、一種パンドラの箱的なモノでして、しかもデジタルカメラに至っては昔以上にメーカーの思惑が見え隠れしているので、写真家個人が独断選んでいるかは微妙なところです。
 例えば、前出の飯田鉄さんは、趣味と仕事の両面で多岐に渡るメーカーの様々なカメラやレンズを使っています。
レンジファインダーカメラだけでなく、一眼レフ、ミラーレス等を巧みに操る飯田さん。
でもとりわけ、私にとっては飯田さんはニコンにフジ、そしてライカを使っている印象が強いですね。
しかもライカは初期のA型から最新のデジタル系まで、その時の仕事や作品作りに合わせて文字通り「使い分け」をされています。
 実は以前、私は飯田さんの「東京近郊の街を歩く」ワークショップに参加しておりました。そこでは、M型ライカをスッと構える所作や、ライカTL(当時はライカT)のタッチパネルタイプの(スマートフォンのようなフリックやピンチ、ズーム操作をする)液晶画面を、「苦手なんだよな」と言いながら、おっかなびっくり触っていたの印象に残っています。



 高梨豊さんは、沢山のフォーマット、そしてカメラの特性を生かして写真を撮っている、様々なカメラを使い分ける達人です。
 高梨さんは『ライカな眼』という本を出されている通り、普段はライカを使っていますし、秋山祐徳太子さんと故 赤瀬川原平さんの3人で“ライカ同盟”の名の下で活動されていましたので、そちらで高梨さんをご存知の方も多いのではないでしょうか。
 でも、高梨さんも決してライカ一辺倒ではなく、様々なカメラ、そしてフォーマットを使い分けています。もともと商業カメラマンという立場でもありますから、コマーシャルスタジオなどで使われていた蛇腹のフィルムカメラ、4×5や8×10は勿論、6×7や645などの中判フィルムカメラ、そしてもちろんライカなどの35ミリフィルムカメラを使うのですが、彼の場合、作品のコンセプトによってそのフォーマットをセレクトしているのが特徴です。

 1977年に出版された『町』という大判写真集(43.5×30cm)では、前作『都市へ』が35ミリフィルムのレンジファインダーカメラ、ニコンのS型やライカなどでのスナップ撮影でフットワークの軽さが中心だったのに対して、三脚に4×5のビューカメラを取り付けた状態で町を歩き、ワンカットワンカットを丁寧に、その事物を記録しているのが写真から伝わってきます。
 私も数年前に高梨さんを真似て同じようなスタイルで撮影したことがありますが、カメラ自体の重さはもちろん、それを支えられる三脚もしっかりしたものになりますし、道具も大掛かりになります。1カットを撮る際のお作法も35ミリカメラやデジタルカメラとは比べ物になりませんし、何より目立ちます。私は「不動産の人?」と訝しげられました(苦笑)
 でもそれで撮った写真は細部まで情報量のあるものになります。
 写真を「記録」として考えるのであれば、この情報量がとても重要になりますが、4×5に三脚ではフットワークが悪くなってしまいます。以前鎌田さんとのメール対談でも出てきた『都の貌』は、先ほどの『町』の後に出版されていますが、この作品は、夜の街中や室内の僅かな光で対象物をシャープに捉える必要もありつつ、フットワークを軽くする必要もあったため、35でも4×5でもなく、中判の6×7(マキナ67とW67)に三脚の組み合わせに変わります。
 現在同じようなアプローチをデジタルカメラで行うのであれば、5000万〜1億画素以上を持っている中判デジタルやシグマのsd Quattroなどを三脚に据えて撮る感じでしょうね。



 さて、今号では飯田鉄、高梨豊という「ライカ使い」な二人をピックアップして見ましたが、ライカといえば古今東西数多くの写真家の方々が使っていますし、カメラやフォーマットを広げれば様々なアプローチをしている方々がいらっしゃいますから、次回はもう少し突っ込んだ話を書いていきましょう。