2019年4月30日火曜日

志子田薫《写真の重箱 7 —ギャラリー巡り》

 皆様こんにちは。写真、撮ってますか? そして写真を見てますか?

 私的な事ですが、今号が発刊される頃には仕事場が変わります。今までの仕事場は「町」にあって、それはそれで地続き感があって楽しかったのですが、今度は「街」というか「都市」なので色々と勝手が違います。
 既にその街には数回足を踏み入れているとはいえ、今まで縁がなかった場所ですので、被写体がそこかしこに溢れており、これからが楽しみです。

 さて、いよいよ花粉症の季節到来ですが、皆さまは花粉症は大丈夫ですか?
 私は、二十年ほど前、……思い返すともうそんなに経つのかとゾッとしますが……、発症して以来、この時期はマスクが欠かせません。
 でも、花粉症対策でマスクをつけると、ファインダーを覗く時に接眼部が曇るんですよね……
 以前の一眼レフには寒暖の差が激しくてもファインダーの接眼部が曇らないように、アンチフォグアイピースなどが売ってましたが、今はどうなんでしょう?
 まあ、デジタルカメラなら背面モニターで撮影すればそんな心配は無用ですから、便利になったものです。

 とはいえ、私はいつもの癖でファインダーを覗いてしまうのですがね(苦笑)



 ところで、前回写真集の話を書きましたが、私は首都圏近郊に住んでいる事もあり、写真集目当てで神保町などによく顔を出します。カメラを探しに新宿や銀座、その他の地域のお店に行く事も。古書でも中古カメラでも実店舗がある場合、可能であればお店に出向き、基本的に自分の目で見てから買うようにしています。

 ネットで物を買うときには、内容や商品状態が想像通りの状態かどうか届くまでワクワクドキドキな気分で、想像以上に良い状態だと本当に嬉しいのですが、例えば商品が傷ついて届くのは受け取り側はもちろん送り手側にとっても悲しい。しかもそれが送り主側のミスや商品に対する気遣いのなさから生まれたものであればなおさら。
 書籍を例にとると、表面はもちろんですが、角などは傷みやすく、意識的に保護をしなければなりません。それを怠った状態で送られてきた商品の角が潰れていたら……これは運送業者の責任とは一概に言えないですし、若しかすると販売側が商品確認を怠ったか、既に傷つけてしまった状態のものを発送したのではと考えてしまいます。

 売買された商品にせよ、そして献本や返品の類なら尚更、そのモノを丁寧に扱いたい。最近連続で似たようなお話を聞いただけに、余計にそう思う次第です。



 さて、年末に「このままでは『写真の重箱』というより『カメラの銀箱』になってしまう」と書いておきながら、年明け一発目にもカメラに纏わる話を書いてしまった反省と、そもそも書いている人間からしても、内容がいささかマンネリ化してきた感がありますから、カメラからはちょいと離れて、ここ数年の写真展を取り巻く環境とSNSとの絡みについて思うところを書いていこうかと思います。



 先日、三好耕三さんの「繭 MAYU」を観にPGIへ行ってきました。会期が長いからと油断していたら最終日。こういうパターンが多すぎるので、なるべく早く会期の前半に行かなければと思うのですが、スケジュールの都合でなかなかうまくいきません。会場でバッタリ会った知り合いもいたので、自分だけではないのかもしれませんね。

 写真は16×20インチの大判カメラで撮影されたモノクロームの作品。30点近くはあったでしょうか。
 自然光のみで撮影されたという、繭の入った「蔟(まぶし)」と呼ばれる枠組みが、大判のカットフィルムの枠に綺麗に収められている為、実は蚕がこの印画紙上に絹を吐いたのではと思えるほどのリアリティーで、言葉の綾ではなく本当に思わず触りたい衝動に駆られました。蚕の繭には細かな凹凸があるので、繭の周りに掛かっている糸と共にに様々な光の濃淡を生み出しており、それはとても美しいものでした。

 作家である三好さんご本人がいらっしゃったので少しお話を聞けたのですが、入口脇に掲げられた、蚕達が蔟を這っている写真はシャッタースピードが1/2秒で撮影されたそうです。20枚ほど撮った中で、ほぼ全ての蚕が静止していたのは唯一1枚だけだったとの事です。

 実は蚕は、その成長期は食べているか寝ているか、糞をしているかと言うぐらい忙しなく、そして繭を作る段階になって蔟に載せられてからも首をフリフリ自分の入りたい枠を探しています。そしてやっと自分の枠を見つけたかと思ったら、繭を作るために糸を吐き出しながら身体をクネクネと動かし、繭が完成してその姿が見えなくなるまでのおよそ二日間、誠に忙しく動き廻ります(実際にはその繭の中で蛹になるまでもゴソゴソ動いているのですが)。
 そんな状態ですから、蔟の上で何匹もの蚕がほぼ静止した状態を撮るというのはスローシャッターでは至難の業です。
 しかも大判なので一枚一枚を撮るにはとても手間が掛かります。「お蚕様」のご機嫌を損ねてしまうと良い糸を吐いてくれませんから、養蚕農家もハラハラしながら協力していたのではないでしょうか。三好さんと養蚕農家、そして「お蚕様」との関係性が保たれたからこそ生み出された作品なのでしょうね。

 実は私自身、幼少の頃、親戚筋に養蚕をしていた所がありました。「していた」と書いたのは、やはり多くの養蚕農家と同じように格安輸入品や後継者問題など様々な要因で断念されたからなのですが、ある時その家から夏休みの自由研究を兼ねて蚕を分けてもらい自宅と学校で育てた覚えがあります。当時はうちの近所にも「ドラえもんに出てくるような空き地」や未整地の土地が多く、蚕の餌となる桑も豊富あったので、飼う事ができたのです。
 三好さんの写真を見ていたら、蚕の糞の始末が大変だったことや、桑の葉を食べる「カサカサ」「サワサワ」とした音が昼夜問わず聞こえていた記憶が蘇りました。

 三好さんは今回の展示で、メインとなった蔟の中に整然と並ぶ繭達の写真のみで成立させようとしていたそうですが、先に書いた蔟上の蚕達、そして繭の入った蔟が養蚕農家の床の間に置かれている写真、繭玉が文字通り山になっている写真などを補足的に展示したことで、繭を生み出す蚕と養蚕農家という存在が我々鑑賞者に提示され、美しさの裏に隠された日本の産業の繁栄と衰退を暗に匂わせるような、陰陽のモノクロームにぴったりな展示になっていたと思います。



 そういえば写真展を観に行ったり、参加したりすると、会場の様子を写真や動画で撮影している方に出くわす事があります。私も今回の三好さんの作品はその美しさや感動を留めておきたいなと思いましたが、もちろん撮ることはしませんでした。
 もし本当にそう思うなら、今回の展示の場合、作品は販売されているので買うべきが筋ですしね。

 しかし出展者自身が記録や宣伝の為に撮る事もあるでしょうし、会場が許可している場合、観覧側が自分の記録や後学の為などに撮影する場合もあるでしょう。
 もちろん出展者側からSNSでの掲載許可が出ていたり、むしろ宣伝としてお客さんに会場の様子を撮影してもらい、指定したハッシュタグをつけてSNSによる拡散をお願いする事も最近ではかなり当たり前になってきました。
 今は便利ですよね〜。デジタルカメラやスマホで写真や動画を撮ったり、THETAなどを使う事で一瞬で360度会場全体を撮影したり、アクションカメラとスタビライザー、果ては室内用ミニドローンなどで会場内を縦横無尽に撮影できますからね。

 でも出展者や会場が許可を出していない場合、了解を得ずにネットに載せる行為はまた別次元の問題が発生します。たとえその掲載先がオープンであろうとクローズであろうと。

 以前、展示の搬入が「ほぼ」終わったばかりの企画展の全景や各作品を撮った映像を、まだ展示が始まった訳でもないのに、SNS上にアップした方がいました。
 本人は準備が終わった達成感と、自分が出展している宣伝のためだったのでしょう。不特定多数に向けてではなく、あくまでもその方の友人であれば閲覧できる環境ではあるものの、ほぼリアルタイムで掲載したのです。

 しかし実はその企画は実際に会場に足を運んでもらって展示を見ることで「なるほど」と思ってほしい内容でした。それに加え、そもそもゲスト作家の写真が仮止め状態で掛けられている、完全に準備が終わってない時に撮影されたものだったので、主催者は頭を抱えてしまいました。

 では、主催者は事前にSNSへのアップを禁じていたかというと、「搬入直後に参加者がネタバラシをするとは想像しなかった」とのことでしたし、他の多くの方々も「まさか」という感じでした。
 撮影しアップした方は一足先に会場を後にしていたため、面と向かって「現時点でのアップは困る」「削除してくれ」というわけにもいかず、伝えるタイミングを逃してしまいました。しかもこういう場合相手も悪気があってやっているのではないからこそ、結局うやむやのまま……

 此処で難しいのは、そもそもの写真の特性として「目の前のものを複写」し「他者に広める」という面があります。だから、完全に否定すると目の前にある写真もそもそも「写真」という存在としての立ち位置が問われてしまうという堂々巡りが出てきます。
 その堂々巡りから抜け出すためには、例えば今回の企画展であればその企画自体の趣旨、つまり「写真」という言葉から一歩引いて全体を俯瞰した状態で関係者や鑑賞者に考えてもらう必要がありそうです。
 この辺りについては強要するわけにもいかないし、なかなか結論が出ない問題だと思うので、常日頃から頭の片隅で考えておきたいなと思っています。



 短くしようしようと思いつつ、最初に考えていた内容からどんどん膨らんで、今回も自分の目安をオーバーしてしまいました。一部分でも次回分に取っておけば、頭を悩ますことはないのですがね。

 そんな訳で、今回はこの辺りで。

2019年4月2日火曜日

志子田薫《写真の重箱 6 —ギャラリー巡り》

 皆様こんにちは。写真、撮ってますか? そして写真を見てますか?
 さて、先ずはお礼とお詫びです。
 Up40Galleryの『増殖』、そしてPaperPoolの『135 x 135mm』展(前期)はお陰様で盛況でした。足を運んでくださった皆様、そして気にかけてくださった皆様、ありがとうございました。
 『135 x 135mm』展の後期は2月3日17時まで開催中です。こちらもぜひご覧ください。
 そして前号の『135 x 135mm』展の説明において、自分の文字置換時のミスにより「135フィルム」と書くべき所を「135mmフィルム」と書いてしまいました。恥ずかしいったらありゃしない!/(^o^)\



 さて、年明け早々、『135×135mm』展に出すプリントを出力していた時に、Twitterで興味深い展示を発見しました。それは吉祥寺にある[book obscura]という写真集を専門に扱う古本屋で開かれている「写真集研究展 Vol.3『写真集とカメラ』」と云うものでした。
 昨年知人がここで写真展を開きトークイベントを行ったので、その時に初めてお邪魔したのですが、その時はイベントは勿論、終了後も賑わっていて、取り扱っている写真集をじっくり観る事が出来なかった事もあり、また企画がこのメルマガで書いている内容とリンクしてるじゃないかと思い、再訪して来ました。

 今回は多少時間に余裕を持って…

 結果、やはり時間が足りませんでした(笑)
 古書店巡りや写真展ではよくある事ですが、やはり今回の企画をじっくり観るには開店直後から閉店までいて、それでも時間が足りないだろうなと。写真集をじっくり観ようとすれば、1冊でも結構な時間とパワーを使いますから、当たり前といえば当たり前ですが。

 そして、元々神保町の有名な古書店で店員をされていた経験をお持ちの店主は、流石写真雑誌でも記事を書かれるだけのことはあります。写真集に関する博識さは勿論、「写真集」に対する並々ならぬ愛情を持っており、とても私なんか足元にも及びません。
 我々が某写真集の新旧版に於ける違いとその解釈を巡る印象を話していた時には、後からいらっしゃった常連さんが「そう云う見方もあるんですね」と言いつつ少し退いていた気も…(笑)



 さて、そこでも話が出たのですが、多くの写真家は、様々なフォーマットのカメラを使用しますから、誰をどのカメラで括るかは非常に悩ましいところです。
 4号で触れた高梨豊さんも、多くの代表作はレンジファインダーのライカで撮影されていますが、ライカといっても一眼レフのライカを使うこともあるし、もちろんプラウベルマキナなどの中判や、ジナーなどの大判カメラを使用して作品を生み出しています。
 大判で作品を生み出してきた写真家はといえば、アジェやヨセフ・スデク、アンセル・アダムス、ベッヒャー夫妻、ベレニス・アボットなど多くが浮かびます。しかし時代によっては大判しか選択肢がなかったこともありますので、ここではとっつき易い近年の日本の写真家をピックアップしてみましょう。

 ここに3冊の写真集があります。
 『町』『small planet』『ランドスケープ』
 これらの写真集は、ほぼ全ての写真が大判カメラで撮られています。

 それこそ高梨さんの『町』は、以前も書きましたから、多くは触れませんが、大判特有の細密さで町をしっかりと記録したものです。方法論の一つとして、そして大判特有の写真集として機会があったら是非観てみることをお勧めします。



 2006年に発表した『small planet』で、世の中をミニチュア世界に変えてしまったのは本城直季さんです。

 最近のデジタルカメラやスマートフォンのアプリには「ミニチュア撮影機能」と呼べるようなフィルターが搭載されていることがありますので、お使いになった方もいらっしゃるのではないでしょうか。これらは本城さんの作品がヒントになって生まれたものです。

 本城さんは、大判特有のティルトというアオリ機能を使って、実際に存在する事物をあたかも「ミニチュアで再現して撮影した」かのような作品は、元々大判を使っていた写真家達からは「別に新しくも何ともない」と言われたようですが、それは結局写真界という内輪の世界でしか考えていなかったからでしょう。
 彼が今まで一般の人が見たことのない新たな世界を見せてくれた功績は大きく、同年度の“写真界の芥川賞”とも呼ばれる木村伊兵衛賞を受賞しました。



 長年に渡って自然界と人工物との際を大判写真ならではの精細さで表現しているのは柴田敏雄さんです。先ほどの本城さんと同じ木村伊兵衛賞を1991年度『日本典型』で受賞されており、2008年には東京都写真美術館で大々的な個展「ランドスケープ 柴田敏雄展」が開催されました。この写真展に合わせて出版されたのが、今手元にある『ランドスケープ』です。
 当時写美の友の会に入会していた私は、特別内覧で作家自ら作品の説明をしてくれるという企画に当選し、その壮大なスケールの写真と対峙しながら柴田さんの話を聞く機会に恵まれました。
 自然界と、ダムなどの巨大な建造物とのせめぎ合い。共存しているようで、でも決して一つになることのないその関係性や、自然の強さと人間の作り出した巨大な力。それらを大判で隅々までピントを行き渡らせて撮影することで、よりその魅力を引き出しています。もともとモノクロでの作品がメインだった柴田さんですが、2000年代に入ってからカラーでも撮影し始めたタイミングでの大々的な個展はとても見ごたえのあるものでした。それにははるかに及ばないものの、写真集からもそのパワーは感じられると思います。



 さて、もう一つ紹介したいのは佐藤信太郎さんの『非常階段東京 -Tokyo Twilight Zone-』です。
 黄昏時の東京という街を、非常階段や建物の屋上などから撮ることによって、街の密度や光が織りなす不思議な秩序を作品にしています。
 これも大判の、それもフィルムならではという作品に仕上がっています。
 近年のスカイツリーの建設から完成までをデジタルで追うことで、新たな歴史の証人となった『東京|天空樹』と見比べると、また違った東京の魅力が発見できます。

 佐藤さんは2月末から「The Origin of Tokyo」という個展を東麻布にあるPGIで開催されます。
 東京の東側を作品のメインとして押し出していた氏が、江戸の中心地であった現在の皇居周辺を中心とした方角に目を向け、また新たな東京を見せてくれそうです。
 おそらくですが、個展会場では過去の写真集も見られるかもしれませんから、それらと本展示での作品を見比べたりしながら、氏の視点の移り変わりと大判とデジタルによるアプローチの違いなども意識して観たいと思っています。

 今回はこの辺で筆を置こうと思います。
 

2019年4月1日月曜日

大竹誠《様々な時代の都市を歩く 7 —80年代を歩く(後編)》


『木の事典』


 神谷町の“かなえ書房”

 友人の会社を8ヶ月で退職。その会社から300M先の知人の新しく作られた会社へ。そこはかつて『デザイン批評』の編集社があった場所。木材の開発と木造建築の見直しを勉強してゆこうと組織された組織。嘱託のような契約だが一安心。月々の収入を得るために、開発された『置き水屋』を販売して回った。茶室を持つことはそう簡単ではない。そこに目をつけて、マンションなどの部屋に置いてお茶を楽しもうという什器。都内のお茶屋をまわる。しかしなかなか売れない。そうこうするうちに、会社は木造建築を見直すための「日本建築セミナー」なるものをスタート。その事務方も仕事に。セミナーでは、文化庁の人や、有能な棟梁、建築や木材の専門家などもと、「建築見学会」「セミナー」が持たれる。普段見学できない物件も見ることができた。都内はもとより、近郊、大垣にも足を運び建物に触れた。毎回30数名の参加者。セミナーが終われば先生方との一献。参加者の多くは建築事務所勤務でお互いの情報が交換されていく。木材の仕事に関わったことから、後日。『木の事典』の編集、出版に関わる。

 中学の同級生が編集事務所(「かなえ書房」)を開いていた。他の仕事をしようかなと考えていたので、訪ねる。学友はカード式の書籍を作りたかった。カード式ならば読者がページを組み替えて自分なりのページ構成ができるわけと言う。そこから「カード式104葉の『木の事典』」を制作しだす。木材開発で知った、上村武、平井信二さんに会い折衝。「B5カード、箱入り」の初期全7巻が完成、販売。記載木材のそれぞれに「樹種」「枝葉」「樹幹」「組成」「利用」「組織の顕微鏡写真」のカードがある。つづいて第二期の「7巻」。最終的には20数巻まで刊行。

 「かなえ書房」では月1回の「焼き肉会」が持たれた。大きな餃子鍋を浅草の合羽橋で入手。ガスコンロに乗せて焼いた。酒盛りでは談論風発。そんな中、白井晟一研究の刊行も始まり、多彩なメンバーとの雑談。白井晟一の設計の現場、登呂遺跡近くの“石水館”(芹沢銈介美術館)へ。そうこうするうちに「かなえ書房」の机を借りてデザイン事務所を開いた。机2台分のスペースを借りで「現代デザイン研究室」とした。そこからアルバイトで建築雑誌社の「建築知識」の編集の請負仕事、家具商「海市」の図面下職などをゲット。住んでいた市川(千葉県)と「かなえ書房」の神谷町、「建築知識社」の乃木坂を往復。一時期は50ccバイクで排気ガスを吸いながら通勤。



いくつかの取材で歩く


「建築知識社」で創刊した『設計カタログ』は、友人が編集人。そのつてから編集請負をする。建築設計では膨大な量の製品の世界から選ぶ必要が生じていた。友人はそこに目をつけた。建築家が一目で製品の世界を把握できるように。生きるための『全地球カタログ』(アメリカで刊行)のように。請負仕事しながら、コラムページをやらないかということになる。
物件の取材や対談の企画など。→タイムリーに建築家「クリストファー・アレグザンダー」の盈進学園・東野高校の建設現場を取材(入間市)→キャンパス・プランを早々に描き起こすのではなく、まずはキャンパス構成員がどのような高校をイメージしているのか、期待しているものは何か、どのような教室で、どのような校庭で学園生活を過ごしたいのかをヒアリング→それらを200のパタン・ランゲージ(空間造形のイメージ言語)にまとめ、そのパタン・ランゲージを組み合わせることでデザインをした高校。→アレグザンダーの特色は、多彩なスタイルの引用(近代建築のなかで否定されたものもある)、スタイルの見直し、土着的な工法・構法の採用(自分の足で歩いて探し当てた素材。焼きムラのある屋根瓦、変形サイズのコンクリートブロック、形状の異なるPCコンクリート柱、色ムラのあるカラー鉄板など)→これが綾織りのような肌触りを生み出す。使用者の深い経験を尊重した設計(講堂の白漆喰柱、壁に色を塗りたい。そこで模造紙に原寸大の柄を描いて、かなりの時間利用者の目にさらし、そのうえで感想を聞きながら最終的な色柄を決める)。「一分の一(one
to one=現場合わせ)」という縮尺での思考。打ち上がったコンクリート壁を見て、出入り口が違うとチョークで指示する変更優先思考。→建築計画とは一つの闘争なのだという攻撃的。問題定義の姿勢。

集成材の産地へ


 奈良県の桜井市の工場など。他に、「Time Out」ページの座談会サポート。木村恒久、粉川哲夫、布野修司、石山修など。

・『現代和風建築集成』(講談社第一出版センター)の刊行が始まっていた。紙面記載の和風建築の実測調査の仕事の紹介が、先の木材開発会社の知人からあった。実測調査の経験はその会社での建物見学会ぐらいしかなかったが請け負った。どうにかなるだろうと。困ったら、専門の人を探し協力を仰げばいいのだから。画板と巻尺(スケール)、下げ振り、写真機を持って動き出す。写真家が取材に入るサポートも同時に。
・藤沢の近藤邸(遠藤新)、日暮里の朝倉邸、埼玉の益田孝(鈍翁)邸、箱根の白雲荘。京都大山崎の聴竹居(藤井厚二)、京都・北村邸、愛媛県・大洲の臥龍山荘、高山市の吉島住宅、神奈川の富永譲邸、軽井沢山荘、青山の植田邸(吉村順三)、週末集合住宅、谷口別荘(谷口吉郎)、六甲の石井修邸、南林間の桂花の舎(白井晟一)など。→名作に触れたことはとても参考になった。近代和風の中でも職人さんの手がちゃんと入ったものは美しい。建築家の自意識が露骨に見えてくるものは、空間の質がうすぺらでつまらなかった。

取材の現場から


 飯田橋に事務所(木造モルタルアパートの2階の一部屋で)を開き、家具制作の下請けなどとともに、雑多な仕事を開始。「週間住宅情報」への売り込みから、カラー16ページの仕事が来た。友人の事務所と共同でこなす。手探り状態で、取材開始、写真家と連絡を取る。その仕事のまとめ方を評価?されたのか。続いて、「私の住んでみたい街」(カラー4ページ)が始まる。当初、6回ぐらいの予定だったらしいのだが、読者に好評とのことから、1年半も続き、76回にもなった。著名な作家やタレントに「住んでみたい街」を歩いてもらい、高梨豊、荒木経惟、飯田鉄ら写真家がその街の「ここか?」という場所を撮影。編集請負としては、原稿取り、ポジ写真受け取り、ページの構成、歩いたコースと目印を地図の中に書き入れてマップ化。著名人の中には、原稿締め切りギリギリまで待たされることもあった。ハラハラドキドキの連続。モノクロ2ページの「間取りウオッチング」というページや、「住まいのサイエンス」のようなページも手がけてゆく。前記「住んでみたい街」は、第二期もあり40数回分の街を歩く。

 雑誌「ハイファッション」の取材で、東京、横浜の映画館巡りをやり記事化。建築のディズニーランド化としての「オランダ村」へも。→空路で長崎へ→船で大村へ。この間土着的な土を踏まずに。一気に異国の感じ。→オランダにもないオランダ村(オランダから昔の民家の図面をもらって参考に)をセールスポイントにしたハイパー・リアルな町。→オランダムードの表層との戯れ、オランダ気分のなかで時間を過ごすこと→観光村の一画にあるATMもある。テーマパークという名の「消費パーク」の証し。現代版遊郭?
◎ブローチを付け出した建築がみられ出す。そこで街を歩いた。→衣服にブローチを付けるように建築もブローチを付け出した。馬、キリン、ゴリラ、猟犬など動物ブローチ。バレリーナー、ペンキ屋など人物ブローチ。ゴルフボール、ロケット、靴、メガネなどモノブローチ。→それらは建築の広告化(話題作り)であり、建築の情報化(表層化)であり、建築の商品化(パッケージデザイン)である。
◎イマジナリーな建築の「ヤマト・インターナショナル」へ。→バブル経済の中から生み出されたポスト・モダン建築(見た目の豪華さ、ファッショナブルさ、ハイテクノロジーさ、アーティフィシャルさなどなどを狙った)。設計の建築家は、山国(長野?)で育った少年時代の想いを“雲母”(キラキラ輝く)に譬え、その重層的な雲母のイメージを東京湾ウオーター・フロントの建物ファサードに転写したという。
◎できながらにして“悪意”に満ちた(取材したが責任者の所在など対応が横柄、無責任)商業施設。数掛け月後、吊り下げた6トンの照明機器が落下して死亡者を出し、倒産、廃墟となったディスコ。「砂の惑星」などの物語りから個室がデザインされ、見るからに折れそうな華奢な鉄製階段。その欠点を隠すかのように迷宮化させるバリー・ライト。このライトはチェーンで吊り下げられ、ディスコが始まると一分間に何度も上げ下げされた。専門家によればチェーンは切れるものだと言う。→あの“悪意”感じた第六感は当たったのだ!


ポストモダン建築の寿命は早い!


 完成し、話題を呼んだ「結晶の花」(原宿)は数年の命。ファッション・ショーのように華やかな見せ場となりながらも、ファッションの寿命を全うした。建てられた時のプログラムは何だったのか?取り壊される時のプログラムは?経済の、商品の、つまりマーケットの論理そのままに従った住宅建築の登場か!
◎ショーのフィナーレにふさわしい「階段」をテーマとした建築の登場。→麻布一丁目の「エッジビル」。神宮前のレストラン。浅草のアサヒ・ビヤホール前の「ガラスの階段」。その他にも「京都駅ビル」など街のあちこちに「階段」がつくられだした。それら“階段”は何を目的としているのか?
スペイン広場のように多くの人がたむろする階段ではなくてファッション・ショーのように、脚光を浴びるスーパーモデル(虚像)がくねくねと降りてくる階段。
◎金属の棺桶のような映画館ビル:銭湯が激減するように、かつての映画館らしい単独の映画館も減りだした。変わって登場したビル内の映画館=シネコン。「大きな絵看板」「手だけ窓のあるチケット売り場」「映画館独特のドーム屋根」「入り口まで上がる広いスロープ」など映画館の特有のアイデンティティが失われていく。
◎からくり人形時計に吸い寄せられる人びと:銀座マリオン前、小田急ハルク前、原宿商業ビルなど街に増えだした「からくり時計」。時間になるとどこからともなく集まってくる人びと。インスタントなからくり時計を見ている人たちも「からくり人形」に見えてしまう。それらの人たちはからくり時計以上のさまざまな動きを見せてくれる。→有り余るほどの時計が生産されている時代に現れた、これらのからくり時計は、有限なを意識化させるからくり?「急がなくては!」。時報とともに、人びとが集まり、そこで物々交換をしたり、情報を交換したり、パフォーマンスをしたりしたらどうなるか。

地上げの現場から


 飯田橋の事務所開設後、にわかにバブルの時代となる→「地上げ」といわれる輩が横行する。地上げで買われたビルは、建物の窓枠を抜き取り、暮らしている人がいるのに建物内部を風雨に晒させて追い立てる。空き部屋のドアーを破り、残された家具、調度品を床に投げ飛ばされている。→建築資材の鉄パイプと足場板がどんどんと搬入される。その荒くれ作業は恐怖だ。なぜ?そんなやり方が許されるのか!荒くれ作業者は全体の計画など知らされず、依頼者の名前も知らず、それだけにやけくそで、投げやりに、そして乱暴となるのか。
◎「移転しない」と言っていた飲食店が、ある日夜逃げ同様にいなくなる。あの気だての良い夫婦はどこへいったのか?
◎四軒長屋の真ん中を買い取り、たちまちにその部分を解体し、長屋をつなぐ構造の梁・桁を露出させ、残された両側の長屋の壁面を工事用のシートかぶせたままの現場。ここでも住んでいる人に対して「住めなくさせる」恐怖の追い立ての手法が見える。
◎ある日、まだ使用できるビルの屋上にユンボがあった?屋上から下階へと少しずつユンボで解体してゆく現場。その風景はとてもシュールだ。そういえば、溜池の「小松ビル」の屋上に巨大なユンボの張りぼてが陳列されていたが、あれはこのことを示していたのか?

 街の銭湯をターゲットに地上げして、「銭湯経営なんか儲かる時代ではないよ」と買い取る手法→街の人々のささやかな社交場である銭湯を無くすことで、街の組成を破壊してゆくのだ→八丁堀の「藤の湯」のサヨナラ・パーティでご主人は近所の人の前で涙。うれしい涙ではなく、悔しい涙、恥ずかしい涙なのだ。家に風呂を持たずにきた街の人々の期待に応えることができない、そして街の社交場でもあるその空間を、自分の代で閉じることへの複雑な涙なのだ
◎地上げによって、土地が売り買いされ街の一画が、刃こぼれ状態となった街(神田神保町、外神田、小石川など)、地上げされた土地は駐車場にされたりするが、それも見せかけ。しばらくするとフェンスで四方を囲んで中に入れなくしたもの、駐車のためのラインや番号を路面に表示してあるのだが、どこからも車が入って来れないものなど傑作もある。しかし、駐車場となったものは、周辺の住民にとって気が気ではないだろう。2層3層に積み上げられた自動車は危険極まるものだから。ガソリンを摘んだ爆弾なのだから。そのような駐車場化を行政が支援しているのだから開いた口も閉まらない
◎銀行をロビーのように使用している土地成金の人たち→そう、彼らは地元から出てしまい、郊外に「億円邸」を建て、「アパート」を建て、後は銀行の利子で生活しようとしているのだ。刃こぼれの風景から戦後時代の風景が垣間見える→切断された長屋の壁に貼付けられたブリキ波板、隣の建物が取り壊されることで、それまでの隣の建物によって隠されていた住まいの裏側が露出する。壊されたコンクリート床と露出する大地。残された建物の外壁に痕跡を残す以前あった建物のシルエット。真ん中の家を取り壊され、残った壁を養生シートが梱包する。それは美しくもある。取り壊され、更地化され、そこが雑草で覆われる。

•廃墟の流行:
地上げによる「都市の死」、あるいは「都市の都死」によって「廃墟・廃棄」が現実のものとなった→生きられた香港の九竜城址、大友克洋の描く「アキラ」の廃墟都市、廃墟を棲家とする石川淳の『風狂記』、映画『ブレードランナー』のジャンク都市、『転形劇場』の廃墟のような、墓場のような舞台“地の駅”。数トンのゴミを積んだ舞台セット。「廃墟写真」や「廃墟ツアー」「廃墟アート」も生まれだした‘80年代だった。


松村喜八郎《映画を楽しむ 7 ―我が愛しのキャラクター列伝⑤》

追分の伊三蔵/1968年「ひとり狼」


市川雷蔵が演じた孤高のやくざ。その魅力については、冒頭で孫八というやくざ(長門勇)が語る言葉に集約されている。
「誰から聞きなすった?追分の伊三蔵、俺はよく知ってるよ。兄弟分かって?とんでもねぇ。俺は同じやくざでも半端者だよ。伊三蔵はそんなこたねぇ。筋金入りとでもいうか、本物のやくざってのはあの男のこったろう。追分の、というより人斬りの、というのがぴったりの男で、一つの場所に三日といたことはねぇんだ。兇状を重ねて、いつも誰かに狙われてるって覚悟が体にぴったり染み渡ってて、親分なしの子分なし、誰も傍に寄せ付けようとはしねぇんだ。一匹狼そのままだったなぁ」
 信州・塩尻峠の斬りI合いに遭遇して伊三蔵と知り合った孫八が二度目の出会いを果たす場面。上州・坂本宿に草鞋を脱いで井戸端に向かうと、先客がいて後ろ姿に見覚えがある。伊三蔵だった。近付いて行くと、足音を耳にした伊三蔵は懐から匕首を取り出して身構える。一瞬たりとも油断しない。なんだかゴルゴ13みたいだ。喧嘩(でいり)は伊三蔵が手を貸した方が勝ちと喧伝されているぐらい強いから、敵対する一家と一触即発の状況にある貸元が助っ人を頼んでくる。その貸元に非があったとしても、頼まれれば伊三蔵は手を貸す。「渡世の掟がたった一つの頼りよ。人情なんて余計なものをしょってちゃ生きていけねぇ」と言う伊三蔵はプロに徹している。その点でもゴルゴ的だ。
 女への冷たい態度もそうだ。昔、情を交わした酌婦に声を掛けられても素っ気ない。「達者で何よりだ」と言うだけで、表情ひとつ変えることなく酒を飲み続ける。カッとなった酌婦に「さんざん夢中にさせといて、さよならも言わずに放りだした。お前さんなんか、どこかの喧嘩場で殺されるがいいんだ。誰が泣いてやるもんか」と罵られても泰然自若。そのカッコよさにしびれた。
 言葉とは裏腹にまだ惚れている酌婦は、用心棒をしている浪人に伊三蔵が勝負を挑まれると心配でたまらない。こっそり果し合いの場にやってきて「大丈夫なんだろうねぇ」と本音がポロリ。たまたま店にいて事の成り行きを知っている孫八も固唾をのんで決闘を見守る。塩尻峠で見事な太刀さばきを見たとはいえ、今度の相手はかなり腕が立ちそうだ。そんな二人の心配は杞憂に終わる。伊三蔵は用心棒を斬り捨てて虚無的な表情で呟く。
「今夜もまた……、この目の中に新しい卒塔婆を一本立てるのか」
 この言葉は後半、「卒塔婆の夢を見るのか」と、少し表現を変えてまた出てくる。死者を悼む気持ちがあるからであり、非情ではあっても冷血ではない。
「サイコロの睨みに関しても神業」の伊三蔵は壺の中の賽の目が丁か半かを正確に見抜く。しかし、決して勝ちっぱなしで帰るようなことはせず、頃合いを見計らってわざと負け、いくばくかの金を置いて「皆さんで一口やっておくんなさい」と挨拶して去っていく。それが一宿一飯の恩義を受けている貸元への礼儀であり、余計な恨みを買わない一匹狼としての処世術でもある。こうした描写も「ひとり狼」のたまらない魅力だった。
 伊三蔵がやくざになったのは、奉公していた武家の娘、由乃との仲を引き裂かれたからだった。父親が門前で行き倒れとなり、みなし子となった伊三蔵は由乃の家に引き取られ、働きながら字を習い、武芸を学んでいるうちに由乃と愛し合うようになった。家名を重んじる武家にとって許されぬ恋は両親の怒りを買うことになり、「私を勘当してください」という由乃の必死の訴えも実らなかった。伊三蔵が女に深入りしないのは、今でも由乃を愛しているからだ。だから、由乃が婚約者との結婚を拒絶し、仕立物で細々と暮らしていることを知って、博打で稼いだ金を送っていた。由乃も伊三蔵を愛し続けていたのだ。だが、ようやく再会した伊三蔵はやくざになっていた。そのことをなじられて伊三蔵は言う。
「俺の両の手は斬った人の血で汚れてる。それを恥とは思わねぇ。悔やみもしねぇ。一人の味方もねぇ俺が誰にも頼らず生きていくには、この渡世しかなかった」
 やくざ渡世に生きる男の覚悟が滲み出ている言葉だ。伊三蔵について語り終えた孫八が「きっとどこか旅の空で、新しい卒塔婆の夢でも見ながら流れているにちげぇねぇや」と感慨にふけった後、場面が一転して、カメラは雪の中を歩く伊三蔵を映す。一匹狼のやくざとしての覚悟が浮かぶ顔がクローズアップされてエンドマーク。思わず拍手したくなるほど素晴らしかった。
 池広一夫監督が村上元三の原作に惚れ込み、何度も会社に企画を提出してようやく映画化に漕ぎ着けたという。その執念が雷蔵主演の股旅ものの中でも抜きん出た一作とした。中村錦之助(後の萬屋錦之助)主演「関の彌太っぺ」「遊侠一匹・沓掛時次郎」と並ぶ傑作だ。

木颪の酉蔵/1972年「子連れ狼/死に風に向かう乳母車」


 若山富三郎が、幼い大五郎とともに流浪の旅を続けながら、高額の謝礼で刺客を引き受ける拝一刀を演じたシリーズに登場した異色のキャラクターで、貧しい家の娘を買い、女郎として働かせることを生業とする女衒の元締め。酉蔵と名乗っているが、女である。掛川藩筆頭家老・三浦帯刀の娘として生まれながら、忌み嫌われる双子だったことから、越尾一家と縁のある乳母に育てられ、女だてらに跡目を継いだ。
 酉蔵は『週刊漫画アクション』に長期連載された原作の中でもとりわけ印象深く、魅力的だったので、観る前はそのイメージが損なわれるのではないかと危惧していたのだが、浜木綿子が見事に体現化していて大満足。小説であれ、漫画であれ、惚れ込んだ人物ほど頭の中に確固としたイメージができあがる。だから映画やドラマになったとき、たいていはガッカリさせられるので、こういうことは珍しい。
 酉蔵は旅籠の一室で一刀と出会う。一刀は、女衒の舌を噛み切って逃げてきた娘を匿い、宿改めに来た役人を追い払ったばかりである。酉蔵は、娘を渡せといきり立つ子分たちを鎮めて丁寧に挨拶する。
「手前は越尾一家の酉蔵と申しやす。この宿場から刈谷までの遊び場所すべてを束ねておりやす忘八者で、その娘は私どもの女衒、文句松が買ってきた玉でござんす。どうかお引き渡し願いとう存じやす」
 一刀は毅然とした態度で断るが、酉蔵は役人とは違ってひるまない。短銃を取り出し、忘八者とは信・義・礼など何もかもを忘れたやくざ者であることを話し、なおも引き渡しを迫る。
「手前どもと張り合っても何の得にもなりやせん。買っても負けても。その娘を渡したところでお侍様のご体面に傷が付くわけでもなし、どうかここのところはお手を引きなすって」
「断ると申しておる」
「どうでもその娘を渡せねぇと?」
「くどい」
 酉蔵は銃を撃つ。一刀は手練の早業でかわす。これで酉蔵は一刀が並々ならぬ腕であることを悟る。だが、それでも一歩も引かない。一刀に斬りかかろうとする子分たちを押しとどめ、「お侍様、私どもにも忘八者としての面子がごさいやす。このままでは引き下がれやせん。といって、小娘一人のために可愛い子分を死なせるわけにもいきやせん」と、殺し合いをせずに済む方法を提案する。逃げ出した女郎が受ける折檻を娘に科してから解放するというものだ。一刀は、死ぬかもしれないその折檻を代わりに受ける。声一つ出さずに凄まじい責めを耐え抜いて気を失った一刀を見下ろし、酉蔵は感に堪えたように呟く。
「本当のお侍ってのは少なくなったが、まだこんなお人がいるんだねぇ…」
 この侍は噂に聞く子連れ狼に違いない。酉蔵は一刀を父親に引き合わせて刺客を依頼する。掛川藩は、領主が狂人であることを側用人の猿渡玄蕃に密告されたため取り潰しに遭った。その功績で天領地の代官となっている裏切者、玄蕃を殺してほしいという。一方、玄蕃も画策を巡らし…、というストーリーはどうでもよくて、この映画がシリーズでも上質の出来栄えになり得たのは、浜木綿子の酉蔵が素晴らしかったからだと言っても過言ではない。二百人の侍と死闘を繰り広げ、依頼を果たして去っていく一刀を酉蔵が追おうとする。一刀との出会いが、男として生きてきた酉蔵を女にしていたのだ。「元締め、行っちゃいけねぇ。あれは人間じゃねぇ、化け物ですぜ」と子分に止められ、追いたい気持ちを懸命に抑えようとする酉蔵。その顔に浮かぶ思慕の情。浜木綿子の最高作ではないかと思う。