2019年5月20日月曜日

大竹誠《様々な時代の都市を歩く 9 ―90年代の街を歩く2—阪神淡路大震災の災害地へ》

1995年1月20日、阪神大震災(1995.1.17)の現場へ


 テレビでは上空から煙のあがる薄暗い街をヘリコプターからの映し出し、「古い木造建築に被害が出ているようだ」とスタジオからのコメントが流れている。しかし、古い木造建築に住まわざるを得ない人がいることを無視した「木造悪者論」に聞こえた→墨田区の木造住宅密集地「京島」をだしに使った脅し、あるいは都市が危険であることを隠してきた都市開発。→華やかな都市、消費都市、情報都市、ファッション都市なんでもよいが、都市の潜在的な、また、解決していない問題を忘れた考え→今、目の前で起きている現場を徹底的に取材し記録することではなくて、早くも、次の災害シミュレーションをやるテレビ人→「人災」だと決して言わないマスメディア→ならばと1.20現地へ。東京駅から新幹線で新大阪へ。新大阪でボトルウオーター(芦屋地区の友人宅実家のために)を入手し、「JR西宮北口駅」へ。駅前は夥しい数の自転車。人でごった返している。軍手、タオル、ペットボトル、ブルーシート、ヘルメットなどを並べる店がある。→国道2号を神戸方面から歩いてきた人、逆に西宮から神戸方面に行く人。みんなリュックを背負い、キャリアカーを引き、防塵よけマスク、軍手姿→歩き出す。少し先から様相が変わる。道路沿いの建物は、均一ではない倒れ方、押しつぶされた住宅、上に持ち上げそのまま下へ落とされた状態の住宅。瓦やモルタルの落下、剥離。内部からガスの爆発で壊れたような倒れ方の建物。新しく建てられたRC構造のビルのひび割れした柱や壁。道路を塞ぐ倒壊家屋、電信柱、ブロック塀→爆撃を受けたようにある部分が徹底的に破壊されている。その倒壊家屋が延々と芦屋まで続く。倒壊した家と、倒壊しなかった家との間には、どんな差があったのか。手をつけられず老朽化したものがやられ、金をかけてつくられたものはやられていないということか。新しい鉄筋のビルも倒れている。→「緊急車両」マークを張った車が往き来する。普段は歩くこともなかった街を、皆が行列をつくり往き来する。これまで歩いたことはなかったであろう20キロメートル離れていた街が繋がっていることを、知らない人からあちらの情報を聞くことを、道路で休息することを、道路沿いで飯を食べることを、人の家を心配そうに覗くことを、20キロメートルを歩けることを学び、実践する人々。

 芦屋市・翠ヶ岡の友人宅へ:大規模な集合住宅だ。外見上はなんでもないようだが、水が出ず、停電し、ガスが出ないとのこと。地震後、奥さんは靴下を二重に履き、スリッパをつっかける。部屋に中は食器が棚から飛び出して氾濫。怪我をしないようにとの判断だ。同時に、電気が来ていることを確かめ、何度も炊飯器で飯を炊いた。非常用にと。さらに中学生の男の子に自転車で街の災害状況を見てくるように指示を出す。そして、水道をひねりまだ出ているうちに風呂桶や容器に水を溜めた。母としての直感の正しさ。→近所では、同じように屋根のシート張り、老人世帯の水汲みを手伝う中学生。おしぼりを段ボール箱で持ち込んだ見舞客、さまざまな紙に消息を書いて壊れた家に掲げた人、近所の片付けを手伝う人、自転車を貸し借りする人、自転車修理の手書きビラ、バイクのダンピングセールの手書きビラ、自転車で街の様子を見回りする父と子がいた。→災害遭遇時の的確な判断と対応。予備・緊急用の生活用品のストックの必要性。巨大なインフラではなく、ミニサイズのインフラシステムを!これは、すでに60年代に提案されていた考えではなかったか?生活を緊急用のプログラムに変える被災者。

 芦屋駅前スーパーの倒壊現場、阪神高速道路の倒壊現場→建築工学、土木工学は何をやってきたのか。航空機や自動車ほどの緻密な研究があったとはとても思えない。かなりいい加減な計算しかやってこなかったのではないか?あるいは、専門家だけで考え出された「数値とか基準」を鵜呑みにしてきたツケ→生活の具体的なプログラムを考えない「プロのプログラム」がどうなるのかという実例→倒壊しない建築、倒壊しない構造物なんて可能なのだろうか。倒壊しない建築は不可能であると、なぜ発言しないのか→時間とともに建築も経年変化して、劣化するのだから、いずれ壊れることをプログラムに入れておく設計が必要となる。→ということは、修正が効かないメガロニックなものを都市空間に持ち込まないことが必要となる→厚さ1メートルほどに潰された家々。消費社会が生み出すものたちをどんどん囲い込んだ家々の崩壊。表層的なデザインも壊れてみるとただのゴミとなる→壊れたその風景は、不謹慎だがアートのように見えたし、だだっ広いアジアの大地のようにも見えた→夜になってもリックを背負い歩く人々。多くの人々が人を捜し、あるいは一時的に身を寄せる先へと歩く。これほど街を歩いた経験はこれまでになかったのではないか。歩くことで、どこが通行でき、できないか。どこが危ないビルか、どこに地割れが生じ、どの店が開いているのか、どこの人が亡くなっているのかなど把握しているようだ→マスメディアに頼らない情報が街に行き交っている→大阪までの帰りの電車。人々はさすがに疲れきった表情をしている。これほどの放心状態の人々の顔はこれまでに見たことがなかった。これほどの疲れを私たち都市社会は忘れていた。いや、隠してきた。→被害の少なっかった大阪は別世界のように、ネオンが輝き、建物に明かりがともっていた。

1.27日再び現地へ


 青木駅から長田へ→被災地の人たちと同じように20数キロメートルを歩くこと。臨時バスが運行しているが、まだ多くの人は歩いている。人が歩くことで街に流れができている。その流れに乗ることで方角や方向感覚を養える→歩けば歩くほど被害が延々と続いていることが分かる。切れることがない。→スプロール化したメガロポリスをはじめて襲った災害。どこの都市にもある普通の街を襲った災害。そのような意味ではこれは、私たちの街が襲われたことと同じだという認識。「東京でなくてよかった」と語る人々に、では「関西は何なのか?関西ならば、長田ならば災害にあってもよいのか?」。東京が守られて、何があるのか?むしろ「東京でなくて残念と言い返そうか」。そのような想像力が欠如している、節度が欠如している。→長田は靴製造の町工場が集まって町。木造の二階建ての長屋が路地に連なり、路地を介在して半製品や完成品が行き交っていた。その町が全滅、焼失してしまった。焼けた臭いが鼻をつく。菅原市場も同様の状態。アーケードは焼け落ちている。鉄道の高架基地も橋脚が座屈して電車が落ち込んでいる。→延々と歩くことで気づいたこと。川沿いは地盤が柔らかいのだろうか、倒壊家屋、護岸の崩れ、橋脚のズレなどが多い。同様に、崖地附近あるいは、坂道沿いでの被害が多い。被害の激しい地区のすぐ隣でそれほど被害を受けていない地区もある。地震の波はかなりムラのある、ずいぶんと不公平なものだ。その不公平さの原因を考えてみること→倒壊した建物の残土と、通行する車両の排気ガスとで街が埃っぽい。きれいに整備された街でも、一度壊れるとこのようになるのだ。そう見かけの現代都市が隠してきたものとは。→安全性を示す基準であり、基準の数値・数学、美しく見せるためのルール(どんな都市にしようかといったプログラムも議論にないのに)、衛生的思考、つまり脱前時代、脱土着、脱貧乏の思考。


3.1日3度目の現地歩き


 住吉から王子公園〜灘〜鷹取を歩く。3ヶ月あまり経過してが、まだ手がつけられない状態である。潰れた家屋の中に入れ込まれた黒色のゴム製フレキシブルダクトと残土に捧げられた「菊の花と茶碗」。再会しそれぞれの無事を確かめあう人。街角に置かれたトイレ。半壊しながらも営業を始めている喫茶店、中華料理店。街の活気はやはりこのような店の営業から立ち上がる。あるいは市場の営業再開から。→分断された鉄道を乗り継いで通勤、通学する人々。かつては通ったこともない道を人々が通ううちに自然と出来上がった通い道がある。しかも何本もできている。その一本一本に、そのコースを選んだ人々のクセのようなものを感じる。神社の境内を通り、植栽の垣根の多い所を通り、寄りたい店を通り、車の少ない所を通り、しかも最短距離のルートをつくり出した。したがって人の流れに着いてゆけば、土地の人でなくても目的地に辿り着ける。→タクシーの運転手さんの話し:「私は舞子町に住んでいるのだが、明石海峡横断橋の橋脚工事のおかげで命拾い。橋脚工事は巨大なもので何千本もの杭を打ち込んだので、淡路島北で発生した地震の波が、まず舞子のほうへ向かったが、その杭で向きを変え東の神戸の方へと進んだ」→横断橋の工事を今回の地震の原因とする小田実氏の意見。「神戸の山をあれだけ崩し、横断橋の工事のために大地にあれだけの穴を開ければ、大地だって持ちこたえられなくなるだろう。今回の地震は大地の怒りなのだ」。→タクシーの運転手さんの話。「長田は複雑な所で、役所がこれまで何をやるについても上手くいかなかった。長田の消防活動が遅かったのはそのことと関係している」。「道路に飛び出した倒壊家屋も多いが、まだ、手が付けられていないものは複雑な関係のある人達のものだよ」。→火災被害の大きかった長田の街の電信柱(なぜか電信柱は倒れずにあった)に掲げられた神戸市からのお知らせ「復興計画」。そこには、どこにでもよく見かける都市計画の絵が描かれている。街の中央に大きな街区ビルがあり、その周りを緑地と太い道路が取り囲むもの。ちょっとまってよ!これまで何十年にも渡り長田の人たちが育て、作り上げてきた街の風景はどこへいったの?誰がいつどのような議論をへて描いた都市計画なの?地震後の反省の上にたつ計画とはこのようなものなの?わずか一ヶ月あまりの時間で考えられたものと、何十年もかけてつくられたものとの違いに愕然とする。憤りをいだく。あまりに興奮したせいかカメラのフルム巻き取り操作を誤り、裏蓋を開けてしまう。おかげで、その「お知らせ」を撮影したコマは光りかぶりとなってしまった。→兵庫県南部大地震の現場を見ているうちに「あらゆる建築物は壊れるのだ」といことがあたりまえのこととして思えてきた。そして、その目で東京を眺め歩いてみると、ああ、この高速道路は倒壊するな、あの建物も倒れるだろうなと感じるようになった。そのような第六感を鍛えて行くことも、都市を歩くトレーニングの一つとなろう。



後日談


 東京造形大学のグラフィッククラスで、学生たちと阪神大震災をテーマにしたビジュアル表現を試みる。学生たちは、新聞記事などを参考に試行錯誤。写真を選んだり、文言を書いたりラフスケッチ。ラフを元に版下をつくる。最終的にはシルクスクリーン印刷。木枠にシルクを張り、感光製版。版をを洗い目止めする。手を抜けない作業なので、一連の動きに身が入り出す。色違いの版を作り、刷り始めとなる。一版では定かではなかった図像が、版を重ねることで鮮明となってくる。学生から歓喜の声。「やったね」。「災害」の「災」の字をクレーンで吊り上げると、「人」だけが落ちてくるビジュアル。「人がもたらした災害」というメッセージである。もう一枚は「災害写真」を背景に、この災害で亡くなった死者数6305を大きなもにで表示したビジュアル。

 出来上がった作品をどうするか?そうだ、小田実に送ろうということにした。小田実さんに送ったら(文学者住所録から)、後日、小田さんから返事があった。彼が出演した大阪のシンポジウムで、舞台の背景にそれら学生のポスターを貼り出してくれたというもの。その手紙を学生に見せる。

2019年5月12日日曜日

志子田薫《写真の重箱 9 —ギャラリー巡り》

 皆様こんにちは。写真、撮ってますか? そして写真を見てますか?

 私は新しい職場や仕事、そして通勤にもなんとか馴染みつつ、職場の周りを毎日少しずつ撮り始めています。
 しかしショックな出来事が……
 メインで使っているフィルムカメラは、巻き戻して裏蓋を開けるまではカウンターがリセットされないので、完全に巻き戻ったかどうかは、フィルムが巻き取り側から外れた感覚と巻き戻しレバーの空回りを確認してということになります。
 今回もいつものことなので普段通りにやっていたつもりでしたが、ちょっと考え事をしていたからでしょうか。
 いつものように裏蓋を開けたところ、まだフィルムが巻き取り側に残っていました。
完全に巻き戻したと思っていたフィルムが巻き戻し切れていなかったのです。慌てて裏蓋を閉めたところで後の祭り。転職初日に撮った写真が感光してしまいました。こんなことは初めてです。

 当初は36枚撮りで1日1枚撮れればちょうど良いかなと思ってフィルム縛りにしたのに、月の真ん中で既に3本目に突入してしまったことに加え、初日分が感光してボツになってしまったこと等からフィルム縛りは早々に諦め、もう少し肩の力を抜いて撮り続けることに決めました。


 いつも書き出しで「写真を見てますか?」と問いかけておきながら、実はここ最近あまり写真を見に行けていないんです。
 というのも、もちろん個人的に慌ただしい時期にぶつかっていることもありますが、最近見たい写真展の会場(ハコ)が増え、しかもそれらが例えば都内であっても地域的に分散しているから、ルートを考えるのが大変になってきたんですよね。日曜休みのところも増えたので、物理的に限界が出てきました。さらに自分が展示に参加していたりすると、そこも含めてルートを考えねばなりません。
 ここ最近でもお世話になった方の個展や友人の参加しているグループ展など、いくつも行き損ねてしまいました。

 それにしても、まぁ今に始まった事ではないのですが、最近は写真展を開催できる会場の候補として、写真専門のギャラリーや公共の貸しスペースだけでなく、美術系ギャラリーやギャラリーカフェ、おしゃれなカフェの片隅にコーナーがあるなど、裾野が広がりました。写真の「展示」自体のハードルはかなり低くなりましたね。

 この私も、ギャラリーカフェでの企画展参加や、アート系書籍をメインで扱うブックカフェでの個展経験があります。
 そしてギャラリーといえば、もともと絵画をメインで展示するギャラリーが広尾にあり、そこで生け花とコラボレーションというかルームシェアというか、ともかくそのギャラリーで初の本格的な写真展示を行ったことがあります。
 その後このギャラリーは恵比寿に移転し、今では絵画はもちろん数多くの写真展を開催しています。
 実は生け花の方々から、移転後のギャラリーで又やりませんかとお声がけ頂いたのですが、個人的事情により辞退する事に。
 折角のチャンスだったのだから、もったいなかったとは思いますが、ある意味そのお陰で今があるので、これも縁という事ですかね。

 とはいえ、やっぱり古い頭だからでしょうか。きちんと写真専門ギャラリーで展示をしたいなという思いがあります。

 ちょっと話題が逸れてしまいましたので、話を写真ギャラリーに戻しましょう。

 数年前は自主ギャラリーやメーカー系ギャラリーが閉廊する話を聞くことが多く、寂しかったのですが、最近はそれらとはまた別のギャラリーが様々な所で出来つつあります。
 それは(流れ自体は過去にあったものに近いのかも知れませんが)、新しい写真学校が併設するギャラリーや、それらの仲間から派生したギャラリー、写真関係者が開いたギャラリー、そして異業種が手がけるギャラリーなどです。
 これらはある意味場所に縛られる必要がありません。なにしろ展示するにしろ見るにしろ固定客(関係者)が来る前提がある訳ですから、銀座や新宿などの写真ギャラリーが多い場所に作る必要がないのです。

 その一方で、写真専門のレンタルギャラリーの中には岐路に立たされている所も出てきているようです。
 今までは、写真を展示する場所はそれらに限られていましたが、別カテゴリの展示場所が増えてきたため、展示する人たちが分散することに加え、携帯やモニタで見られることを前提とする写真が増えてきているので、今までのようにプリントを見せる必要性を感じない人が増えてきていることもあるのでしょう。

 今後はこの流れがさらに細分化されていくのかもしれませんね。そうなれば写真展を見にいくのが今以上に大変になりそうです。


 以前写真集の話を書きましたが、私は首都圏近郊に住んでいる事もあり、写真集目当てで神保町などによく顔を出します。カメラを探しに新宿や銀座、その他の地域のお店に行く事も。古書でも中古カメラでも実店舗がある場合、可能であればお店に出向き、基本的に自分の目で見てから買うようにしています。

 ネットで物を買うときには、内容や商品状態が想像通りの状態かどうか届くまでワクワクドキドキな気分で、想像以上に良い状態だと本当に嬉しいのですが、例えば商品が傷ついて届くのは受け取り側はもちろん送り手側にとっても悲しい。しかもそれが送り主側のミスや商品に対する気遣いのなさから生まれたものであればなおさら……

 書籍を例にとると、表面はもちろんですが、角などは傷みやすく、意識的に保護をしなければなりません。それを怠った状態で送られてきた商品の角が潰れていたら……これは運送業者の責任とは一概に言えないですし、若しかすると販売側が商品確認を怠ったか、既に傷つけてしまった状態のものを発送したのではと考えてしまいます。

 売買された商品にせよ、そして献本や返品の類なら尚更、そのモノを丁寧に扱いたい。最近連続で似たようなお話を聞いただけに、余計にそう思う次第です。

 逆に先日訪れた古書店は、支払いで私が小銭を準備している間に、素早く本にビニールカバーをかけ、更にラッピングペーパーで包み、袋に入れる迄の一連の動作をスムーズに行いました。実はあまりにも自然な動作だったので、店頭では気付かず、帰宅してから気がついた次第です。

 人によっては過剰に思えるかもしれません。でも私には、そのお店が商品に対して愛情を持って扱っているお店だという印象を受けました。


 今回はいつも以上に纏まりがなくなってしまいました。書きたいことが迷走してしまったため、継ぎ接ぎだらけの文章になってしまった感があります。自分に喝を入れ、新しい年度はもっと内容を充実させなければと思います。

 ではまた次号。

鎌田正志《デザインの陰り 1》

エドワード・ホッパーな爺さんの圖


好きな画家の一人にアメリカ人のエドワード・ホッパーがいます。2000年の7月に東急Bunkamiraで初めて本物を見ることができました。好きな作家の絵の本物を見ると「複製(画集、図録)」との違いがよくわかるのは当然として、その絵を描こうとした作家の心に少しだけ近づけたような気がしてくるものです。本物を見るのは大事、ということよりも本物を見ないとわからないこともあるなぁ…と、そのとき思ったのを想い出します。

写真は私の故郷である島根県浜田市の自宅近くの小さな入江で撮った写真です。今年の初め父が92歳で亡くなったことで、この町に血縁者がひとりもいなくなり、もう帰省することもなくなりそうです。

デザインの周辺……INSIDE AND OUT

8号まで続けていたメールマガジン『月刊デザインの周辺……INSIDE AND OUT』をリニューアル。メールマガジンとしては記事の分量が多く、メール形式では読みにくさもあった問題を解決するために、メールマガジンでは記事の紹介に徹して本文はこのBlogで読んでいただくことにしました。メールマガジンではその構造上、無理な改行をせざるを得ません出したが、こちらではそんな規制もなく、ずっと読みやすくなってい ます。また記事掲載も、月間ということにこだわらず、執筆者に合わせて自由に掲載することにしました。『デザインの周辺……INSIDE AND OUT』は今後も精力的に発信し続けます。

2019年5月11日土曜日

大竹誠《様々な時代の都市を歩く 8 —90年代の街を歩く1—バブルで散々いじり回された都市を離れて》


「都市の死」とともに開始された、「街づくり」


 飯田橋に事務所を構えた後の数年後。「千代田区街づくり協議会」へ参加することになった。飯田橋から神田神保町界隈は地上げの現場でもあった。古い長屋が底地買いされていた。「地上げ」。→知らないうちに地域を離れる地主、家主。「地上げ」の横行を「それは困る!」と訴える借家人。「地上げ」の実体を把握していない(把握していても知らんぷり)役人→ヒューマンスケールに富んでいる古くからの木造住宅や路地の草花を残したいと述べる人がいて、あれは困るという人がいる→テレビではそんな対比を紹介。「まちづくり協議会」でNHKテレビに出場も。事前に決められた人が決められたことの範囲語る虚しさ。司会者も他の人に話を振らない。→銀行では、土地を売った金持ちがソファにでんと座り、行員と親しげに話している。飯田橋を離れ、世田谷に住み出したと。「へえ~」そうなんだ。ショートケーキの美味かった店も閉店。歯こぼれ状の街が現れた。→そんな中で、飯田橋の古くなり汚れの目立つJR高架線下に壁画を描いたらとプロジェクトが始まる→いいだべい(飯田橋の壁ゆえ)と商店のご主人の提案。武蔵野美大の学生らの下絵+プロのペンキ屋さんによる壁画が生まれた。1000匹の大小クジラ群。スーパーグラフィック。まちづくりで行政がお金を出せるのは、公共の空間や、道路上だから、この手のプロジェクトは全国に広まり出した。

 そんな中、相模原駅の商店街の「カラー舗装化」の仕事がやってくる。相模原駅近くの「街づくり協議会」と一緒に考える仕事。商店街の活性化の提案。一つは、「道路のカラー舗装化」、もう一つは「ストリートファニチュアー」。「どんなカラーにする?」「どんな街路灯、どんな入口ゲートにする?」意見を聞いて、該当するであろうデザイン案を、外国の雑誌などから切り抜きパネルに貼りプレゼ。十分な時間がない中でのプレゼは、どこの事務所もこんな具合であった。→一応の提案をした後、打ち上げということで、「まちづくり協議会」の人たちと、箱根へ温泉合宿。嬉しいような面倒くさいような気分で。仕事にはこのような付き合いがついてくる。

 「トヨタ自動車」ディーラーショップの実態調査の仕事も舞い込んだ→東京、横浜のディーラーショップをめぐり歩き、問題点を探し出す仕事だ。ショップサイエンス(「環境計画」という会社が編み出した、店舗デザインの検証の研究書)の視点から調査分析。街の中にあるディーラーショップの見え方、ショップのデザインの形式などを、写真取材、図面化。大した提案ができるわけではないが、看板の見え方、周りの環境の中で目に立つ建物のありかたなどをレポート。その延長から、銀座「SONY」ビル2階のトヨタ自動車ショールームのリニューアルの仕事もやってきた。ビル内を歩いて回り、銀座の街も歩いた。銀座はギャラリーの街。そこで、ショールームの壁などを取り払い、オープン型ショールーム“TOYOTAギャラリーを提案。あのギャラリーは2階から車を入れる方式であった。→友人に誘われて。飯田橋から両国へ事務所引っ越し。同じ階に友人の事務所「E.T.プランニング」(東京の東に位置して、その立ち位置から都市を考えようと命名)、下の階に「現代建築思潮社」(『住宅建築』を発行)。「E.T.プランニング」との街の議論。東京都の政策で、都庁が新宿に移転。その界隈は建設ラッシュ。加えて、渋谷など東京の西側に大規模な資本が投下された。一方、頭部低地の下町は現状維持。ちょっと待ってください!東側には江戸以来の大衆文化が根付いている。それを忘れて東京の都市計画もないだろうと。東に拠点を置いて活動をしてゆこうと、両国に仲間が集まり出した(以降の東側には、「スカイツリー」「錦糸町駅界隈再開発」「すみだ北斎館」などが建てられたが)。「E.T.プランニング」といくつかの街の調査の仕事を実施。


再びヨーロッパへ(友人の会社「メディア・リンク」のツアーに参加)


 「電子ブック」を手がけるプロジェクトが始まった。紙に比べ電子メディアならば、生産にかかるエネルギーが少なくて済む。それが大メーカーを動かして友人の会社のビッグなプロジェクトとなった。「電子ブック」のパッケージデザインセクションとして参加。契約が結ばれたところで、ヨーロッパ研修ツアーをと繰り出した。→デジタルブックの研修先があるわけではなかった。そこで、最先端の話題のパリの施設などを織り交ぜて散策。→「パリの蚤の市」:高架線橋脚の下、ゴミと区別のつかない品物を売る人、壊れている玄関錠を売る人、靴の片方を売る人、通常の店では考えられない品物が並べられ売られる。文字通り多国籍な人たちが群れている。同行の仲間と「蚤の市プレゼント交換」。→「パサージュ都市」あるいは「博覧会都市」パリ:異なる建物をガラスの天蓋で覆い歩行者専用の街路ができた。ガラスのショーウインドー、鉄製の装飾柱、シャッター、照明、入り口アーチ、時計。パサージュからパサージュへの連続、接合→「科学都市ヴィレット」へ。屠殺場であった場所の再生。体験できる未来都市の感覚。徹底してキュービックな建物群。かつてあった水路の再生→ミュンヘン、ニュルンベルグへ。中州の科学博物館。原寸大の飛行機の陳列。夜のビヤホールへ。数百人がわいわいがやがやの大空間。両腕に1Lのジョッキーを45杯差し込み束ねて運ぶ店員。あちらこちらから歌が聞こえてくる。机に乗って踊る人もいる。日本のゲームを即興的に披露し、その場の人たちと戯れる(ちん!~ちょう!~ぶらぶら!そして、ちょう!~ちん!~ぶらぶら!というゲーム。「ちん」=両手合掌で人へ向ける。指された人は「ちょう」と誰かに向けて言うだけ。言われた人は「ぶらぶら」=片手で蛇が動くような動作で誰かに向ける。この繰り返しをしてゆくだけ)。大いに受けた。帰りは路上で小学生の集団に遭遇。すかさず『菩提樹』の曲を歌う。→「ニュルンベルグ」:古城の街。水路があり、金属細工のおもちゃが店頭を飾る→スイスの「ベルン」へ。思わぬ水の豊富な川辺の街。自転車が多く排気ガス対策を理解する市民。古い建物多く、古い噴水も多い。建物一階はアーケード、そして地下がある。そこは核のシェルターを兼ねたスペース。アーケードに並ぶ野菜には産地の名前が表示されている。チェリノブィリの不安の影か。この街はアインシュタインも住んでいた。→「インターラーケン」:リゾート地。ユングフラウヨッホ山へ。登山鉄道で展望台直下まで辿れる。そこは銀世界。Tバーで移動して、スキーができた。→「電子ブック」のパッケージデザインでは、当初は弁当箱ぐらいの厚さがあった。ハードウエアーがまだまだ圧縮できなかった。漫画の時代ゆえ、両面画面のボディも手がけた。FDに入れられた漫画が要画面に表示されると、一同歓喜の声!片手で操作できる薄型も製作される。現在のi-podと変わりはないデザインだった。使う機能を優先させればキーもほとんどないデザインとなるのは当たり前。その画面で、囲碁ソフトを表示しゲームしだす。そんなプロジェクトが獲得できたのは、やはりバブルだったのか。

香港へ(メディア・リンクのツアーに参加)


 九竜城址のスラム取り壊し寸前の廃墟、その前の道路の移動祭壇。取り壊されるのを惜しむ人の祈りの場か。隣接地の共同住宅もすでに激しい増改築が行われている。窓からは竿が突き出され、開口部での増築をあちこちで目撃。九龍城跡のスラムがなくなっても、香港は街全体がカオス。→市場。上海夜店通り、店舗の前に臨時の露店が店を開き、街を包み込んでいる。どこからどこまでが店なのか?重ね着のようだ。道路上で店を開くリアカー利用の店。チェックがあればいつでも逃げられる。→「女人街」「男人街」「スポーツ・シューズ街」など→ギャンブル都市マカオへフォーバークラフトで渡る。夜間、荒れ模様に中、船は速度を上げ、たびたびバウンドしては上下して疾走。並ぶギャンブルビル。ゲームセンターのようなスロットマシーン回廊。シークレット・ルームの静けさ、殺気。ルーレットにトランプ。→背の高い金網フェンスで四方を囲まれたダウンタウンの市場。鳥かごに詰め込まれたニワトリ。血を抜かれぶら下げられたニワトリ→高層ビルの真下に広がる屋台。ニワトリ、魚、カニが並ぶ。ランチに食べたスープには、鳥の皮つき脚と爪が入る薬膳→圧倒される看板。道路に深くかぶさる看板。縦書き、横書きと氾濫する看板。所狭しと並ぶ看板、負けじと大きさとデザインを競い合う。→半日、中国の経済特区である「深圳」へ。駅前は巨大な看板。マルボロもある。→パスポートチェックのお姉さんの放漫な態度。高座からパスポートを投げて返す。即席に建てられたような超高層ビルの下はバラック群が広がる。とにかく活気に満ちている。地方へ向かう長距離バスには、縞柄の旅行バッグをいくつも持った人の列。埃に満ち砂漠の中にできたような都市である。昼を取ろうとレストランへ。注文とともに、漢字をメモ用紙に書いて「醤油」を催促。ソルトで通じなかったが、漢字なら通た。お互いに笑顔。

再び「住宅情報」のグラビアページ企画。「住んでみたい街」のまとめ役として街へ



 バブリーな建物とバブルの波を受けていない建物の混在とアラベスク。気になるものの撮影、筆者が書こうとした視点----「住んでみたい街の隣の街に住む」「何かを使用とした時に訪れてしまう街」「都会の疲れを癒す街」「新旧の表情が混ざった街」「急行が止まらないから落ち着ける街」などなど。人が街をどのように捉えているのか?多彩な解釈があることの確認→写真家が撮ろうとしたもの、撮ろうとしなかったもの。現場の空気の読み方の写真家の違い。じっと待つ写真家。女子高校生を追いかける写真家。3時間でも撮れるまで歩く写真家。小一時間ではい終わりとなる写真家。→生活の痕跡、歴史の記憶、街の気分、目の前を行く人、植栽、猫、水、畑、空→「匂いのする街」「食をそそる街」「甘くけだるい匂いが漂う街」→流れる水、漂う水。凸凹の肌触り、つるつるとした肌触り→影のある街、影のない街。街の音がある街、無い街→歩きやすい街、歩きにくい街→ものがある街、ものが無い街→街の路上集積物から街を読む。この第二期は、56の街を歩いた。事務所へ戻り、二千分の一の縮尺の白地図(役所の都市計画課で入手)へ歩いた軌跡をはめ込み、ランドマーク、撮影地点など記入。同時に自分で撮影したポジも現像出し。

2019年5月10日金曜日

松村喜八郎《映画を楽しむ8 ―我が愛しのキャラクター列伝⑥》



マレル艦長とシュトルベルク艦長/1957年「眼下の敵」


 4月半ばに久し振りの潜水艦もの「ハンターキラー潜航せよ」が公開される予定で、これがなかなか面白そうだ。潜水艦ものには名作が多く、その先駆けとなった「眼下の敵」は、南大西洋で繰り広げられる米駆逐艦と独潜水艦Uボートとの攻防戦の面白さもさりながら、両艦長のキャラクターがいい。駆逐艦の艦長がマレル(ロバート・ミッチャム)、潜水艦の艦長がシュトルベルク(クルト・ユルゲンス)である。

 貨物船の航海士だったマレルは、出航してから艦長室を出てこないため「船酔いなのさ。海軍も落ちたもんだ。民間人を送ってきた」と不安視されていた。その不安は、レーダーが潜水艦の司令塔らしきものを捉えてからの的確な指示で一掃される。マレルは、受信しやすいよう減速して追跡させ、レーダー影の進行方向が変わっても一定の進路を保つ。Uボートなら、相手も我々の存在をキャッチし、変針してみて敵かどうか確認するはずだ。変針に合わせて進路を変えれば潜航されてしまう。この推測どおりレーダーに映っているのは偽反射だろうと判断したUボートは浮上しての航行を続ける。

 一方、シュトルベルクは第一次大戦でも戦った古強者で、偽反射と決めつけるような無能な男ではない。それでも潜航しなかったのは水中航行では速度が遅くなり、48時間で僚船と接触して暗号書を受け取るという重要任務を果たせなくなるからだった。任務に忠実だからといってヒトラーを信奉しているわけではなく、むしろ批判的であることが、艦内の貼り紙“総統が命じ、我らは従う”を見る表情で分かる。シュトルベルクは信頼の厚い副長に言う。「この戦争に栄誉はない。勝っても醜悪だ」と。ユルゲンスには古武士のような風格があり、このキャラクターには適役だった。

 いつも眠っているような風貌のミッチャムも良かった。マレルには、自分の船が魚雷攻撃を受け、帰国させるために乗せていた新妻を死なせてしまったという悲しい過去があるのだが、ドイツ憎しの感情に凝り固まってはいない。軍医に「悲惨と破壊に終わりはない。頭を切り落としてもまた生えてくる蛇だ。敵は我々自身の中にある」と語り、激戦の最中でも沈着冷静だ。発見したUボートが急速潜航し、魚雷を発射してくることは確実なのにジグザグ航行をさせない。艦尾魚雷を使わせ、再装填している間に爆雷攻撃しようという作戦だ。いつ発射するかの判断を誤れば魚雷の餌食になる危険な作戦だが、「潜航に5分、潜望鏡深度に戻るのに3分、確認に2分、今から10分後に発射だろう」という読みが的中する。発射のタイミングに合わせて取り舵を切った駆逐艦の脇を魚雷が通過していき、間一髪セーフ。さぁ反撃開始だ。

 駆逐艦の艦長が容易ならざる相手だと知ったシュトルベルクは、爆雷から逃れるために我が艦の深度をつかませようとする。まず深度100に潜航し、爆雷投下の準備が終わった頃を見計らったうえで深度を150に変更。だが、マレルはそれを予期していた。敵がさらに潜航し始めたことを確認してから爆雷の深度を150に設定させる。爆雷投下。Uボートが激しく揺れ、艦がきしむ。この絶体絶命の危機を、何度も死線をくぐり抜けてきたシュトルベルクは見事な操艦で乗り切る。

 Uボートを見失ってもマレルは慌てない。再びUボートに遭遇できるであろう地点を航海士に計算させる。これまでの敵の動きから重要な任務を帯びていることを察知し、必ず進路を元に戻すと読んでいるからだ。計算した通りの地点でUボートを発見し、第2ラウンド開始。こんな調子で両者の攻防を書いていると長くなるし、観ていない人の興をそぐのでやめておくが、マイケル・パウエル監督の演出が冴えわたり、マレルとシュトルベルクが顔を合わせる場面の清々しも忘れ難い。シュトルベルクが敬礼すると、マレルも敬礼を返す。互いの尊敬の念がそうさせたのだ。

トッシュ・ハーン二等兵/1969年「燃える戦場」


ロバート・アルドリッチ監督の戦争アクションに登場した看護兵で、後にも先にもこんなユニークなヒーローはなかった。演じたのはマイケル・ケイン。その型破りなキャラクターは指揮官が作戦の内容を説明する場面で端的に示される。


 南西太平洋・ニューヘブリデス島の英軍基地。指揮官が米軍から派遣されてきた日本語に堪能なローソン大尉(クリフ・ロバートソン)を紹介し、1週間後に近くの海域を通過する米軍船団を守るため、島の北部にある日本軍基地に潜入して無線機を破壊してくるよう命じる。ローソン大尉が来たのは、無線機を破壊した後、持参した無線機で日本語の平常通信を行い、基地に異状がないと思わせるためだという。話を聞き終えてトッシュが手を挙げて質問する。

「ローソン大尉にもしものことがあれば、作戦変更もあり得ますか?」

 この発言に一同唖然。「もしものこと」とは死ぬことではないか。できれば危険な任務は回避したいという本音が透けて見える。作戦変更などあり得るはずもなく、指揮官は日本語の偽装通信は時間稼ぎであり、無線機を壊せばまずは成功だと話す。ローソンは、それなら俺を呼ばなくてもいいじゃないかと思ったはずだ。ローソンは戦闘経験がない。最前線から遠い基地で日本軍の無線を傍受するだけの日々を満喫していた。「お門違いだ。戦争好きなら他にいる」と、一度はニューヘブリデス行きを拒否した人物である。戦闘はまっぴらごめんという点でトッシュとローソンは似た者同士だった。

 だが、作戦が失敗して退却する途中、存在しないはずの空軍基地を発見してからローソンが変わる。このままでは船団が空襲に遭う。自分たちの無線機を失っているので、知らせるには基地に帰るしかない。部隊は日本軍の追跡をかわしながらジャングルの中を進む。すると、拡声器を使って英語で投降を呼びかける声。

「諸君が基地へ戻る気なら漏斗を通る水と同じだ。今どこにいてどの道を通ろうと、必ず境界線の前に出る。漏斗と同様、先細りの運命だ。基地に近付くほど我々の網は狭まる。この島の空軍には度肝を抜かれたはずだ。戻って報告したいだろうが、諦めてもらう」

 声は山口少佐。演じているのは高倉健。初めてのアメリカ映画出演だった。山口少佐が言う境界線とは、ジャングルを抜けた場所に広がる草原のことで、その先に英軍基地がある。草原では身を隠せないから銃撃を逃れることは極めて困難だ。山口少佐は、今すぐ全員が投降すれば、飛行機の存在が公然の秘密となる1週間後に釈放しようと提案する。何度もこの呼びかけが続き、心理的に追い詰められて投降しようと言い出す兵士が出てくるが、トッシュもローソンも山口少佐の言葉を信じない。違うのは、なんとしても基地に戻ろうとするローソンに対し、トッシュは北に向かおうと提案することだ。

「北に引き返して2日も寝てりゃ後は笑っておしまい。月曜の朝になれば敵は船を沈めるのに大わらわだ。俺たちを探すどころじゃない。のんびりと基地にご帰還さ。北は盲点なんだ。絶対に探しっこない」

 この逆転の発想に、ローソンは「放っておけば大勢の米兵が死ぬんだぞ」と噛み付く。それでもトッシュは「そりゃ何百人かはな。運が悪かったのさ。連中のためならやるだけのことはやった」と太々しい。血も涙もない人間とも言えるが、危険な戦闘を拒否する思想は一貫している。だから、仕方なく行動を共にして草原を駆け抜け、一人だけ基地に生還したトッシュは、あと一歩のところで銃弾に倒れたローソンを讃える。

草原に倒れているのは誰かと聞かれてこう答えるのだ。

「あれは…どえらい英雄です。日本兵を15人も殺した」

 自分が英雄になれば、有能な兵士として再び危険な前線に送り込まれかねない。これまでどおり臆病者と思われている方がいいと考えたのだろう。アルドリッチ監督は、トッシュに反戦思想を込めたのではないかと思う。

 ついでに書くと、山口少佐が立派な軍人として描かれているのがうれしかった。出てこなければ、内緒で投降してきた兵士を処刑すると言っていたのに、実際には銃声だけ聞かせ、ホッとする兵士に「本当に殺すと思ったか?」。健さんは、日本軍を悪く描いていない脚本だったから山口少佐役を受けたのではないか。後年、大ヒットした「ベストキッド」の空手の師匠としてオファーを受けたとき、自分に合う役ではないとして断わったという。ハリウッドから誘いがかかればダボハゼのように食いつく人ではなかった。さすがは健さん!

2019年5月1日水曜日

志子田薫《写真の重箱 8 —ギャラリー巡り》

 皆様こんにちは。写真、撮ってますか? そして写真を見てますか?

 私は新しい職場や仕事、そして通勤にもなんとか馴染みつつ、職場の周りを毎日少しずつ撮り始めています。
 しかしショックな出来事が……
 メインで使っているフィルムカメラは、巻き戻して裏蓋を開けるまではカウンターがリセットされないので、完全に巻き戻ったかどうかは、フィルムが巻き取り側から外れた感覚と巻き戻しレバーの空回りを確認してということになります。
 今回もいつものことなので普段通りにやっていたつもりでしたが、ちょっと考え事をしていたからでしょうか。
 いつものように裏蓋を開けたところ、まだフィルムが巻き取り側に残っていました。
完全に巻き戻したと思っていたフィルムが巻き戻し切れていなかったのです。慌てて裏蓋を閉めたところで後の祭り。転職初日に撮った写真が感光してしまいました。こんなことは初めてです。

 当初は36枚撮りで1日1枚撮れればちょうど良いかなと思ってフィルム縛りにしたのに、月の真ん中で既に3本目に突入してしまったことに加え、初日分が感光してボツになってしまったこと等からフィルム縛りは早々に諦め、もう少し肩の力を抜いて撮り続けることに決めました。


 いつも書き出しで「写真を見てますか?」と問いかけておきながら、実はここ最近あまり写真を見に行けていないんです。
 というのも、もちろん個人的に慌ただしい時期にぶつかっていることもありますが、最近見たい写真展の会場(ハコ)が増え、しかもそれらが例えば都内であっても地域的に分散しているから、ルートを考えるのが大変になってきたんですよね。日曜休みのところも増えたので、物理的に限界が出てきました。さらに自分が展示に参加していたりすると、そこも含めてルートを考えねばなりません。
 ここ最近でもお世話になった方の個展や友人の参加しているグループ展など、いくつも行き損ねてしまいました。

 それにしても、まぁ今に始まった事ではないのですが、最近は写真展を開催できる会場の候補として、写真専門のギャラリーや公共の貸しスペースだけでなく、美術系ギャラリーやギャラリーカフェ、おしゃれなカフェの片隅にコーナーがあるなど、裾野が広がりました。写真の「展示」自体のハードルはかなり低くなりましたね。

 この私も、ギャラリーカフェでの企画展参加や、アート系書籍をメインで扱うブックカフェでの個展経験があります。
 そしてギャラリーといえば、もともと絵画をメインで展示するギャラリーが広尾にあり、そこで生け花とコラボレーションというかルームシェアというか、ともかくそのギャラリーで初の本格的な写真展示を行ったことがあります。
 その後このギャラリーは恵比寿に移転し、今では絵画はもちろん数多くの写真展を開催しています。
 実は生け花の方々から、移転後のギャラリーで又やりませんかとお声がけ頂いたのですが、個人的事情により辞退する事に。
 折角のチャンスだったのだから、もったいなかったとは思いますが、ある意味そのお陰で今があるので、これも縁という事ですかね。

 とはいえ、やっぱり古い頭だからでしょうか。きちんと写真専門ギャラリーで展示をしたいなという思いがあります。

 ちょっと話題が逸れてしまいましたので、話を写真ギャラリーに戻しましょう。

 数年前は自主ギャラリーやメーカー系ギャラリーが閉廊する話を聞くことが多く、寂しかったのですが、最近はそれらとはまた別のギャラリーが様々な所で出来つつあります。
 それは(流れ自体は過去にあったものに近いのかも知れませんが)、新しい写真学校が併設するギャラリーや、それらの仲間から派生したギャラリー、写真関係者が開いたギャラリー、そして異業種が手がけるギャラリーなどです。
 これらはある意味場所に縛られる必要がありません。なにしろ展示するにしろ見るにしろ固定客(関係者)が来る前提がある訳ですから、銀座や新宿などの写真ギャラリーが多い場所に作る必要がないのです。

 その一方で、写真専門のレンタルギャラリーの中には岐路に立たされている所も出てきているようです。
 今までは、写真を展示する場所はそれらに限られていましたが、別カテゴリの展示場所が増えてきたため、展示する人たちが分散することに加え、携帯やモニタで見られることを前提とする写真が増えてきているので、今までのようにプリントを見せる必要性を感じない人が増えてきていることもあるのでしょう。

 今後はこの流れがさらに細分化されていくのかもしれませんね。そうなれば写真展を見にいくのが今以上に大変になりそうです。


 以前写真集の話を書きましたが、私は首都圏近郊に住んでいる事もあり、写真集目当てで神保町などによく顔を出します。カメラを探しに新宿や銀座、その他の地域のお店に行く事も。古書でも中古カメラでも実店舗がある場合、可能であればお店に出向き、基本的に自分の目で見てから買うようにしています。

 ネットで物を買うときには、内容や商品状態が想像通りの状態かどうか届くまでワクワクドキドキな気分で、想像以上に良い状態だと本当に嬉しいのですが、例えば商品が傷ついて届くのは受け取り側はもちろん送り手側にとっても悲しい。しかもそれが送り主側のミスや商品に対する気遣いのなさから生まれたものであればなおさら……

 書籍を例にとると、表面はもちろんですが、角などは傷みやすく、意識的に保護をしなければなりません。それを怠った状態で送られてきた商品の角が潰れていたら……これは運送業者の責任とは一概に言えないですし、若しかすると販売側が商品確認を怠ったか、既に傷つけてしまった状態のものを発送したのではと考えてしまいます。

 売買された商品にせよ、そして献本や返品の類なら尚更、そのモノを丁寧に扱いたい。最近連続で似たようなお話を聞いただけに、余計にそう思う次第です。

 逆に先日訪れた古書店は、支払いで私が小銭を準備している間に、素早く本にビニールカバーをかけ、更にラッピングペーパーで包み、袋に入れる迄の一連の動作をスムーズに行いました。実はあまりにも自然な動作だったので、店頭では気付かず、帰宅してから気がついた次第です。

 人によっては過剰に思えるかもしれません。でも私には、そのお店が商品に対して愛情を持って扱っているお店だという印象を受けました。


 今回はいつも以上に纏まりがなくなってしまいました。書きたいことが迷走してしまったため、継ぎ接ぎだらけの文章になってしまった感があります。自分に喝を入れ、新しい年度はもっと内容を充実させなければと思います。

 ではまた次号。