2019年7月29日月曜日

特別寄稿 大竹誠+木村恒久 《「我が家の旗」+「広告受講者諸君へ」》

東京造形大学1類 広告専攻学生客員教授課題 「わが家の旗」(2001年)

客員教授木村恒久さんから初回の課題として「わが家の旗」が提案される。国の旗、選挙時の政党の旗、高校野球入場式の各学校旗などは度々目にしてきた。それらは「錦の御旗」「主上の旗」。自分たちの旗を作ること、それはまさに「広告」。『暮しの手帖』を立ち上げた、花森安治は「人民の旗」をボロきれのパッチワークで作った。自分たちの立ち位置を、よせ集めの布地の姿に託した。「旗」を作ることはデザインの根幹かもしれない。全てのデザインは「わが家の旗」から開始される。

 授業の初めは「企画書」。我が家に関するエピソードを原稿用紙(400字)に書き起こす。それぞれの家の物語が書かれる。その企画書を、みんなの前で「朗読」する。木村さんは腕を組み、「ほ~」「ほ~~」と頷いている。翌週は企画書を元に「ラフスケッチ」を持参となる。我が家に関するイメージやエピソードを元にしたラフスケッチが提出される。学生の多くはすでに完成したような(デザインされまとまりを見せる)スケッチを描いた。S君は、野球好きで家が江戸火消しのめ組の子孫。そこで、1案は「野球ボールにクロスするバット」、1案は「火消しの纏」を鉛筆で写実表現。それを見た木村さん、「それはデザインではない!」。「どこが悪いの?」と首をかしげるS君。ここからS君と木村さんとの戦いが始まった。確かにS君の写実スケッチは、そのまま旗にしてもおかしくはないもの。これまでの授業なら、それらを部分修正してゆきフィニッシュワークでOKだった。

 多くの学生のスケッチは似た者同士。完成されていた。それで完成と思ったら「デザイン教育」はいらない。月並みな、判例のようなデザインでよければ大学などで学ぶこともない。パソコンソフト活用で十二分に対応できる。というのが木村さんの「それはデザインではない」だった。

 呆れた木村さん、課題のプロセスに変化をつけた。

(A)児童向きの絵本や単行本、また、成人向きの書籍から、……ジャンルを問わずに、自分の気に入った本の「タイトル」100点を書き出し、タテ8㎝×ヨコ20㎝の白い紙10枚に、10点づつタイトルを振り分けて……縦書きで書き込むこと(説明図つき)。
黒い紙の中央に縦長の穴をあける(説明図つき)。

(B)は、タテ25㎝×ヨコ10㎝の黒い厚手の紙の中央に、タテ20㎝×ヨコ3㎝の穴をあける(説明図ではこの穴の部分に斜線表現。「斜線の箇所を切り抜き、素通にする」と書き込みあり)。

*(A)(B)とも26日持参のこと。

 26日。学生たちは半信半疑で「タイトル」を原稿書きして持ってきた。
 1週間に描いた「スケッチ」を机の上に置き、「タイトル」に「黒紙の窓」を当てみる。そして「〇〇〇〇〇〇我が家の旗」と読んでゆく。予期しない言葉合わせに、あちこちから笑いの声。木村さんの提案は、凝り固まったデザインワークを一度反故にして、別次元のフィールドに自らを置いて出発させようというものでした。
 選んだタイトルと「わが家の象徴=シンボル」と全く関係がないはずなのに、異なるもの同士を重ねてみるとなんだか意味が浮上してきたのでした。「予期せぬ出来事」。その不意打ちのような組み合わせから、しかしイメージが浮上してくるのだから仕方ない。今度は、その不意打ちされたイメージからラフスケッチを開始。スケッチが描かれてゆくから不思議。描かれたスケッチはまたまた壊されてゆきます。
 すぐにまとまり出すスケッチではなく、目の前のスケッチを壊して、次のスケッチを生み出すこと。自分では信じていたスケッチが、木村さんの言葉でズタズタにされてゆきます。全体が壊され部分に切り分けられ、その部分が拡大コピーされ、その拡大コピーがまた壊されてゆきます。もう何が起きているのか分からなくなってくる。半信半疑(これがデザイン?)の状態。
 でもS君はしぶとくしぶとくスケッチを重ねてゆきました。その数、数百枚。頭の硬かった(世間一般のデザインとはこうであるという)S君、どんどん柔らかになり(迷いに迷い)、眼を見張るようなスケッチが流れ出るようになりました。木村さんのサジェスチョンは「デザインで思考すること」「デザインは思考のためのトレーニング」「デザインで哲学する」「哲学をするためにデザインする」という生きる根源に触れるものでした。
*S君の作品プロセスの詳細は『初めてデザインを学ぶ人のために……ある大学授業の試み』(論創社)を参照してください。

 以下、授業の際、木村さんが書いてきた、課題「わが家の旗」出題の趣旨原稿です。学生に起立させ読ませました(学生にとってこのような言葉が投げかけられるのは珍しく、「目が点」となる学生続々)。

広告受講者諸君へ


 その1…【物語へ!】


 近代デザインのアーキ・タイプと目されているバウハウスのデザイン理論は、美術、建築、工芸、グラフィックスなど、中味の異なるクリエーションの、その原典はすべてアーキテクチュアであると設定していた。
 それは、近代以降狭まった建築の概念を、ルネサンス時代の幅広い思考に戻す作業を意味していた。従ってバウハウスに於けるアーキテクチュアの語は、単なる物理的スペースのビルディングを超えた、知的な思考概念であった。そこでは広告デザインは、建築行為と地続きのクリエーションなのだ。
 いうまでもなく、アーキテクチュアの歴史概念の基範は教会である。教会建造物は、コミュニケーションの場としての、文化的スペースのための器である。

 今、テクノロジに創造性を見出す者にとっては、テレビやインターネットの映像情報を、教会に匹敵するコミュニケーションの場と認識している。その観点から捕えると、映像上での建築概念が発生する。つまり映像だけを手がかりにして、想像上の「物語」としてのアーキテクチュアが浮上するのだ。メディアとしての建築である。
 メディアとしての建築は、物理的建築を前提としたシミュレーションの試図ではない。ハイテクの……ネットワークとして展開するアーキテクチュアの概念だ。
 広告デザインも建築的行為だと定義するバウハウスのコンセプトに従えば、ハイテク時代の広告の概念は、映像を媒介にした「物語」の創出ということになろう。そういうことでは「わが家の旗」のデザイン製作のキーワードは「物語」でもある。

 かつてデザインは、「形」の論理に専従していた。だがテクノロジー時代は、形から物語性にシフトしている。形から物語への移行期に於いては、物語性を重い課題とせずに、物語の初源である「オトギ話」のレベルからスタートすべきであろう。オトギ話のコリアグラフィーが、「わが家の旗」の形を具現化する。
 コリアグラフィーは、踊りの振付と同義である。コンピュター・グラフィックスの分野では、形を動画にするアニメーションを演出する場合に、動作を振付(コリアグラフィー)という。「わが家の旗」では、造形的な形の形成の試行錯誤は多々起るが、この場合、形を造り出すというよりも、オトギ話の内容を振付してゆくと考えるべきであろう。

『要約』
 広告とは、新たな「物語」を創出することである。
 そこでの形は、物語の内容を視覚的に振付ける行為である。振付は、身体で考え、身体で表現する行為である。
 電子メディアの映像情報が核になって展開する時代は、美術家、建築家、デザイナーは等しくデジタル・アーキテクトになろう。そこで最も重視されるのは美術ではなく、映画の手法だろう。

 その2…【表現実践における10のポイント】


①言語
 スタート・アップの次元での表現意識は、身体の中から発現した内発的な状態で、そこには素材の区別も、メディア的性格の差異は存在しない。
 表現意識が内部的能力である限り、そこでのイメージには高低はなく、すべて等価値だ。従って初期の段階では、デザインも、音楽も、絵画もすべて同一である。初源の立ち上がりの表現意識は、共通して「言語」だ。形態ではない。

②概念化
 発端の表現意識である「言語」としてのイメージを、想定した標題を基軸にして文章化した「企画書」。これには、初めての言語的イメージの動機を裏づける概念が記述されている。と同時に企画書によってデザインの実相化への路線が決定し、ここで初めて自己の表現意識が、詩や音楽、絵画と異なる分野に進展する、外部能力を自覚する。自覚の中心になるのは、デザインとはすべて「世界デザイン」であるという確認でもある。どんな小さなマークや、商品ラベルでも、世界デザインでなければ、流通機構で機能しない。デザインは、閉じられた境界の内側に存在せず、開かれた外部能力を意味する。

③試図
 企画書に寄りそって、その概念を試図にした、アイディア・スケッチ。ここではデザインの性格や機能を暗示する。試図によって、無形な状態から有形化に進展するが、試図は、あくまでも実相化への推測としての断片的解釈で、構図以前の抽象的記号である。

④主語点出
 無形から有形化に発展した試図のスケッチを、絵画的手法で情景描写する。絵画的な手法によるイラストには、無意識に書き込んだ箇所が多い。これを綿密に点検すると、企画書に記述した主語と述語の関係が確認できる。試図のイラスト化は、表現の実践現場での重要なデーターで、参照に値する。

⑤言語遊戯
 点出した主語、述語を、言葉遊びのアナグラムでテストする。サンプリングした言語や文法を主語に挿入し、その組合わせを繰り返してテストすると、主語のイメージが増幅する。④のイラストと共に、このアナグラムを参照にすると、表現の実践過程での、形の論理の形成の背景説明が豊かになる。又、無意識な状態にあるイメージの深層が、意識化のレベルに浮上してくる。遊戯とは想像力だ。

⑥表現の実践
 ④、⑤の実験データーを手本に置き、身体を通じて、企画書の意図を形に紡ぎ出す、表現の実践作業の開始。ここでは構想した主題を、粘り強く握り返す、冴えた感受性が求められる。硬くならずに、リラックスすることが、逆にエネルギーの集中になる。
 実践の現場では、素朴に「楽しい」「うれしい」の感情を大事にすること。文人画の世界ではこれを「自娯」という。自らがたのし娯無という意味だ。自分の気持ちを自由に泳がす。

⑦形の試行錯誤
 無形の状態から有形化に向かう形の論理は、必然的に大きな矛盾と謎がはらんでいる。ない方が不自然である。そのためか、謎を「明証」する行為が形の完成と錯覚する。
 哲学的論評の分野では、主題の明証は必要である。だが表現とは思考を重ねて、思考が折り重なって、更なる深い問題に向うのであって、明証は一切必要はない。
 謎を秘めた形の生成は、試行錯誤の連鎖であって、このカオスを逡巡しながらの根気のいる作業であることを充分自覚すること。
 多く見かけるのは、錯乱した手詰りの状態を明証しようとして、短絡的に、普遍性という平準化の幻想に閉じ込もることだ。普遍性とは、ゼロの空白から出現しない。普遍性の初源はすべて特殊性であり、それが進展して普遍的価値を持つ。逆にいえば特殊性を保有しない形態は普遍化しないということだ。
従って形の生成は、あくまでも企画書に盛られた独異性意識を振り返って、徹底して特性を追求する行為が、表現者の個有の主体性投影である。

⑧バーチャル・ポリシー
 形の生成が、絶妙なバランスで調和を得た段階が訪れる。そこでバーチャル・ポリシー、つまり仮想問題を自分に提起する。バランスが釣り合っている形の条件を、仮にそれが釣り合いを破ったらどうなるかといった、逆説論的な疑問符の提案である。それによってバランスの取れた形を、逆方向から裏返しにして点検すると、そこから意表を突く異化効果が突出し、形の進展に大きなヒントを与える。
 バーチャル・ポリシーは、形の形成を一段と伸縮自在に発展させ、転回させる方法論であって、表現の中核になるテキストである。

⑨細部調整
 バーチャルな逆転の視点と、ストレートな視点を組合わせた複眼的な視点を、自由に使い分ければ、形の論理は極めて柔軟な、自由な解釈で流動化する。そこから解放感のある自由な遊び「自遊」の気分が高まる。「自遊」がないところには洗練された形は発現しない。その精神で、最終の微調整に向かう。
 ここでは、企画書と形とを相互に点検し、欠陥があれば修正を施す。全体の見通しが立てば、完成への仕上げに全力を注ぐ。それは多分、無心の状態であろう。

完成
 実践作業収束の完結。


 かつて広告製作の現場では、①から⑤までを、企業の担当者や代理店が練り上げ準備した。デザイナーには⑩の仕上げのみを要求し、従って若いデザイナーは⑥から⑨の存在に無知であった。
 だが今の広告デザインで、企業側が発注するのは①から⑩の全コースであり、以前のように①、⑤までのお膳立ては一切しない。フル・コース運営するペース・メーカーがデザイナープロだからだ。これを実行出来ない者は、広告の現場では無用の存在である。広告製作では、企画と表現が専門化しているとしても、専門分類化は、フル・コースの体験を前提にして行われる。
 ①から⑩のフル・コースを解読すれば理解できることは、表現とは、①から⑩に至るポイントの相互作用による「知の化学反応」である。広告デザインとは、複雑な「知恵」の総合化であることを確認する必要がある。


2019年7月21日日曜日

志子田薫《写真の重箱10 —ギャラリー巡り》


 皆様こんにちは。写真、撮ってますか? そして写真を見てますか?

 先日写真家飯田鉄さんの街歩きワークショップでの前期講評会に向けて写真セレクトとプリントを行ないました。撮っている時には多少の手応えを感じてはいたのですが、いざ前期2回の撮影会の写真を見返してみると、久々のWSという事で、迷走をしているという感がありました。
 それでも何とか方向性を示して持って行きましたが、自分で説明しながらなんとも歯切れの悪い内容になっていた感があります。もっと自分の写真を客観視しなければと思う次第です。
写真展のはなし


 さて、最近友人知人の個展が立て続けにありまして、キヤノンギャラリー銀座で行われた小澤太一さんの【SAHARA】やRoonee 247 Fine Artsで開催された外山由梨佳さんの【マテリアル】、”Alt Medium”での飯田鉄先生の個展【球体上の点列】は第1期「揺らし箱」と第2期「球体演戯」、中藤毅彦さん主催のGallery Niepce(ニエプス)メンバーと飯田先生他ゲスト作家による、檜画廊での【令和元年東京】など。観に行けたものの多くはモノクロ作品が主でした。

 一方で、個人的に楽しみにしていたのに断念した展示も多く、特に残念だったのが祐天寺Paperpoolで開催されていた岡田祐二さんの【手彩色和紙写真】に家庭の事情などが重なり都合が付けられず行かれなかった事。
 岡田さんはオールドレンズ界で著名な方、というよりそもそもオールドレンズという言葉も彼が生み出したようなものですが、レンズの特性を生かした素敵な写真を撮られています。そんな彼がここ数年手がけている「和紙にプリントした写真に手で彩色を施している」とても個性あふれる特徴的かつ素敵な作品たちがありまして、私はとても大好きなんです。ここ数年機会あるごとに観せていただいていた身としては、ある意味現時点での集大成と言える個展に是非とも足を運びたかったんですよね。手彩色ですから全ての作品が一点ものですので、売れてしまった作品たちには二度と出会えないという意味でも、そして岡田さんのマイルストーンとしても、駆け足でよいから観に行くべきだったなぁ(そして出来れば買いたかったなぁ)と悔いています。


 ここの所、自分の先祖、と言っても高々祖父母や曽祖父母とその親族ですが、その写真を見る機会が幾度かありました。カラーのもの、モノクロのもの、銀が浮き出ているものなどを見て、直接会ったことのない先祖たちが築いてきた歴史を実感したわけです。。。

 若い夫婦がスマホで自分の子供達の写真や動画を撮影している姿も今では珍しくなくなりましたね。そしてよく言われるのがそういう写真をプリントしない人が多いということ。
じゃあプリントすれば良いかというと、なかなかそういうわけにもいかないと思います。デジタルの時代になってからは、昔みたいに一枚一枚撮ったり、36枚撮りのフィルム1本〜数本から必要なコマをセレクトするのと違って膨大な量を、しかも動画も混ざった状態で撮っているわけですから、選んでいるヒマも、いや、もはや見返すヒマもないかもしれません。
 せっかくプリントしても、画面の色と違ってイメージ通りでなかったりした日には。。。
 ただ、プリントの精度も上がってきましたし、それらをフォトブックのように別の形態で出力していれば、写真とはまた違った魅力が出てきますね。

 また個人の写真データはその端末内に入れっぱなしの場合、端末が壊れた途端に永遠に消え去ってしまいます。それを防ぐために各社も初期はカードやPCへのバックアップ推奨し、現在はインターネット上に保存領域をサービスもしくは有料で提供しています。GoogleフォトやiCloud、OneDriveなど所謂クラウドストレージですね。
 何しろ設定さえしてあれば、無意識のうちに撮った写真はクラウド上にバックアップされており、紐付けされたサービスとアカウントで、色々な端末から写真を見ることが可能になります。スマホで撮った画像を自宅のPCや親戚のテレビで観ることも徐々に根付いてきましたね。

 ただ、今まで色々な保存用メディアの栄枯盛衰や写真用クラウドのサービス終了などを見てきた人として、まして過去の写真と対面することが増えた最近では、やっぱりアウトプットは大事だなと。そして可能ならやはりフォトブックでも良いから紙という物理的なモノとして、形に残したいなと改めて思うようになりました。


 最初の勢いは何処へやら。元からSDカード程の厚みしかない内容が、気がつけば印画紙どころかフィルムよりも薄っぺらいものになってます。しかも当たり前ながらフィルムよりも密度が薄いのでもはや目の当てようもありません。
 ここいらで一丁踏ん切りをつけてみるのも悪くないかなと思っています。

2019年7月16日火曜日

大竹誠《様々な時代の都市を歩く 10 ―90年代の街を歩く3—1995年:カナダのトロントへ「デザイン出前」》

「Today’s Japan展」の会場設営でトロントへ


 日本とカナダの交流を記念して、日本のパフォーミングアート、デザイン、音楽、映画、アートを紹介する催し物。国際交流基金経由、日本デザインコミッティの仕事であった。成田からアメリカ大陸東側のトロントまで14時間の直行便。お初のアメリカ大陸。飛行機の中はエンジンの音もあり眠れない。何度も食事でお腹は膨れたまま。疲れてはいるが夕暮れのダウンタウンへ。大型バイクが駐車するカフェが目に留まる。太い腕に入れ墨のライダーが屋外でビール。いや〜いい風景だ。一緒に飲みたくなる。店内からブルースミュージック。これがまたいける。けだるいそのブルース、人生は味なものと語りかける。
 打ち合わせの仕事場のハーバーフロントセンターへ。オンタリオ湖畔につくられた港湾施設(トラックターミナル、倉庫など)をコンバージョンして人の集まるパブリックマーケットや文化センターとしたものらしい。→展示空間を見学。ガラスや陶芸の工房もある。火を吹いているガラスの釜。展示空間とオフィスもある。片側が全面ガラスのシャッターの通路がある。かつてのトラックターミナルの一部だ。この通路が気に入り、ここも展示空間にと申し出る。広めのホールがメインの展示スペース。隣接地はパワープラントをそのまま生かしシアターになっている。倉庫の連なりは飲食店やアンティークショップとなる。それぞれの建物の形も違うし、平屋のその建物は中へ入ってみたくなる装置だ。日本に帰ってから知るのだが、オンタリオ湖畔の“ハーバーフロント”は再開発地区として世界から注目されていた。→水辺のレストランで昼食。屋外の方が屋内よりも混雑している。水辺からさわやかな風が流れているし、水鳥を見れるし、帆船も近くに停泊中。この帆船を使った子供対象の“サーカスキャンプ”というのがあるそうだ。帆を上げたり下げたりしての操船は共同作業。教育的効果満点らしい。→作業チームのメンバーと夕食。住宅をそのまま活かしたレストラン。メンバーの家に招かれたようでうれしい。食べながら、古い街や、町並みの魅力について話しがはずむ(でも英語も混じるのだから???)。魅力ある街の話をしていたら、「そのような街が近くにあるよ」と通訳さん。食後、近くの住宅街を散歩。車道と歩道が大きな樹木で覆われている。ゆったりとした通りで散歩したくなる。住宅の多くは築100年以上はあるものだろう。ジョージアン様式とかヴィクトリアン様式で、住宅から歩道までの空間が前庭。芝が植えられ、花が咲いている。どの家も塀が低く道路からの見通しがいい。というか親しくなれそうな環境をつくっている。敷地が大きいとこのようにできるのだな〜と思う。カナダでは、庭の樹木でも伐採するときには周りの家の了解が必要だし、古い家を取り壊して新しい家を立てるとなると高い税金をかけられるそうだ。住民たちが古くから育ててきた環境を頑固に守る姿勢があり驚いた。玄関と隣室は道路から中を覗ける。玄関ポーチに座り通る人に声をかける人もいる。隣室の中でバグパイプを演奏している姿が見える。
 ホテルの机に持参したミニ製図板と三角スケール、三角定規を置いて展示会場の図面を書き出す。ホテルの照明は薄暗かった。目を図面に近づけての作業。「デザイン・サンプリング」された日本のデザイナーの作品、110点あまりを配置展示しなくてはいけない。 基本パターンは60cm角の透明な立方体に入れる展示。ホールにはこれを並べ、下見で気に入った通路にも並べてみる。ポスターも展示するので、この通路の上部にぶら下げることにする。下には透明な展示ボックス、上にポスターという具合に。即席でなんとか図面を仕上げた。翌日、図面を持って打ち合わせ。一晩で図面を仕上げたのでカナダの担当者は喜んでくれた。片言の英語を交えながら制作担当者ともディスカッション。質問が来たときには、その都度スケッチを書く。そのスケッチを見ながら細部など確認してゆく。スケッチがあるので担当者も、言葉では十分通じないが、納得できるようだし、親しくなれた。それらを元にカナダ側は制作となる。→打ち合わせのオフの日に、トロントの街を散策。古めの建物と新しい建物が混ざっている。ビルの壁には洒落た落書き。高さ553.33mの自立式トロントタワーにもあがる。当時世界一高かった。地上342mのフロアーは、ガラス張り。真下の街が見えている。恐ろしい限りだ。歩くのが怖い。一歩一歩進んでみる。時差ボケがすっ飛ぶ感じだった。

「Today’s Japan展」のオープニングへ


◎スケッチと図面を元にカナダ側の担当者たちが制作してくれたものたちが並び出す。ほぼ予定通りの仕上げだ。そして、オープニングとなる。高円宮もやってくる。宮さんはトロントの大学にも所属していた。夜は晩餐会となる。ホテルでレンタルのタキシードに着替え会場へ。大きな丸いテーブルにカナダ側と日本側が混ざって着席。両隣から英語で話しかけられる。これが困った。何を飲んだか、何を食べたのか怪しい。一緒に行った友人も同様にコミュニケーションしにくいので困った表情。→ある晩、通訳など手がける、エイデルマン・敏子さんとジェイコブズさんの話しをしていたら、「向かいに住んでいるわよ」となり実現。『アメリカ大都市の死と生』を書いたジェイン・ジェイコブズさんだ。ではということでジェイコブズさんの家へ。ビクトリアン様式の建物で、玄関ポーチを入った所がリビング。大きな体のジェイコブズさんが挨拶に。旦那さんのボブさんは建築家。その時、ジェイコブズさんの年に関わる活動の一端を聞いた。「トロントで大雪があった日、家の前にトラックが止まり、運転手は道路の雪をジェイコブズさんの家の方へかき出した。ジェイコブズさんはそれを見て、表へ出てゆきクレームをつける」。「運転手が元の通りにするまで腕を組んで道路上にいた」。自分だけよければいいという考え方を問題にしたのだろう。都市の調査をしながら、市民のための街づくりを唱えてきた人の活動の迫力を感じる。静かに話す優しい人だった。日本のジグソーパズルが好きな様子で、理由は、小さなチップをはめ込む作業が、都市の問題を一つ一つはめ込む作業と似ているからだそうだ。そして、美しい画面が現れる。

◎トロントには「ファクトリーシアター」がある。かつての工場建築を劇場として使っている。現役のビール工場で開かれるコンサートもあった。ビール酵母の香りが充満しアルミの大きなビール樽の並ぶ工場だ。床はコンクリートのまま。ガラス屋根に反射する音響効果もあって、いいライブの体験。街にはこのような活用できる空間があるのだなと思う。

◎“ムースプロジェクト”に遭遇。カナダに生息する大きなムースを原寸大(2mぐらいある)で作り、それを街の中200カ所に置くプロジェクト。型抜きされたプラスチックのムースの表面はそれぞれのアーティストが彩色デザイン。制作費はスポンサー。そして場所の提供者。したがって作品には、アーティスト名、スポンサー名、場所提供者名が並列されている。街のあちこちに設置されたムースを見ながら街を散策するのは面白い仕掛けだ。プロジェクトのムース地図も準備されている。ムースを探しながら、自ずと街を知り、学ぶトレーニングになるところが画期的であった。

◎「Today’s Japan展」の2年後(1997年)再びカナダへ。バンクーバー経由でカナダ東端のハリファックスへ。タイタニック号沈没の際、多くの遺体が流れ着いた街でもあった。「カナダ政府主催のアジア・パシフィック年の「アジアの力(The Energy of Asian Design)」展の会場デザインである。企画内容は、アジアのグラフィックデザインを一堂に集めたもので、日本からは、勝井三雄、木村恒久、杉浦康平、平野甲賀、佐藤晃一、原研哉。台湾からは、LiuKai、Huang Yung-Suug、韓国からは、ahn Sang-soo、香港からは、Alan chan、Kan tai-Keung、Freeman Lau、中国からは、Wang Xu、インドネシアからは、Hermawan Tanzil。展覧会は回遊式で、皮切りがハリファックス。そのあと、トロント、アルバータへ巡回する。→日本の7人の作品を会場で展示する。木村恒久さんは、CG処理した現代社会風刺のフォトモンタージュ作品だが、担当者が成田から飛び立つ途中で作品を手渡してくれた。最後の最後まで手を入れるその姿勢には頭がさがる。担当者はヒヤヒヤものだが。ハリファックスの古く建てられた数棟の建物をつないでアートスクールとしているスペースが会場。教室を見せてもらう。古い建物ゆえ、階段は狭い。階段もいろいろ、床面の段差もあちこちにある。コンバージョンゆえに、補強の鉄骨などが教室内に露出していて興味がつきない。階段踊り場の狭小なアトリエ(2畳ぐらい)もあり変化に富んでいる。迷子になってしまいそうだ。授業は大小の部屋を巧みに使いながらやっているようだった。そして、校舎は24時間学生に解放されていると聞いて驚く。自主運営なのだ。街の中心に位置しているので、すぐ近くにはカフェやライブスタジオもある。このカフェでランチをとりながら、展示に携わったカナダの教授助手と学生たちは対等に、かつ真剣に議論をしている。日本の大学と違うのが印象的であった。

2000年に再びカナダへ


「E-12 生きるためのデザイン」という展覧会の設営でトロントへ。21世紀のあり方を、カナダと日本のデザイナーが、それぞれ二人のチームを組み、それぞれの国のやり方で表現する展覧会。カナダ側のキュレター、ラリー・リチャーズさんとともに手がける。日本チームは、木村恒久+布野修司、真田岳彦+鷲田清一ほか。これも巡回展で、モントリオール、トロント、バンクーバー、名古屋デザインセンター、カナダ大使館ギャラリーの5箇所開催。事前にそれぞれの会場のレイアウトなど打ち合わせを済ませる。同行した真田岳彦さんは、「プレハブ・コート」という作品。コートにチャックをつけて何枚かのコートを繋げば、一緒に歩けたり、非常時のテントになったり変化してゆくというものであった。それを天井から吊るした。斬新な作品であった。

バンクーバーへも


 訪問した美術大学(エミリー・カー)はバンクーバー港の島にあった。一体は大きな食品市場があり、市場と一体化して再開発された場所。キャンパス内にはかつて使われた港の貨物線のレールが路面に残る。海辺にはボートハウスも並んでいた。そのような環境の中にあるキャンパスは刺激的。暮らしと一体化する中から、デザインやアートの思考が展開できそうだった。

松村喜八郎《映画を楽しむ 10―クレジットタイトルに工夫あれ》

 今回はキャラクター列伝を休載させていただく。どうしてもクレジットタイトルのことを書きたくなったからで、そんな気にさせたのは、意外な大ヒットとなった「翔んで埼玉」である。この映画の満足度については、一番面白かったのが荒唐無稽な本筋とは関係ない夫婦喧嘩の場面(埼玉県人の夫に噛みつく千葉県出身の妻を演じた麻生久美子がコメディエンヌの本領を発揮してくれたのでニッコニコ)だと言えば察しがつくだろう。気に入ったのはエンディングクレジットに流れるはなわの歌だ。彼が人気を獲得した、あの佐賀県の歌と同じ趣向で埼玉県のことをおちょくる歌詞がおかしくて、館内が明るくなるまでの間、全く退屈しなかった。
こういう工夫はいい。
 エンディングクレジットが長くなったのはいつ頃からだろうか。リスクを軽減するために何社もの製作会社が連携するようになってからだと思うのだが、5〜6分も黒地に白抜き文字のタイトルを見せられるのは辛い。途中で席を立つ人がいるのも無理からぬところだ。あれだけのスタッフ、キャスト、協力会社等々を紹介しなくてはならない事情があるのだとしたら、せめて観客を楽しませる工夫をしてほしい。そういう映画に時たま出会えることがある。
 科白で楽しませてくれたのは、熊澤尚人監督の「おと・な・り」だった。隣りから聞こえてくる音で互いの人柄を想像していた男女、岡田准一と麻生久美子がようやく顔を合わせる場面で終わるラブストーリーで、エンディングクレジットの間に二人の会話だけが聞こえてくる。二人の姿は映らなくても、その後どうなったのかが分かる素敵なエピローグになっていた。
 逆に、科白のない映像で楽しませてくれた映画もあった。ジョエル・ホプキンス監督の「新しい人生のはじめかた」だ。娘の結婚式に出席するためロンドンを訪れた初老のCМ音楽家(ダスティン・ホフマン)と、婚期を逃した中年の女性(エマ・トンプソン)が交流を重ねるうちに惹かれあう。この二人が空港で出会い、共に不運な出来事に見舞われたことを嘆く場面が大好きだ。最初は互いに自分の方こそ不幸だと主張するのだが、ホフマンの話を聞き終えたトンプソンが「あなたの勝ち」と言って、もう自分の不幸について語ろうとしない。なんていい女だろうと感激したものである。それはさておき、エンディングクレジットは心憎いものだった。二人の交流とは関係なく何度か登場し、いがみ合っていた爺さんと婆さんが仲良くなっているのだ。それはホフマンとトンプソンの将来を暗示しているかのようだった。
 ドラマチックな締めくくりに活用していたのは、ジョージ・C・ウルフ監督の「サヨナラの代わりに」だ。筋萎縮性側索硬化症のケイト(ヒラリー・スワンク)と、彼女に介助人として雇われたベック(エミー・ロッサム)。境遇や考え方の全く異なる二人が友情を育み、笑いと涙を誘う感動の物語はケイトの死で終わるのだが、本当の感動はエンディングクレジットでやってくる。スタッフ、キャストの名前が流れる画面の横にはステージで歌うベックの姿。歌手になることを諦めていたベックが再び夢に向かって歩み始めたのだなぁと思って観ていると、カメラが足元をアップで映す。ラフな服装には不似合いなハイヒール。それはケイトからプレゼントされたものである。ベックはハイヒールを嫌っていた。それなのに履いた。この1ショットで、今もベックがケイトと強い絆で結ばれていることが分かり、グッときた。
 オープニングのクレジットタイトルにも物申したい。今は、いきなり本編が始まり、ストーリーを進行させながら主なスタッフ、キャストの名前を紹介していく手法が多く、タイトルを独立させている映画は滅多にない。たまにあっても、デザイン的に優れたものがないのは寂しい限りだ。
 クレジットタイトルだけでも楽しめたのは、ソウル・バスがデザインを担当した映画だった。グラフィックデザイナーとして著名だったバスは、オットー・プレミンジャー監督に依頼されて「カルメン・ジョーンズ」のタイトルを手掛けてから次々と斬新なタイトルを作り出した。私が最初に観たのは、ガンジー暗殺を描いたマーク・ロブソン監督の「暗殺?5時12分」である。BSやCSで放送されることもない映画なので自信はないが、丸い時計の文字盤と人物のシルエットが画面に現れ、秒針の動きがサスペンスを醸し出していたように記憶している。書体もスマートなものだった。なんておしゃれなタイトルだろうと感激したものだ。それがソウル・バスという人の手になるものであることを後に映画雑誌で知った。
 バスの手掛けたタイトルがどんなものなのか興味がある人は、アルフレッド・ヒッチコック監督の「サイコ」「めまい」「北北西に進路を取れ」を観ていただきたい。
 イラストや新聞の紙面、実写のモンタージュ、アニメーションなどさまざまな手法を使ったバスは、映画界に刺激を与え(007シリーズ初期のタイトルを担当したモーリス・ビンダーの仕事にはバスの影響が見て取れる)、タイトルに革命をもたらした。その最高作と言われているのは、オープニングとエンディングにアニメを使った「八十日間世界一周」である。とくに本編終了後に出る、ゲストスター紹介を兼ねたアニメの楽しさは最高で、本編より面白いとまで言われたほどだった。
 日本でも、かつてはタイトルデザインを重視した監督がいた。その代表格である市川崑のほか、勅使河原宏は「おとし穴」「砂の女」でグラフィックデザイナーの粟津潔を、篠田正浩は「夕陽に赤い俺の顔」でイラストレーターの真鍋博を起用したことがある。ただ、こういう流れが広まることはなかった。
 日本映画のタイトルで私が一番好きなのは「座頭市千両首」だ。漆黒の画面の左隅から座頭市が登場し、揉み療治の客を呼ぶための笛を吹きながら歩いていく。すると、右手から2人のやくざが現れて斬りかかる。これを居合い抜きの早業で倒し、何事もなかったように歩く座頭市。次に座っている座頭市を映す画面に変わり、前後から襲った4人のやくざが斬り捨てられる。こうした趣向で、座頭市とやくざとの斬り合いを見せながらスタッフ・キャストの文字が出る。常にバックが漆黒という視覚効果が素晴らしく、中でも画面の下に連なる黄色い三度笠を見せ、カメラがサッと引いて大勢のやくざが映る描写は見事だった。座頭市シリーズの6作目、居合い抜きの技に磨きのかかった勝新太郎の殺陣を様式美として表現したこのタイトルは、池広一夫監督と名カメラマン宮川一夫の共同作業で生み出されたものではないかと思う。森一生監督へのインタビューをまとめた『森一生映画旅』によると、宮川一夫は撮影方法についてアイデアを出すことがあったそうだ。
「座頭市千両首」はシリーズ中屈指の好編で、勝新太郎が実兄の若山富三郎(当時は城健三朗)と死闘を繰り広げる場面は大迫力だったが、タイトルだけでも楽しめる。 そんなタイトルがなくなって久しい。年寄りの愚痴と言われるかもしれないが、もっとタイトルに工夫してほしいと切に願う。

鎌田正志《写真家の死》

 今から2年ほど前の、2017年の6月に一人の写真家が亡くなりました。享年56歳。孤独死(病死?)でした。発見された時はすでに腐敗が始まっていたようです。彼には友人を介して2度ほど会ったことがありました。とはいえ、数分立ち話をしただけで親密になるほどの会話はしていません。
 最初に会ったのは彼が北海道から世田谷区に引っ越して1年ほど過ぎたくらいの時だったように思います(2007年くらい。正確には思い出せません)。彼は自分の写真作品を売ることで生計を立てることを信条としていたようで、当時の我が家のすぐ近所だった、井の頭池の側で週末写真を売っていて、そこに当時吉祥寺在住だった友人と訪ねたように思います。彼は自分の写真について何か一生懸命説明されていたように思いますが、何を話されていたのか今はもう思い出せません。その1、2年後、吉祥寺のコミュニケーションセンター(?)のロビーで個展をしているのを観にいったのが最後になりました。

 友人とその写真家がどこで知り合ってどういう関係だったか聞いたことはありませんでしたが、友人はそのプリント技術を高く評価してはいたものの、借金まみれの生活には批判的だったようです。確かに彼は写真を売って生活することを信条としながらも、その売り上げは生活を支えるには程遠く、実際のところは友人知人に借金をして暮らしていたようです(現実として彼はプロカメラマンとしての技術(および機材)は無かったようで、カメラマンあるいは写真家として依頼仕事を受けることが難しかったと思われます)。

 それでもその写真家は、2006年に写真の世界ではわりと権威のある「写真家協会新人賞」を受賞し、その前後にも地方の写真賞をいくつか受賞するほどの実力者で、彼が世田谷移住を機に始めたブログは毎日結構な数のアクセスがあったようです。私も時々彼のブログを覗いていました。そしてそのブログを死の数日前まで続けていたようです。
 ブログには作品制作への思いや日々の食事、訪ねてきた友人の話などが綴られていましたが、思い返せば亡くなる数か月前くらいから、体調の不良や死への不安など、切実な内容が増えていたようでした。何らかの病気のせいだったのか、あるいは貧しい食生活のせいだったのか、いつも体調が悪かったようで、一年のほとんどを床の中で過ごしているようなことも書かれていましたし、そういった状況なので生活保護を申請されようとしていたみたいでしたが、拒否されたのか、そこまで手続きを進めなかったのか、結局生活保護は受けられなかったようです。

 世田谷では2年ほど暮らして、その後、写真家の友人であるミュージシャンの経営する狭山市のアパートに越して数年暮らし(家賃は支払っていなかったようです)、その友人が沖縄に引っ越したのを機に、終焉の地となってしまった千葉県館山市の借家に転居。そこで2年ほど過ごして亡くなられました。

 彼がいくつかの賞を受賞したのは、自治体として初めて倒産の憂き目にあった、夕張市の炭鉱遺産を撮った写真集でした。北海道の小さな出版社が制作したものでしたが、ブックデザインは著名なブックデザイナーの鈴木一誌さん。写真のセレクトも鈴木さんが決められたようです。北海道から東京に転居された際に、その鈴木さんに他の作品(絵とか書とかフォトグラムとか)も見てもらったようですが、ちゃんと写真を撮るようにと諭されて終わったようです。

 彼のブログを見続けていた人は、いずれ彼が亡くなるんじゃないかという思いを共有していたように思われます。残酷と言えば残酷な話です。けれども、彼の友人といえども彼の生活を支え、面倒を見るなんてことは簡単な話ではないわけで、なんというか、世界がネットで繋がっていることの残酷さを見せつけられたような気がしました。

 死後、沢山の写真が発見された無名の写真家の話はときどき聞くことがあります。そもそも生前は「写真家」ですらなかった人が死後偉大な作家として祭り上げられる。作品が変わるわけではなく評価が変わる。作品とは一体何なのか、どういうことなのかよくわかりません。一方で公的な支援を受けて、海外で制作活動を続けているアーティストたちの評価というものがある。美術的、芸術的評価や価値とは一体何なんだろうと考えるたびに、孤独死した写真家のことを思い出します。