2019年2月28日木曜日

志子田薫《写真の重箱 3─ カメラのハナシ》

 皆様こんにちは。写真、撮ってますか? そして写真を見てますか?
 私はというと、今月も写真展は数件観に行くことができました。 しかし9月最終週の週末【代官山フォトフェア】に唯一行けそうな日曜日が、ちょうど台風24号が猛威を振るかもしれない点と、入場料を払ってまで見る価値のあるイベントかどうか悩み(貴重なものも見られるのですが、そもそもターゲットがコレクター前提な雰囲気もあるので「気に入ったものがあれば買う」程度の人間には肩身が狭く感じましてね)、行こうかどうしようか迷っている今日この頃です。
(追記:結局断念し入場料代金はフィルム現像代に化けました)

 さて、前回のメルマガでも触れましたが、9月13日〜18日に渋谷の東急東横店で【第23回 世界の中古カメラフェア】が開催されました。渋谷方面に“たまたま”行く用事があったので覗いてきましたが、既に初日でもサービスデーでもない日曜日の夕方だからか来場客が少なく、おかげでゆっくり(=冷静に)見て回ることができました。

 私はレンズグルメでもカメラコレクターでも無いので詳しくありませんから、欲しいものが出ていればラッキーだなという軽い気持ちでショーウィンドウの中を覗きます。その中に見慣れたカメラを見ると「ああこれは誰それが使っていた機種だ」とその人の顔や作風が浮かんできたりします。キヤノンのF-1NやFD100/4マクロを見れば中平さんだ、リコーのGRシリーズやオリンパスペンを見ては森山さんだとか、そんな感じで。
 そして珍しいものを見ては「どんな写りをするのだろう?」だとか「ギミックが面白いな」とか「噂には聞いたことがあるけど本物を見るのは初めてだ」と思いつつ回っていたので、さぞかし一人ニヤニヤしている怪しいオッサンだったかと思います(笑)
 結局、「あれば嬉しいけど自分には必要では無い」物はたくさんあれど、残念ながら本当に欲しかったものは無かったので、何も買わずに会場を後に。


 それはそうと、よく友人知人から「カメラを買いたいんだけど。どれがオススメか」と聞かれることがあります。先日も大学時代の友人から相談を受けたばかりです。

 そういう人には「カメラで何を撮りたいか」というオーソドックスな質問、つまり要はカメラを必要とする目的ですよね。その方向性によって選び方は変わると思いますので、先ずはそれを訊きます。飛行機が撮りたい、自宅の猫が撮りたい、街中でスナップが撮りたい、自然と対峙したい、ポートレートが撮りたい等々の被写体に関しても訊きますが、さらにそれを個人で楽しむのか、人に作品として見せたいのか、その辺りも訊き出します。
 それと同時に、カメラ専門店や家電量販店の店頭で実際にカメラを触ったことがあるかを聞きます。そして既に触ったことがある人は、実はほぼ決めているメーカーや機種があったりするのです。
 そのような場合、私は基本的にそのメーカ/機種をお勧めします。例えばそれが既に生産終了だとか、新機種が出るタイミングな場合はその旨を伝えた上で、その機種が、撮りたいものとのバランスが取れているかを私なりに考え、その情報を伝えていきます。

 それというのも、私がカメラを選ぶ時は、「撮りたい気にさせられるか(モチベーション)」「パッションを持てるか」「自分の手に馴染むか」「自分にとって使いやすいか」が重要だと思っているからです。いくら性能が良くても、いくら評判が良くても、自分が使い辛いと思いながら使っていると徐々にストレスが溜まってしまいます。さらに、買ってすぐにそのカメラの後継機が発表、発売になって旧機種になってしまうと(それを知っていて型落ちの底値で買うのでない限り)、タイミングを逃してしまったという気持ちになる事もあるでしょう。

 逆にお店でカメラを触ったことがなくて、ただ漠然と写真を始めたい人や流行っているからという人も中にはいます。そういう人も最近はスマートフォンで写真を撮っていたりするので、その延長上で考えているのか、それとも全く違って何かを表現するためにカメラを使いたいのかを確認した上で、よほどレアなカメラでない限り可能であれば一度お店に行って、実際に触ってみることをお勧めしています。 
 ただ、大都市から離れて周りにお店が全く無い方もいますので、そんな場合は、先ほど書いた私の選び方を参考にしながら方向性を見つけていきます。


 厄介なのは「この人(作家)が撮ってる写真が好きだからこのカメラ(メーカー)を買えばいいんだよね」という場合です。

 そのチョイスは、的外れではないですし、「あの人と同じ機材だ」という事でモチベーションが上がるのであれば、使う本人はウイークポイントなど関係ないと思うのですが……

 例えば、憧れている写真家がいるとして、その人と同じ機材を買えば、その人と同じような写真が撮れるというのは実際には錯覚であり、しかしながら「写真は事実である」という前提があるので、昔からメーカーは著名な写真家にカメラやレンズ、機材を使ってもらい、それを宣伝材料は勿論「作例」として広告や雑誌に使います。写真雑誌の記事の多くに、撮影機材の詳細などが書いてあるのは、そういった理由があるわけです。
 さらにデジタル技術の発展で「同じようなテイストの写真」を撮ったり仕上げたりすることがし易くなってきました。
 それを見た読者は、大なり小なりその影響を受け、またその情報を元にカメラを買い、使い始めて一喜一憂するわけです。

 ただ、勿論同じカメラを持ったからといって、同じ感覚、同じ感性、同じ目線になれるかというと、否です。写真にはどうしても撮影者自身の内面などが写り込んできます。
 それに作例を撮る場合は、その機材のウイークポイントには触れずに、商品を魅力的に見せるのが重要です。そのため作例を撮る写真家の多くが、決めたメーカーと長くてしっかりとした関係性を持っています。
 
 結局、買ったはいいが「帯に短し襷に長し」状態になって、機材を転がし(それは部屋の隅かもしれませんし、転売屋の如く買っては買い替えかもしれませんが)、いつまでたっても気に入った写真が撮れないと嘆くことがないようにと願うのみです。

 さて、じゃあ作例は別として、写真家の方々は実際にどういったカメラを使って、どのような写真を生み出してきたのか。この辺に関して次回触れていきたいと思います。

2019年2月7日木曜日

志子田薫《写真の重箱 2 —アジテートした写真展へのラブレター》

 皆さんこんにちは。志子田薫です。
 前触れもなくスタートしたメルマガですが、お陰様でネットや実際にお会いした方々からご感想を頂きました。この場をお借りしてお礼申し上げます。さて、第1号では元々創刊準備号的な意味合いを持たせるため自己紹介だけで終わってしまいましたが、今回からいよいよ本題に入っていこうと思います。改めてお断りしておきますが、このメルマガに書くのはあくまでも私が実際に写真展などを自分の足を使って見て聞いて感じた事をそこはかとなく書き綴るのが趣旨ですので、実際に展示した側の考えとは相違があると思います。予めご了承ください。



 ところで、先月中旬に中古カメラ販売会「第10回 新宿クラシックカメラ博」が新宿高島屋にて行われましたが、皆さんは行かれましたか?
 私はここ数年この手のイベントには足を運んでいませんでしたが、今回は自分が唯一、数年にわたって参加した写真関係のワークショップで講師を務められた飯田鉄さんがトークショーを行う事に加え、飯田さんを中心とした「バルナック会」のミニ写真展が開かれるという事で買い物というよりは、それら目当てで覗いてきました。しかし改めて世の中には色々なカメラがあるなと驚かされますね〜。
 「クラシック」と銘打っているだけあって、年代物のフィルムカメラが所狭しと並べられていますが、最近のデジタルカメラも勿論あります。今持っているカメラで充分だという人も、歴史の証人となってきたカメラたちを見ると案外色々な発見があるかもしれませんよ。
 主催は違いますが、9月13日〜18日には渋谷の東急東横店で「世界の中古カメラフェア」が開催されますので、ご興味のある方は是非一度足を運ばれてみてはいかがでしょう。あくまでも「沼」に入るか否かは自己責任ですよ!(謎)



 先ほど、中古カメラの多くはフィルムカメラというようなことを書きましたが、逆に言えば新品のフィルムカメラを出しているメーカーは大手では数えるほどしかありません。デジタルカメラの普及によりフィルムの需要が減ってきてきたのはご存知の通り。そんな中で、気になる写真展が最近開かれました。

 原宿のVACANTで開催されたKZM Photo Session 「new old school」展 darkroom.jp (http://darkroom.jp)は写真家の三好耕三氏がキュレーターとなり、日本大学芸術学部写真学科出身のメンバーで構成された写真展でした。彼らのチラシには、昨今のデジタルカメラによる写真の時代を挑発する「デジタル写真は写真ではない」というコピーとともに、以下のような言葉が記されていました。

> デジタル写真は写真ではない。
> 写真に対する情熱、恨み、妬み、嫉み、
> そんなものはデジタル写真に表出はしない。
> 欲望の塊。
> 僕らの写真を見て感じて欲しい。
> 本物への回帰。
>
> 時代を挑発する写真家たちの展示を是非ご高覧ください。
(>部分はサイトより引用)

 私はフィルムもデジタルも使っているので、そこまで言われたら是非とも見に行かねばと行ってきました。

 が、結果として、個人的には、中途半端な感が否めませんでした。
 もちろん一人一人のプロジェクト、そして一つ一つの作品は素晴らしいし、フィルムならではの事をやっている方もいらっしゃったのは間違いないです。

 しかし世界中で、そして国内でもフィルムで撮り続け、作品を発表する人は沢山いるなかで、敢えて「デジタル写真は写真ではない」という挑発的なキャッチコピーを付けて展示するからには、フィルムを使っている人達が『そうだよな』と思え、“デジタル写真”を撮っている人達もこれは参りました!となるようなものでないとならないと思います。それだけのハードルを自ら上げてきた割には、「なぜ、フィルム写真か」という肝心の説得は、あまりにも見る側に委ね過ぎてしまい「やっぱりフィルムはいいよね」と思えても、デジタル写真へのアンチテーゼを唱えるには力が弱かったと思います。

 ただ、彼らは今回をスタートと捉え、一過性ではなく、これからもこのアジテーションを続けていくそうです。
 フィルムやケミカルが自分の力ではどうにもならないというこの世の中で、それでもフィルムで写真を撮り続けて行く決意表明と捉え、彼らの此れからを見守りたいと思います。どうせやるなら、ぐうの音も出なくなるほどのものを見せて欲しい。

 私がここまで書くのは、私なりに様々な写真の展示を見てきているからです。

例えばフィルムで写真を撮っている人の中には、暗室でプリントし、そこで出来た作品を展示する行為だけではなく、あえて縛りを課してみたり、さらなるオリジナリティ、さらなる単一性を求めて試行錯誤している方もいます。

 知人の広瀬耕平さんが手がける「欲視録」というシリーズは、フィルムで撮影したスナップ写真の偶然性に加え、現像したネガに薬剤処理で抽象性を加えるという新たな写真表現を生み出し、作品は海外からも評価されています。

 縛りといえば、前出の「バルナック会」の写真は所謂「バルナック型」「バルナックライカ」と呼ばれるカメラを使って撮影された作品です。
 バルナックライカとは、ライツ社に勤めていたオスカー・バルナックが映画の35mmフィルムを使用して写真を撮影できるカメラを作り、ライツ社のカメラなのでライカと名付けられ、市販第1号機は1925年に発売されました。その後1954年に発売されたM3を始めとする、所謂M型ライカと区別するために、このよう呼ばれるようになりました。

 また、8月の終わりには【駄カメラ写真協会】主催による、メンバーと公募で募集した方々の写真展が、小伝馬町のRoonee 246 fine artとiia galleryの二箇所で行われました。
 ここでいう『駄カメラ』とは、俳優で無類の写真&カメラ好きの石井正則さんが提唱したもので、駄菓子のように懐かしく、気軽に買える廉価なフィルムカメラのことでして、石井さんは駄カメラ写真協会の会長でもあります。ここでも「駄カメラ=『3,000円以内のフィルムカメラ』」というレギュレーション(規則)の中で手に入れた物で、如何に本気で写真を撮りプリント、展示するかということで、有名無名を問わず数多くの方が参加されました。

 南青山のNadar(ナダール)では、9月をフィルム写真月間として位置付け、フィルムが好きな人たち、フィルムを残したい人たちが立ち上げた、その名も“FILM LOVER” http://www.filmlovers.info (http://www.filmlovers.info)というグループの写真展が開催されます。

 フィルムだけではありません。写真の進化の過程で一度は廃れかけた湿版写真や乾板写真で写真を撮り続けている人々もいます。
 大判写真に特化したTOKYO 8x10 Exhibitionという写真展では、今年は大判ネガ(20x24)そのものをプリントの隣に展示したり(これは圧巻でした)何ともいえない漆黒が美しい湿版写真、顔料で着彩した写真などの作品が展示されていました。
 同建物内で同時開催されていた日本針穴写真協会の写真展では、「針穴」つまりピンホールカメラによる作品が並んでいますが、最近ではデジタルカメラの高画素化と高感度化を生かした作品も増えています。

 「写真」というものが世の中に生まれてから、200年ちょっと。その間に様々な技法が生み出されては廃れてきました。つまり写真とは未だ進化の過程なのです。過去、そして最新の色々な技術が使える今の世の中だからこそ、自分の思いを伝えられる写真の方法も十人十色。このような展示が成り立つのです。

 「new old school」展のメンバーは、本気でフィルムでの作品作りに取り組んでいるのですから、まずは身の回りでどのような展示が行われているかを知った上で、それでもデジタル写真へのアンチテーゼを本気で(話題作りの為とは思いたくない)やっていくための創意工夫をこれからも続けて欲しいですね。
 「情熱を込めた写真を見れば、伝わる人には伝わる」というだけでは、他の数多といるフィルムでの製作者からも見向きもされなくなってしまいますよ。

 下手くそな応援歌ですが、これからも彼らを含め色々な写真展を見て回ろうと思います。


 写真展に関してもう一つ。
やはり先月ですが、新宿のフォトギャラリーシリウスで、写真集団獏の「きみの名は」展を見てきました。
 『写真はそこに付随するキャプション(文章やタイトル)が写真の表す意味を変えてしまう』という特徴を逆手に取り、1つの作品に2つのタイトルをつける挑戦的な展示方法でした。
 もちろん「それはちょっと……」と言いたくなるような無理やり付けたタイトルなどもありましたが、見事に写真の意味が正反対になってしまったり全然違う方向性に見えてしまうタイトルを付けている方など、ニヤニヤクスクスフムフムと楽しませていただきました。

 私は普段、言葉が見るものの意識を左右してしまうが故に、写真にはあまりタイトルやキャプションをつけませんが、こういった挑戦も面白いですね。



 さて、今回の発行日は、予定通りに進んでいれば9月1日、防災の日です。
 写真界では、写真家 中平卓馬 の命日でもあります。2015年に亡くなってから丸三年。
中平といえば様々な写真集の他に、記憶喪失前に書かれた「なぜ、植物図鑑か」という著書が有名です。
 内容は映像論集と銘打っているだけあって、当時の写真界や自身の写真、写真と文字との関連性や映画論など多岐に渡ります。しかし今読んでも通じる内容がありますし、今回のメルマガの内容とも少しリンクしています。
 本の詳細についてはここでは語りませんので、ご興味のある方は是非ご一読を。

それでは、また次回(あるのか?)!

2019年2月1日金曜日

松村喜八郎《映画を楽しむ 5 ―我が愛しのキャラクター列伝③》


フェイト教授/1965年「グレートレース」


 20世紀初頭、ニューヨークからパリまでの自動車レースが敢行される。これを、サイレント映画時代のスラプスティック喜劇の要素を満載
して描いた、ブレイク・エドワーズ監督の傑作に登場するマンガ的な悪玉。演じているのはジャック・レモン。フェイトは助手のマックス(ピーター・フォーク)とともに、二枚目のヒーロー、レスリー(トニー・カーチス)が何かやるたびに対抗、あるいは妨害しようとしていつも失敗する。
 レスリーの高速モーターボートを音波探知機付きの魚雷で沈めようとしたときは、うまくいきそうだったのに、自分の車がバックファイアして大きな音を出したために、方向転換した魚雷の餌食になってしまう。弾丸列車でスピード記録に挑んだときは、これまでの記録を破って大喜びしたのも束の間、ふと気付くと渡り鳥の群れがすぐ横を飛んでいる。エッどういうこと? まさかという思いで下を見ると、列車は空を飛んでいるではないか。勢いで飛んでいるだけの列車は失速してあえなく落下する。いずれの場合も、フェイトとマックスが無事という荒唐無稽さで爆笑させてくれた。失敗してもフェイトは決してめげることがない。無残な姿で立ち上がり、「レスリーにこんなことはできまい」と吼える。
 フェイトはなぜレスリーに敵がい心をむきだしにするのか。理由はない。行動原理はレスリーへの憎悪である。善玉と悪玉の戦いを戯画化しているのがこの映画の面白さで、常にレスリーは白、フェイトは黒という対比だけでも滑稽だ。
 そんなフェイトだから、レスリーが新聞社に提唱して実現した自動車レースにも当然参加する。今度こそレスリーの鼻を明かしてやる。優勝するためには手段を選ばない。まずはマックスに命じて他の車に細工させる。次々と故障する車を見てフェイトは満足げに高笑い。
「マックス、次は?」
「5号車のエンジンが落下」
「5号車か、ワーハッハ。マックス、これが5号車だ」
 またしてもフェイトは自分の悪だくみが仇となってしまうのだが、悪の権化だからへこたれない。車を修理してレースに復帰し、その後も妨害工作を続け、ついに1着でゴール! だが、この勝利はレスリーがゴール直前で車を停め、同乗していた女性記者と熱いキスをかわしていたからだった。納得できないフェイトが大声で喚く。
「奴が私を勝たせた。よくも馬鹿にしたな。私はお前が大嫌いだ。勝ちは受け入れない。もう一度挑戦する」
 かくして、パリからニューヨークへのレースが始まる。卑劣な手段で勝つのはOKだが、勝ちを譲られたのでは沽券にかかわるるという論理。これこそ理想的な悪玉像である。レースの過程で繰り広げられる、酒場での大乱闘やお城でのパイ投げ合戦など、抱腹絶倒の場面以上にフェイト教授のキャラクターは魅力的だった。

ハリー・シアーズ/1981年「カリフォルニア・ドールズ」


  長年、脇役として活躍していたピーター・フォークが「刑事コロンボ」で人気者になってから演じた、女子プロレス・タッグチームのマネージャーである。タッグチームのアイリスとモリーを連れて地方都市をどさ回りする日々が侘しく、そのしょぼくれ感といい、バスンバスンと大きな音を出すオンボロ車に乗っていることといい、コロンボそっくりだった。「正式は物入り」が口癖のケチケチ男で、泊まるのはアイリスとモリーが「ゴキブリモーテル」と表現する安宿、二人におごるのはハンバーガー。「一度くらい正式な食事をしたいわ」と愚痴られても「だが、正式はとかく物入りだよ」と軽くあしらう。
 ケチに徹しているのは、いつかやってくる乾坤一擲の大勝負に備えてのことだ。アイリスとモリーは美人だし、チャンピオンになれるだけの実力もある。日本人のタッグチーム(これが当時、人気絶頂だったミミ萩原とジャンボ堀)との試合を見た日本のプロモーターから「二人とも凄い。彼女たちを日本へ遠征させるときは協力したい」と声を掛けられるほどだ。だが、知名度がないのは悲しいもので、「人気抜群のタッグチームだ。アクロンでは客が総立ち。ロック並みの人気でね」などとホラを吹いても、まともに取り合うプロモーターはおらず、しがないどさ回り生活が続く。今は我慢だ。しょぼくれマネージャーに見えて、ハリーはしたたかな男だ。二人を売り出すためには嘘もつくし、汚れ仕事も受ける。見世物でしかない、屈辱的な泥んこレスリングを無理強いしたのも、500ドルというギャラを踏み台にできるという計算があってのことだった。
「これでギャラがぐんと上がる。今後はこの契約書が証拠だ。一晩500が定着する」
 アイリスとモリーはハリーを罵り、喧嘩しながらも「名を売り、大金を稼ぎたければ、ぐずぐず言わずに黙って俺についてこい」というハリーに従う。マネージャーとして有能なことが分かっているからで、3人の絆は固い。そして、ついに国内ランキング3位となり、写真付きの記事(ホットでゴージャスなカリフォルニア・ドールズ。連戦連勝の彼女たちは女子プロレス界の新しい星)が大物プロモーターの心を動かし、チャンピオントレドの虎とのタイトル戦が実現する。ハリーは全国中継されるこの試合に賭けた。今こそお金を使うときだ。テレビ映えする演出で一気に人気を獲得してやる。
 いよいよ試合当日。映画は、それまでのうらぶれ感が一変する。リングアナがドールズの名前を呼ぶと、「ドールズ勝て!」の大声援。一人40ドルで雇われたサクラである。大声援の後は歌だ。サクラたちは、ピアノのメロディーに合わせて歌い始める。
「偉大なドールズ。素敵なドールズ。さぁおいで、この腕の中。君らは僕らの生きる夢……
 ハリーはオリジナルのテーマ曲を用意して練習させ、ビアノ弾きのじいさんにも金を渡していた。トレドの虎が思いもよらぬ展開に驚き、その苛立ちが頂点に達した頃、ようやくドールズが入場してくる。筋肉モリモリ男に担がれ、白い羽を付けた銀ピカのコスチューム。なんともど派手な趣向である。ドールズは全国のプロレスファンの眼を釘付けにした。後は勝つだけだ。ドールズは、レフェリーが買収されているという不利な状況を跳ね飛ばし(実際、ハリーの指示でレフェリーをぶっ飛ばすのが痛快)大逆転勝利。これが遺作となったロバート・アルドリッチ監督が奇をてらうことなく、典型的なハッピーエンドにしてくれているのでスカッと爽快、観終わってすごく元気が出た。