2019年4月1日月曜日

松村喜八郎《映画を楽しむ 7 ―我が愛しのキャラクター列伝⑤》

追分の伊三蔵/1968年「ひとり狼」


市川雷蔵が演じた孤高のやくざ。その魅力については、冒頭で孫八というやくざ(長門勇)が語る言葉に集約されている。
「誰から聞きなすった?追分の伊三蔵、俺はよく知ってるよ。兄弟分かって?とんでもねぇ。俺は同じやくざでも半端者だよ。伊三蔵はそんなこたねぇ。筋金入りとでもいうか、本物のやくざってのはあの男のこったろう。追分の、というより人斬りの、というのがぴったりの男で、一つの場所に三日といたことはねぇんだ。兇状を重ねて、いつも誰かに狙われてるって覚悟が体にぴったり染み渡ってて、親分なしの子分なし、誰も傍に寄せ付けようとはしねぇんだ。一匹狼そのままだったなぁ」
 信州・塩尻峠の斬りI合いに遭遇して伊三蔵と知り合った孫八が二度目の出会いを果たす場面。上州・坂本宿に草鞋を脱いで井戸端に向かうと、先客がいて後ろ姿に見覚えがある。伊三蔵だった。近付いて行くと、足音を耳にした伊三蔵は懐から匕首を取り出して身構える。一瞬たりとも油断しない。なんだかゴルゴ13みたいだ。喧嘩(でいり)は伊三蔵が手を貸した方が勝ちと喧伝されているぐらい強いから、敵対する一家と一触即発の状況にある貸元が助っ人を頼んでくる。その貸元に非があったとしても、頼まれれば伊三蔵は手を貸す。「渡世の掟がたった一つの頼りよ。人情なんて余計なものをしょってちゃ生きていけねぇ」と言う伊三蔵はプロに徹している。その点でもゴルゴ的だ。
 女への冷たい態度もそうだ。昔、情を交わした酌婦に声を掛けられても素っ気ない。「達者で何よりだ」と言うだけで、表情ひとつ変えることなく酒を飲み続ける。カッとなった酌婦に「さんざん夢中にさせといて、さよならも言わずに放りだした。お前さんなんか、どこかの喧嘩場で殺されるがいいんだ。誰が泣いてやるもんか」と罵られても泰然自若。そのカッコよさにしびれた。
 言葉とは裏腹にまだ惚れている酌婦は、用心棒をしている浪人に伊三蔵が勝負を挑まれると心配でたまらない。こっそり果し合いの場にやってきて「大丈夫なんだろうねぇ」と本音がポロリ。たまたま店にいて事の成り行きを知っている孫八も固唾をのんで決闘を見守る。塩尻峠で見事な太刀さばきを見たとはいえ、今度の相手はかなり腕が立ちそうだ。そんな二人の心配は杞憂に終わる。伊三蔵は用心棒を斬り捨てて虚無的な表情で呟く。
「今夜もまた……、この目の中に新しい卒塔婆を一本立てるのか」
 この言葉は後半、「卒塔婆の夢を見るのか」と、少し表現を変えてまた出てくる。死者を悼む気持ちがあるからであり、非情ではあっても冷血ではない。
「サイコロの睨みに関しても神業」の伊三蔵は壺の中の賽の目が丁か半かを正確に見抜く。しかし、決して勝ちっぱなしで帰るようなことはせず、頃合いを見計らってわざと負け、いくばくかの金を置いて「皆さんで一口やっておくんなさい」と挨拶して去っていく。それが一宿一飯の恩義を受けている貸元への礼儀であり、余計な恨みを買わない一匹狼としての処世術でもある。こうした描写も「ひとり狼」のたまらない魅力だった。
 伊三蔵がやくざになったのは、奉公していた武家の娘、由乃との仲を引き裂かれたからだった。父親が門前で行き倒れとなり、みなし子となった伊三蔵は由乃の家に引き取られ、働きながら字を習い、武芸を学んでいるうちに由乃と愛し合うようになった。家名を重んじる武家にとって許されぬ恋は両親の怒りを買うことになり、「私を勘当してください」という由乃の必死の訴えも実らなかった。伊三蔵が女に深入りしないのは、今でも由乃を愛しているからだ。だから、由乃が婚約者との結婚を拒絶し、仕立物で細々と暮らしていることを知って、博打で稼いだ金を送っていた。由乃も伊三蔵を愛し続けていたのだ。だが、ようやく再会した伊三蔵はやくざになっていた。そのことをなじられて伊三蔵は言う。
「俺の両の手は斬った人の血で汚れてる。それを恥とは思わねぇ。悔やみもしねぇ。一人の味方もねぇ俺が誰にも頼らず生きていくには、この渡世しかなかった」
 やくざ渡世に生きる男の覚悟が滲み出ている言葉だ。伊三蔵について語り終えた孫八が「きっとどこか旅の空で、新しい卒塔婆の夢でも見ながら流れているにちげぇねぇや」と感慨にふけった後、場面が一転して、カメラは雪の中を歩く伊三蔵を映す。一匹狼のやくざとしての覚悟が浮かぶ顔がクローズアップされてエンドマーク。思わず拍手したくなるほど素晴らしかった。
 池広一夫監督が村上元三の原作に惚れ込み、何度も会社に企画を提出してようやく映画化に漕ぎ着けたという。その執念が雷蔵主演の股旅ものの中でも抜きん出た一作とした。中村錦之助(後の萬屋錦之助)主演「関の彌太っぺ」「遊侠一匹・沓掛時次郎」と並ぶ傑作だ。

木颪の酉蔵/1972年「子連れ狼/死に風に向かう乳母車」


 若山富三郎が、幼い大五郎とともに流浪の旅を続けながら、高額の謝礼で刺客を引き受ける拝一刀を演じたシリーズに登場した異色のキャラクターで、貧しい家の娘を買い、女郎として働かせることを生業とする女衒の元締め。酉蔵と名乗っているが、女である。掛川藩筆頭家老・三浦帯刀の娘として生まれながら、忌み嫌われる双子だったことから、越尾一家と縁のある乳母に育てられ、女だてらに跡目を継いだ。
 酉蔵は『週刊漫画アクション』に長期連載された原作の中でもとりわけ印象深く、魅力的だったので、観る前はそのイメージが損なわれるのではないかと危惧していたのだが、浜木綿子が見事に体現化していて大満足。小説であれ、漫画であれ、惚れ込んだ人物ほど頭の中に確固としたイメージができあがる。だから映画やドラマになったとき、たいていはガッカリさせられるので、こういうことは珍しい。
 酉蔵は旅籠の一室で一刀と出会う。一刀は、女衒の舌を噛み切って逃げてきた娘を匿い、宿改めに来た役人を追い払ったばかりである。酉蔵は、娘を渡せといきり立つ子分たちを鎮めて丁寧に挨拶する。
「手前は越尾一家の酉蔵と申しやす。この宿場から刈谷までの遊び場所すべてを束ねておりやす忘八者で、その娘は私どもの女衒、文句松が買ってきた玉でござんす。どうかお引き渡し願いとう存じやす」
 一刀は毅然とした態度で断るが、酉蔵は役人とは違ってひるまない。短銃を取り出し、忘八者とは信・義・礼など何もかもを忘れたやくざ者であることを話し、なおも引き渡しを迫る。
「手前どもと張り合っても何の得にもなりやせん。買っても負けても。その娘を渡したところでお侍様のご体面に傷が付くわけでもなし、どうかここのところはお手を引きなすって」
「断ると申しておる」
「どうでもその娘を渡せねぇと?」
「くどい」
 酉蔵は銃を撃つ。一刀は手練の早業でかわす。これで酉蔵は一刀が並々ならぬ腕であることを悟る。だが、それでも一歩も引かない。一刀に斬りかかろうとする子分たちを押しとどめ、「お侍様、私どもにも忘八者としての面子がごさいやす。このままでは引き下がれやせん。といって、小娘一人のために可愛い子分を死なせるわけにもいきやせん」と、殺し合いをせずに済む方法を提案する。逃げ出した女郎が受ける折檻を娘に科してから解放するというものだ。一刀は、死ぬかもしれないその折檻を代わりに受ける。声一つ出さずに凄まじい責めを耐え抜いて気を失った一刀を見下ろし、酉蔵は感に堪えたように呟く。
「本当のお侍ってのは少なくなったが、まだこんなお人がいるんだねぇ…」
 この侍は噂に聞く子連れ狼に違いない。酉蔵は一刀を父親に引き合わせて刺客を依頼する。掛川藩は、領主が狂人であることを側用人の猿渡玄蕃に密告されたため取り潰しに遭った。その功績で天領地の代官となっている裏切者、玄蕃を殺してほしいという。一方、玄蕃も画策を巡らし…、というストーリーはどうでもよくて、この映画がシリーズでも上質の出来栄えになり得たのは、浜木綿子の酉蔵が素晴らしかったからだと言っても過言ではない。二百人の侍と死闘を繰り広げ、依頼を果たして去っていく一刀を酉蔵が追おうとする。一刀との出会いが、男として生きてきた酉蔵を女にしていたのだ。「元締め、行っちゃいけねぇ。あれは人間じゃねぇ、化け物ですぜ」と子分に止められ、追いたい気持ちを懸命に抑えようとする酉蔵。その顔に浮かぶ思慕の情。浜木綿子の最高作ではないかと思う。

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