2019年4月1日月曜日

大竹誠《様々な時代の都市を歩く 7 —80年代を歩く(後編)》


『木の事典』


 神谷町の“かなえ書房”

 友人の会社を8ヶ月で退職。その会社から300M先の知人の新しく作られた会社へ。そこはかつて『デザイン批評』の編集社があった場所。木材の開発と木造建築の見直しを勉強してゆこうと組織された組織。嘱託のような契約だが一安心。月々の収入を得るために、開発された『置き水屋』を販売して回った。茶室を持つことはそう簡単ではない。そこに目をつけて、マンションなどの部屋に置いてお茶を楽しもうという什器。都内のお茶屋をまわる。しかしなかなか売れない。そうこうするうちに、会社は木造建築を見直すための「日本建築セミナー」なるものをスタート。その事務方も仕事に。セミナーでは、文化庁の人や、有能な棟梁、建築や木材の専門家などもと、「建築見学会」「セミナー」が持たれる。普段見学できない物件も見ることができた。都内はもとより、近郊、大垣にも足を運び建物に触れた。毎回30数名の参加者。セミナーが終われば先生方との一献。参加者の多くは建築事務所勤務でお互いの情報が交換されていく。木材の仕事に関わったことから、後日。『木の事典』の編集、出版に関わる。

 中学の同級生が編集事務所(「かなえ書房」)を開いていた。他の仕事をしようかなと考えていたので、訪ねる。学友はカード式の書籍を作りたかった。カード式ならば読者がページを組み替えて自分なりのページ構成ができるわけと言う。そこから「カード式104葉の『木の事典』」を制作しだす。木材開発で知った、上村武、平井信二さんに会い折衝。「B5カード、箱入り」の初期全7巻が完成、販売。記載木材のそれぞれに「樹種」「枝葉」「樹幹」「組成」「利用」「組織の顕微鏡写真」のカードがある。つづいて第二期の「7巻」。最終的には20数巻まで刊行。

 「かなえ書房」では月1回の「焼き肉会」が持たれた。大きな餃子鍋を浅草の合羽橋で入手。ガスコンロに乗せて焼いた。酒盛りでは談論風発。そんな中、白井晟一研究の刊行も始まり、多彩なメンバーとの雑談。白井晟一の設計の現場、登呂遺跡近くの“石水館”(芹沢銈介美術館)へ。そうこうするうちに「かなえ書房」の机を借りてデザイン事務所を開いた。机2台分のスペースを借りで「現代デザイン研究室」とした。そこからアルバイトで建築雑誌社の「建築知識」の編集の請負仕事、家具商「海市」の図面下職などをゲット。住んでいた市川(千葉県)と「かなえ書房」の神谷町、「建築知識社」の乃木坂を往復。一時期は50ccバイクで排気ガスを吸いながら通勤。



いくつかの取材で歩く


「建築知識社」で創刊した『設計カタログ』は、友人が編集人。そのつてから編集請負をする。建築設計では膨大な量の製品の世界から選ぶ必要が生じていた。友人はそこに目をつけた。建築家が一目で製品の世界を把握できるように。生きるための『全地球カタログ』(アメリカで刊行)のように。請負仕事しながら、コラムページをやらないかということになる。
物件の取材や対談の企画など。→タイムリーに建築家「クリストファー・アレグザンダー」の盈進学園・東野高校の建設現場を取材(入間市)→キャンパス・プランを早々に描き起こすのではなく、まずはキャンパス構成員がどのような高校をイメージしているのか、期待しているものは何か、どのような教室で、どのような校庭で学園生活を過ごしたいのかをヒアリング→それらを200のパタン・ランゲージ(空間造形のイメージ言語)にまとめ、そのパタン・ランゲージを組み合わせることでデザインをした高校。→アレグザンダーの特色は、多彩なスタイルの引用(近代建築のなかで否定されたものもある)、スタイルの見直し、土着的な工法・構法の採用(自分の足で歩いて探し当てた素材。焼きムラのある屋根瓦、変形サイズのコンクリートブロック、形状の異なるPCコンクリート柱、色ムラのあるカラー鉄板など)→これが綾織りのような肌触りを生み出す。使用者の深い経験を尊重した設計(講堂の白漆喰柱、壁に色を塗りたい。そこで模造紙に原寸大の柄を描いて、かなりの時間利用者の目にさらし、そのうえで感想を聞きながら最終的な色柄を決める)。「一分の一(one
to one=現場合わせ)」という縮尺での思考。打ち上がったコンクリート壁を見て、出入り口が違うとチョークで指示する変更優先思考。→建築計画とは一つの闘争なのだという攻撃的。問題定義の姿勢。

集成材の産地へ


 奈良県の桜井市の工場など。他に、「Time Out」ページの座談会サポート。木村恒久、粉川哲夫、布野修司、石山修など。

・『現代和風建築集成』(講談社第一出版センター)の刊行が始まっていた。紙面記載の和風建築の実測調査の仕事の紹介が、先の木材開発会社の知人からあった。実測調査の経験はその会社での建物見学会ぐらいしかなかったが請け負った。どうにかなるだろうと。困ったら、専門の人を探し協力を仰げばいいのだから。画板と巻尺(スケール)、下げ振り、写真機を持って動き出す。写真家が取材に入るサポートも同時に。
・藤沢の近藤邸(遠藤新)、日暮里の朝倉邸、埼玉の益田孝(鈍翁)邸、箱根の白雲荘。京都大山崎の聴竹居(藤井厚二)、京都・北村邸、愛媛県・大洲の臥龍山荘、高山市の吉島住宅、神奈川の富永譲邸、軽井沢山荘、青山の植田邸(吉村順三)、週末集合住宅、谷口別荘(谷口吉郎)、六甲の石井修邸、南林間の桂花の舎(白井晟一)など。→名作に触れたことはとても参考になった。近代和風の中でも職人さんの手がちゃんと入ったものは美しい。建築家の自意識が露骨に見えてくるものは、空間の質がうすぺらでつまらなかった。

取材の現場から


 飯田橋に事務所(木造モルタルアパートの2階の一部屋で)を開き、家具制作の下請けなどとともに、雑多な仕事を開始。「週間住宅情報」への売り込みから、カラー16ページの仕事が来た。友人の事務所と共同でこなす。手探り状態で、取材開始、写真家と連絡を取る。その仕事のまとめ方を評価?されたのか。続いて、「私の住んでみたい街」(カラー4ページ)が始まる。当初、6回ぐらいの予定だったらしいのだが、読者に好評とのことから、1年半も続き、76回にもなった。著名な作家やタレントに「住んでみたい街」を歩いてもらい、高梨豊、荒木経惟、飯田鉄ら写真家がその街の「ここか?」という場所を撮影。編集請負としては、原稿取り、ポジ写真受け取り、ページの構成、歩いたコースと目印を地図の中に書き入れてマップ化。著名人の中には、原稿締め切りギリギリまで待たされることもあった。ハラハラドキドキの連続。モノクロ2ページの「間取りウオッチング」というページや、「住まいのサイエンス」のようなページも手がけてゆく。前記「住んでみたい街」は、第二期もあり40数回分の街を歩く。

 雑誌「ハイファッション」の取材で、東京、横浜の映画館巡りをやり記事化。建築のディズニーランド化としての「オランダ村」へも。→空路で長崎へ→船で大村へ。この間土着的な土を踏まずに。一気に異国の感じ。→オランダにもないオランダ村(オランダから昔の民家の図面をもらって参考に)をセールスポイントにしたハイパー・リアルな町。→オランダムードの表層との戯れ、オランダ気分のなかで時間を過ごすこと→観光村の一画にあるATMもある。テーマパークという名の「消費パーク」の証し。現代版遊郭?
◎ブローチを付け出した建築がみられ出す。そこで街を歩いた。→衣服にブローチを付けるように建築もブローチを付け出した。馬、キリン、ゴリラ、猟犬など動物ブローチ。バレリーナー、ペンキ屋など人物ブローチ。ゴルフボール、ロケット、靴、メガネなどモノブローチ。→それらは建築の広告化(話題作り)であり、建築の情報化(表層化)であり、建築の商品化(パッケージデザイン)である。
◎イマジナリーな建築の「ヤマト・インターナショナル」へ。→バブル経済の中から生み出されたポスト・モダン建築(見た目の豪華さ、ファッショナブルさ、ハイテクノロジーさ、アーティフィシャルさなどなどを狙った)。設計の建築家は、山国(長野?)で育った少年時代の想いを“雲母”(キラキラ輝く)に譬え、その重層的な雲母のイメージを東京湾ウオーター・フロントの建物ファサードに転写したという。
◎できながらにして“悪意”に満ちた(取材したが責任者の所在など対応が横柄、無責任)商業施設。数掛け月後、吊り下げた6トンの照明機器が落下して死亡者を出し、倒産、廃墟となったディスコ。「砂の惑星」などの物語りから個室がデザインされ、見るからに折れそうな華奢な鉄製階段。その欠点を隠すかのように迷宮化させるバリー・ライト。このライトはチェーンで吊り下げられ、ディスコが始まると一分間に何度も上げ下げされた。専門家によればチェーンは切れるものだと言う。→あの“悪意”感じた第六感は当たったのだ!


ポストモダン建築の寿命は早い!


 完成し、話題を呼んだ「結晶の花」(原宿)は数年の命。ファッション・ショーのように華やかな見せ場となりながらも、ファッションの寿命を全うした。建てられた時のプログラムは何だったのか?取り壊される時のプログラムは?経済の、商品の、つまりマーケットの論理そのままに従った住宅建築の登場か!
◎ショーのフィナーレにふさわしい「階段」をテーマとした建築の登場。→麻布一丁目の「エッジビル」。神宮前のレストラン。浅草のアサヒ・ビヤホール前の「ガラスの階段」。その他にも「京都駅ビル」など街のあちこちに「階段」がつくられだした。それら“階段”は何を目的としているのか?
スペイン広場のように多くの人がたむろする階段ではなくてファッション・ショーのように、脚光を浴びるスーパーモデル(虚像)がくねくねと降りてくる階段。
◎金属の棺桶のような映画館ビル:銭湯が激減するように、かつての映画館らしい単独の映画館も減りだした。変わって登場したビル内の映画館=シネコン。「大きな絵看板」「手だけ窓のあるチケット売り場」「映画館独特のドーム屋根」「入り口まで上がる広いスロープ」など映画館の特有のアイデンティティが失われていく。
◎からくり人形時計に吸い寄せられる人びと:銀座マリオン前、小田急ハルク前、原宿商業ビルなど街に増えだした「からくり時計」。時間になるとどこからともなく集まってくる人びと。インスタントなからくり時計を見ている人たちも「からくり人形」に見えてしまう。それらの人たちはからくり時計以上のさまざまな動きを見せてくれる。→有り余るほどの時計が生産されている時代に現れた、これらのからくり時計は、有限なを意識化させるからくり?「急がなくては!」。時報とともに、人びとが集まり、そこで物々交換をしたり、情報を交換したり、パフォーマンスをしたりしたらどうなるか。

地上げの現場から


 飯田橋の事務所開設後、にわかにバブルの時代となる→「地上げ」といわれる輩が横行する。地上げで買われたビルは、建物の窓枠を抜き取り、暮らしている人がいるのに建物内部を風雨に晒させて追い立てる。空き部屋のドアーを破り、残された家具、調度品を床に投げ飛ばされている。→建築資材の鉄パイプと足場板がどんどんと搬入される。その荒くれ作業は恐怖だ。なぜ?そんなやり方が許されるのか!荒くれ作業者は全体の計画など知らされず、依頼者の名前も知らず、それだけにやけくそで、投げやりに、そして乱暴となるのか。
◎「移転しない」と言っていた飲食店が、ある日夜逃げ同様にいなくなる。あの気だての良い夫婦はどこへいったのか?
◎四軒長屋の真ん中を買い取り、たちまちにその部分を解体し、長屋をつなぐ構造の梁・桁を露出させ、残された両側の長屋の壁面を工事用のシートかぶせたままの現場。ここでも住んでいる人に対して「住めなくさせる」恐怖の追い立ての手法が見える。
◎ある日、まだ使用できるビルの屋上にユンボがあった?屋上から下階へと少しずつユンボで解体してゆく現場。その風景はとてもシュールだ。そういえば、溜池の「小松ビル」の屋上に巨大なユンボの張りぼてが陳列されていたが、あれはこのことを示していたのか?

 街の銭湯をターゲットに地上げして、「銭湯経営なんか儲かる時代ではないよ」と買い取る手法→街の人々のささやかな社交場である銭湯を無くすことで、街の組成を破壊してゆくのだ→八丁堀の「藤の湯」のサヨナラ・パーティでご主人は近所の人の前で涙。うれしい涙ではなく、悔しい涙、恥ずかしい涙なのだ。家に風呂を持たずにきた街の人々の期待に応えることができない、そして街の社交場でもあるその空間を、自分の代で閉じることへの複雑な涙なのだ
◎地上げによって、土地が売り買いされ街の一画が、刃こぼれ状態となった街(神田神保町、外神田、小石川など)、地上げされた土地は駐車場にされたりするが、それも見せかけ。しばらくするとフェンスで四方を囲んで中に入れなくしたもの、駐車のためのラインや番号を路面に表示してあるのだが、どこからも車が入って来れないものなど傑作もある。しかし、駐車場となったものは、周辺の住民にとって気が気ではないだろう。2層3層に積み上げられた自動車は危険極まるものだから。ガソリンを摘んだ爆弾なのだから。そのような駐車場化を行政が支援しているのだから開いた口も閉まらない
◎銀行をロビーのように使用している土地成金の人たち→そう、彼らは地元から出てしまい、郊外に「億円邸」を建て、「アパート」を建て、後は銀行の利子で生活しようとしているのだ。刃こぼれの風景から戦後時代の風景が垣間見える→切断された長屋の壁に貼付けられたブリキ波板、隣の建物が取り壊されることで、それまでの隣の建物によって隠されていた住まいの裏側が露出する。壊されたコンクリート床と露出する大地。残された建物の外壁に痕跡を残す以前あった建物のシルエット。真ん中の家を取り壊され、残った壁を養生シートが梱包する。それは美しくもある。取り壊され、更地化され、そこが雑草で覆われる。

•廃墟の流行:
地上げによる「都市の死」、あるいは「都市の都死」によって「廃墟・廃棄」が現実のものとなった→生きられた香港の九竜城址、大友克洋の描く「アキラ」の廃墟都市、廃墟を棲家とする石川淳の『風狂記』、映画『ブレードランナー』のジャンク都市、『転形劇場』の廃墟のような、墓場のような舞台“地の駅”。数トンのゴミを積んだ舞台セット。「廃墟写真」や「廃墟ツアー」「廃墟アート」も生まれだした‘80年代だった。


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