2019年5月20日月曜日

大竹誠《様々な時代の都市を歩く 9 ―90年代の街を歩く2—阪神淡路大震災の災害地へ》

1995年1月20日、阪神大震災(1995.1.17)の現場へ


 テレビでは上空から煙のあがる薄暗い街をヘリコプターからの映し出し、「古い木造建築に被害が出ているようだ」とスタジオからのコメントが流れている。しかし、古い木造建築に住まわざるを得ない人がいることを無視した「木造悪者論」に聞こえた→墨田区の木造住宅密集地「京島」をだしに使った脅し、あるいは都市が危険であることを隠してきた都市開発。→華やかな都市、消費都市、情報都市、ファッション都市なんでもよいが、都市の潜在的な、また、解決していない問題を忘れた考え→今、目の前で起きている現場を徹底的に取材し記録することではなくて、早くも、次の災害シミュレーションをやるテレビ人→「人災」だと決して言わないマスメディア→ならばと1.20現地へ。東京駅から新幹線で新大阪へ。新大阪でボトルウオーター(芦屋地区の友人宅実家のために)を入手し、「JR西宮北口駅」へ。駅前は夥しい数の自転車。人でごった返している。軍手、タオル、ペットボトル、ブルーシート、ヘルメットなどを並べる店がある。→国道2号を神戸方面から歩いてきた人、逆に西宮から神戸方面に行く人。みんなリュックを背負い、キャリアカーを引き、防塵よけマスク、軍手姿→歩き出す。少し先から様相が変わる。道路沿いの建物は、均一ではない倒れ方、押しつぶされた住宅、上に持ち上げそのまま下へ落とされた状態の住宅。瓦やモルタルの落下、剥離。内部からガスの爆発で壊れたような倒れ方の建物。新しく建てられたRC構造のビルのひび割れした柱や壁。道路を塞ぐ倒壊家屋、電信柱、ブロック塀→爆撃を受けたようにある部分が徹底的に破壊されている。その倒壊家屋が延々と芦屋まで続く。倒壊した家と、倒壊しなかった家との間には、どんな差があったのか。手をつけられず老朽化したものがやられ、金をかけてつくられたものはやられていないということか。新しい鉄筋のビルも倒れている。→「緊急車両」マークを張った車が往き来する。普段は歩くこともなかった街を、皆が行列をつくり往き来する。これまで歩いたことはなかったであろう20キロメートル離れていた街が繋がっていることを、知らない人からあちらの情報を聞くことを、道路で休息することを、道路沿いで飯を食べることを、人の家を心配そうに覗くことを、20キロメートルを歩けることを学び、実践する人々。

 芦屋市・翠ヶ岡の友人宅へ:大規模な集合住宅だ。外見上はなんでもないようだが、水が出ず、停電し、ガスが出ないとのこと。地震後、奥さんは靴下を二重に履き、スリッパをつっかける。部屋に中は食器が棚から飛び出して氾濫。怪我をしないようにとの判断だ。同時に、電気が来ていることを確かめ、何度も炊飯器で飯を炊いた。非常用にと。さらに中学生の男の子に自転車で街の災害状況を見てくるように指示を出す。そして、水道をひねりまだ出ているうちに風呂桶や容器に水を溜めた。母としての直感の正しさ。→近所では、同じように屋根のシート張り、老人世帯の水汲みを手伝う中学生。おしぼりを段ボール箱で持ち込んだ見舞客、さまざまな紙に消息を書いて壊れた家に掲げた人、近所の片付けを手伝う人、自転車を貸し借りする人、自転車修理の手書きビラ、バイクのダンピングセールの手書きビラ、自転車で街の様子を見回りする父と子がいた。→災害遭遇時の的確な判断と対応。予備・緊急用の生活用品のストックの必要性。巨大なインフラではなく、ミニサイズのインフラシステムを!これは、すでに60年代に提案されていた考えではなかったか?生活を緊急用のプログラムに変える被災者。

 芦屋駅前スーパーの倒壊現場、阪神高速道路の倒壊現場→建築工学、土木工学は何をやってきたのか。航空機や自動車ほどの緻密な研究があったとはとても思えない。かなりいい加減な計算しかやってこなかったのではないか?あるいは、専門家だけで考え出された「数値とか基準」を鵜呑みにしてきたツケ→生活の具体的なプログラムを考えない「プロのプログラム」がどうなるのかという実例→倒壊しない建築、倒壊しない構造物なんて可能なのだろうか。倒壊しない建築は不可能であると、なぜ発言しないのか→時間とともに建築も経年変化して、劣化するのだから、いずれ壊れることをプログラムに入れておく設計が必要となる。→ということは、修正が効かないメガロニックなものを都市空間に持ち込まないことが必要となる→厚さ1メートルほどに潰された家々。消費社会が生み出すものたちをどんどん囲い込んだ家々の崩壊。表層的なデザインも壊れてみるとただのゴミとなる→壊れたその風景は、不謹慎だがアートのように見えたし、だだっ広いアジアの大地のようにも見えた→夜になってもリックを背負い歩く人々。多くの人々が人を捜し、あるいは一時的に身を寄せる先へと歩く。これほど街を歩いた経験はこれまでになかったのではないか。歩くことで、どこが通行でき、できないか。どこが危ないビルか、どこに地割れが生じ、どの店が開いているのか、どこの人が亡くなっているのかなど把握しているようだ→マスメディアに頼らない情報が街に行き交っている→大阪までの帰りの電車。人々はさすがに疲れきった表情をしている。これほどの放心状態の人々の顔はこれまでに見たことがなかった。これほどの疲れを私たち都市社会は忘れていた。いや、隠してきた。→被害の少なっかった大阪は別世界のように、ネオンが輝き、建物に明かりがともっていた。

1.27日再び現地へ


 青木駅から長田へ→被災地の人たちと同じように20数キロメートルを歩くこと。臨時バスが運行しているが、まだ多くの人は歩いている。人が歩くことで街に流れができている。その流れに乗ることで方角や方向感覚を養える→歩けば歩くほど被害が延々と続いていることが分かる。切れることがない。→スプロール化したメガロポリスをはじめて襲った災害。どこの都市にもある普通の街を襲った災害。そのような意味ではこれは、私たちの街が襲われたことと同じだという認識。「東京でなくてよかった」と語る人々に、では「関西は何なのか?関西ならば、長田ならば災害にあってもよいのか?」。東京が守られて、何があるのか?むしろ「東京でなくて残念と言い返そうか」。そのような想像力が欠如している、節度が欠如している。→長田は靴製造の町工場が集まって町。木造の二階建ての長屋が路地に連なり、路地を介在して半製品や完成品が行き交っていた。その町が全滅、焼失してしまった。焼けた臭いが鼻をつく。菅原市場も同様の状態。アーケードは焼け落ちている。鉄道の高架基地も橋脚が座屈して電車が落ち込んでいる。→延々と歩くことで気づいたこと。川沿いは地盤が柔らかいのだろうか、倒壊家屋、護岸の崩れ、橋脚のズレなどが多い。同様に、崖地附近あるいは、坂道沿いでの被害が多い。被害の激しい地区のすぐ隣でそれほど被害を受けていない地区もある。地震の波はかなりムラのある、ずいぶんと不公平なものだ。その不公平さの原因を考えてみること→倒壊した建物の残土と、通行する車両の排気ガスとで街が埃っぽい。きれいに整備された街でも、一度壊れるとこのようになるのだ。そう見かけの現代都市が隠してきたものとは。→安全性を示す基準であり、基準の数値・数学、美しく見せるためのルール(どんな都市にしようかといったプログラムも議論にないのに)、衛生的思考、つまり脱前時代、脱土着、脱貧乏の思考。


3.1日3度目の現地歩き


 住吉から王子公園〜灘〜鷹取を歩く。3ヶ月あまり経過してが、まだ手がつけられない状態である。潰れた家屋の中に入れ込まれた黒色のゴム製フレキシブルダクトと残土に捧げられた「菊の花と茶碗」。再会しそれぞれの無事を確かめあう人。街角に置かれたトイレ。半壊しながらも営業を始めている喫茶店、中華料理店。街の活気はやはりこのような店の営業から立ち上がる。あるいは市場の営業再開から。→分断された鉄道を乗り継いで通勤、通学する人々。かつては通ったこともない道を人々が通ううちに自然と出来上がった通い道がある。しかも何本もできている。その一本一本に、そのコースを選んだ人々のクセのようなものを感じる。神社の境内を通り、植栽の垣根の多い所を通り、寄りたい店を通り、車の少ない所を通り、しかも最短距離のルートをつくり出した。したがって人の流れに着いてゆけば、土地の人でなくても目的地に辿り着ける。→タクシーの運転手さんの話し:「私は舞子町に住んでいるのだが、明石海峡横断橋の橋脚工事のおかげで命拾い。橋脚工事は巨大なもので何千本もの杭を打ち込んだので、淡路島北で発生した地震の波が、まず舞子のほうへ向かったが、その杭で向きを変え東の神戸の方へと進んだ」→横断橋の工事を今回の地震の原因とする小田実氏の意見。「神戸の山をあれだけ崩し、横断橋の工事のために大地にあれだけの穴を開ければ、大地だって持ちこたえられなくなるだろう。今回の地震は大地の怒りなのだ」。→タクシーの運転手さんの話。「長田は複雑な所で、役所がこれまで何をやるについても上手くいかなかった。長田の消防活動が遅かったのはそのことと関係している」。「道路に飛び出した倒壊家屋も多いが、まだ、手が付けられていないものは複雑な関係のある人達のものだよ」。→火災被害の大きかった長田の街の電信柱(なぜか電信柱は倒れずにあった)に掲げられた神戸市からのお知らせ「復興計画」。そこには、どこにでもよく見かける都市計画の絵が描かれている。街の中央に大きな街区ビルがあり、その周りを緑地と太い道路が取り囲むもの。ちょっとまってよ!これまで何十年にも渡り長田の人たちが育て、作り上げてきた街の風景はどこへいったの?誰がいつどのような議論をへて描いた都市計画なの?地震後の反省の上にたつ計画とはこのようなものなの?わずか一ヶ月あまりの時間で考えられたものと、何十年もかけてつくられたものとの違いに愕然とする。憤りをいだく。あまりに興奮したせいかカメラのフルム巻き取り操作を誤り、裏蓋を開けてしまう。おかげで、その「お知らせ」を撮影したコマは光りかぶりとなってしまった。→兵庫県南部大地震の現場を見ているうちに「あらゆる建築物は壊れるのだ」といことがあたりまえのこととして思えてきた。そして、その目で東京を眺め歩いてみると、ああ、この高速道路は倒壊するな、あの建物も倒れるだろうなと感じるようになった。そのような第六感を鍛えて行くことも、都市を歩くトレーニングの一つとなろう。



後日談


 東京造形大学のグラフィッククラスで、学生たちと阪神大震災をテーマにしたビジュアル表現を試みる。学生たちは、新聞記事などを参考に試行錯誤。写真を選んだり、文言を書いたりラフスケッチ。ラフを元に版下をつくる。最終的にはシルクスクリーン印刷。木枠にシルクを張り、感光製版。版をを洗い目止めする。手を抜けない作業なので、一連の動きに身が入り出す。色違いの版を作り、刷り始めとなる。一版では定かではなかった図像が、版を重ねることで鮮明となってくる。学生から歓喜の声。「やったね」。「災害」の「災」の字をクレーンで吊り上げると、「人」だけが落ちてくるビジュアル。「人がもたらした災害」というメッセージである。もう一枚は「災害写真」を背景に、この災害で亡くなった死者数6305を大きなもにで表示したビジュアル。

 出来上がった作品をどうするか?そうだ、小田実に送ろうということにした。小田実さんに送ったら(文学者住所録から)、後日、小田さんから返事があった。彼が出演した大阪のシンポジウムで、舞台の背景にそれら学生のポスターを貼り出してくれたというもの。その手紙を学生に見せる。

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