2019年7月29日月曜日

特別寄稿 大竹誠+木村恒久 《「我が家の旗」+「広告受講者諸君へ」》

東京造形大学1類 広告専攻学生客員教授課題 「わが家の旗」(2001年)

客員教授木村恒久さんから初回の課題として「わが家の旗」が提案される。国の旗、選挙時の政党の旗、高校野球入場式の各学校旗などは度々目にしてきた。それらは「錦の御旗」「主上の旗」。自分たちの旗を作ること、それはまさに「広告」。『暮しの手帖』を立ち上げた、花森安治は「人民の旗」をボロきれのパッチワークで作った。自分たちの立ち位置を、よせ集めの布地の姿に託した。「旗」を作ることはデザインの根幹かもしれない。全てのデザインは「わが家の旗」から開始される。

 授業の初めは「企画書」。我が家に関するエピソードを原稿用紙(400字)に書き起こす。それぞれの家の物語が書かれる。その企画書を、みんなの前で「朗読」する。木村さんは腕を組み、「ほ~」「ほ~~」と頷いている。翌週は企画書を元に「ラフスケッチ」を持参となる。我が家に関するイメージやエピソードを元にしたラフスケッチが提出される。学生の多くはすでに完成したような(デザインされまとまりを見せる)スケッチを描いた。S君は、野球好きで家が江戸火消しのめ組の子孫。そこで、1案は「野球ボールにクロスするバット」、1案は「火消しの纏」を鉛筆で写実表現。それを見た木村さん、「それはデザインではない!」。「どこが悪いの?」と首をかしげるS君。ここからS君と木村さんとの戦いが始まった。確かにS君の写実スケッチは、そのまま旗にしてもおかしくはないもの。これまでの授業なら、それらを部分修正してゆきフィニッシュワークでOKだった。

 多くの学生のスケッチは似た者同士。完成されていた。それで完成と思ったら「デザイン教育」はいらない。月並みな、判例のようなデザインでよければ大学などで学ぶこともない。パソコンソフト活用で十二分に対応できる。というのが木村さんの「それはデザインではない」だった。

 呆れた木村さん、課題のプロセスに変化をつけた。

(A)児童向きの絵本や単行本、また、成人向きの書籍から、……ジャンルを問わずに、自分の気に入った本の「タイトル」100点を書き出し、タテ8㎝×ヨコ20㎝の白い紙10枚に、10点づつタイトルを振り分けて……縦書きで書き込むこと(説明図つき)。
黒い紙の中央に縦長の穴をあける(説明図つき)。

(B)は、タテ25㎝×ヨコ10㎝の黒い厚手の紙の中央に、タテ20㎝×ヨコ3㎝の穴をあける(説明図ではこの穴の部分に斜線表現。「斜線の箇所を切り抜き、素通にする」と書き込みあり)。

*(A)(B)とも26日持参のこと。

 26日。学生たちは半信半疑で「タイトル」を原稿書きして持ってきた。
 1週間に描いた「スケッチ」を机の上に置き、「タイトル」に「黒紙の窓」を当てみる。そして「〇〇〇〇〇〇我が家の旗」と読んでゆく。予期しない言葉合わせに、あちこちから笑いの声。木村さんの提案は、凝り固まったデザインワークを一度反故にして、別次元のフィールドに自らを置いて出発させようというものでした。
 選んだタイトルと「わが家の象徴=シンボル」と全く関係がないはずなのに、異なるもの同士を重ねてみるとなんだか意味が浮上してきたのでした。「予期せぬ出来事」。その不意打ちのような組み合わせから、しかしイメージが浮上してくるのだから仕方ない。今度は、その不意打ちされたイメージからラフスケッチを開始。スケッチが描かれてゆくから不思議。描かれたスケッチはまたまた壊されてゆきます。
 すぐにまとまり出すスケッチではなく、目の前のスケッチを壊して、次のスケッチを生み出すこと。自分では信じていたスケッチが、木村さんの言葉でズタズタにされてゆきます。全体が壊され部分に切り分けられ、その部分が拡大コピーされ、その拡大コピーがまた壊されてゆきます。もう何が起きているのか分からなくなってくる。半信半疑(これがデザイン?)の状態。
 でもS君はしぶとくしぶとくスケッチを重ねてゆきました。その数、数百枚。頭の硬かった(世間一般のデザインとはこうであるという)S君、どんどん柔らかになり(迷いに迷い)、眼を見張るようなスケッチが流れ出るようになりました。木村さんのサジェスチョンは「デザインで思考すること」「デザインは思考のためのトレーニング」「デザインで哲学する」「哲学をするためにデザインする」という生きる根源に触れるものでした。
*S君の作品プロセスの詳細は『初めてデザインを学ぶ人のために……ある大学授業の試み』(論創社)を参照してください。

 以下、授業の際、木村さんが書いてきた、課題「わが家の旗」出題の趣旨原稿です。学生に起立させ読ませました(学生にとってこのような言葉が投げかけられるのは珍しく、「目が点」となる学生続々)。

広告受講者諸君へ


 その1…【物語へ!】


 近代デザインのアーキ・タイプと目されているバウハウスのデザイン理論は、美術、建築、工芸、グラフィックスなど、中味の異なるクリエーションの、その原典はすべてアーキテクチュアであると設定していた。
 それは、近代以降狭まった建築の概念を、ルネサンス時代の幅広い思考に戻す作業を意味していた。従ってバウハウスに於けるアーキテクチュアの語は、単なる物理的スペースのビルディングを超えた、知的な思考概念であった。そこでは広告デザインは、建築行為と地続きのクリエーションなのだ。
 いうまでもなく、アーキテクチュアの歴史概念の基範は教会である。教会建造物は、コミュニケーションの場としての、文化的スペースのための器である。

 今、テクノロジに創造性を見出す者にとっては、テレビやインターネットの映像情報を、教会に匹敵するコミュニケーションの場と認識している。その観点から捕えると、映像上での建築概念が発生する。つまり映像だけを手がかりにして、想像上の「物語」としてのアーキテクチュアが浮上するのだ。メディアとしての建築である。
 メディアとしての建築は、物理的建築を前提としたシミュレーションの試図ではない。ハイテクの……ネットワークとして展開するアーキテクチュアの概念だ。
 広告デザインも建築的行為だと定義するバウハウスのコンセプトに従えば、ハイテク時代の広告の概念は、映像を媒介にした「物語」の創出ということになろう。そういうことでは「わが家の旗」のデザイン製作のキーワードは「物語」でもある。

 かつてデザインは、「形」の論理に専従していた。だがテクノロジー時代は、形から物語性にシフトしている。形から物語への移行期に於いては、物語性を重い課題とせずに、物語の初源である「オトギ話」のレベルからスタートすべきであろう。オトギ話のコリアグラフィーが、「わが家の旗」の形を具現化する。
 コリアグラフィーは、踊りの振付と同義である。コンピュター・グラフィックスの分野では、形を動画にするアニメーションを演出する場合に、動作を振付(コリアグラフィー)という。「わが家の旗」では、造形的な形の形成の試行錯誤は多々起るが、この場合、形を造り出すというよりも、オトギ話の内容を振付してゆくと考えるべきであろう。

『要約』
 広告とは、新たな「物語」を創出することである。
 そこでの形は、物語の内容を視覚的に振付ける行為である。振付は、身体で考え、身体で表現する行為である。
 電子メディアの映像情報が核になって展開する時代は、美術家、建築家、デザイナーは等しくデジタル・アーキテクトになろう。そこで最も重視されるのは美術ではなく、映画の手法だろう。

 その2…【表現実践における10のポイント】


①言語
 スタート・アップの次元での表現意識は、身体の中から発現した内発的な状態で、そこには素材の区別も、メディア的性格の差異は存在しない。
 表現意識が内部的能力である限り、そこでのイメージには高低はなく、すべて等価値だ。従って初期の段階では、デザインも、音楽も、絵画もすべて同一である。初源の立ち上がりの表現意識は、共通して「言語」だ。形態ではない。

②概念化
 発端の表現意識である「言語」としてのイメージを、想定した標題を基軸にして文章化した「企画書」。これには、初めての言語的イメージの動機を裏づける概念が記述されている。と同時に企画書によってデザインの実相化への路線が決定し、ここで初めて自己の表現意識が、詩や音楽、絵画と異なる分野に進展する、外部能力を自覚する。自覚の中心になるのは、デザインとはすべて「世界デザイン」であるという確認でもある。どんな小さなマークや、商品ラベルでも、世界デザインでなければ、流通機構で機能しない。デザインは、閉じられた境界の内側に存在せず、開かれた外部能力を意味する。

③試図
 企画書に寄りそって、その概念を試図にした、アイディア・スケッチ。ここではデザインの性格や機能を暗示する。試図によって、無形な状態から有形化に進展するが、試図は、あくまでも実相化への推測としての断片的解釈で、構図以前の抽象的記号である。

④主語点出
 無形から有形化に発展した試図のスケッチを、絵画的手法で情景描写する。絵画的な手法によるイラストには、無意識に書き込んだ箇所が多い。これを綿密に点検すると、企画書に記述した主語と述語の関係が確認できる。試図のイラスト化は、表現の実践現場での重要なデーターで、参照に値する。

⑤言語遊戯
 点出した主語、述語を、言葉遊びのアナグラムでテストする。サンプリングした言語や文法を主語に挿入し、その組合わせを繰り返してテストすると、主語のイメージが増幅する。④のイラストと共に、このアナグラムを参照にすると、表現の実践過程での、形の論理の形成の背景説明が豊かになる。又、無意識な状態にあるイメージの深層が、意識化のレベルに浮上してくる。遊戯とは想像力だ。

⑥表現の実践
 ④、⑤の実験データーを手本に置き、身体を通じて、企画書の意図を形に紡ぎ出す、表現の実践作業の開始。ここでは構想した主題を、粘り強く握り返す、冴えた感受性が求められる。硬くならずに、リラックスすることが、逆にエネルギーの集中になる。
 実践の現場では、素朴に「楽しい」「うれしい」の感情を大事にすること。文人画の世界ではこれを「自娯」という。自らがたのし娯無という意味だ。自分の気持ちを自由に泳がす。

⑦形の試行錯誤
 無形の状態から有形化に向かう形の論理は、必然的に大きな矛盾と謎がはらんでいる。ない方が不自然である。そのためか、謎を「明証」する行為が形の完成と錯覚する。
 哲学的論評の分野では、主題の明証は必要である。だが表現とは思考を重ねて、思考が折り重なって、更なる深い問題に向うのであって、明証は一切必要はない。
 謎を秘めた形の生成は、試行錯誤の連鎖であって、このカオスを逡巡しながらの根気のいる作業であることを充分自覚すること。
 多く見かけるのは、錯乱した手詰りの状態を明証しようとして、短絡的に、普遍性という平準化の幻想に閉じ込もることだ。普遍性とは、ゼロの空白から出現しない。普遍性の初源はすべて特殊性であり、それが進展して普遍的価値を持つ。逆にいえば特殊性を保有しない形態は普遍化しないということだ。
従って形の生成は、あくまでも企画書に盛られた独異性意識を振り返って、徹底して特性を追求する行為が、表現者の個有の主体性投影である。

⑧バーチャル・ポリシー
 形の生成が、絶妙なバランスで調和を得た段階が訪れる。そこでバーチャル・ポリシー、つまり仮想問題を自分に提起する。バランスが釣り合っている形の条件を、仮にそれが釣り合いを破ったらどうなるかといった、逆説論的な疑問符の提案である。それによってバランスの取れた形を、逆方向から裏返しにして点検すると、そこから意表を突く異化効果が突出し、形の進展に大きなヒントを与える。
 バーチャル・ポリシーは、形の形成を一段と伸縮自在に発展させ、転回させる方法論であって、表現の中核になるテキストである。

⑨細部調整
 バーチャルな逆転の視点と、ストレートな視点を組合わせた複眼的な視点を、自由に使い分ければ、形の論理は極めて柔軟な、自由な解釈で流動化する。そこから解放感のある自由な遊び「自遊」の気分が高まる。「自遊」がないところには洗練された形は発現しない。その精神で、最終の微調整に向かう。
 ここでは、企画書と形とを相互に点検し、欠陥があれば修正を施す。全体の見通しが立てば、完成への仕上げに全力を注ぐ。それは多分、無心の状態であろう。

完成
 実践作業収束の完結。


 かつて広告製作の現場では、①から⑤までを、企業の担当者や代理店が練り上げ準備した。デザイナーには⑩の仕上げのみを要求し、従って若いデザイナーは⑥から⑨の存在に無知であった。
 だが今の広告デザインで、企業側が発注するのは①から⑩の全コースであり、以前のように①、⑤までのお膳立ては一切しない。フル・コース運営するペース・メーカーがデザイナープロだからだ。これを実行出来ない者は、広告の現場では無用の存在である。広告製作では、企画と表現が専門化しているとしても、専門分類化は、フル・コースの体験を前提にして行われる。
 ①から⑩のフル・コースを解読すれば理解できることは、表現とは、①から⑩に至るポイントの相互作用による「知の化学反応」である。広告デザインとは、複雑な「知恵」の総合化であることを確認する必要がある。


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