2019年7月16日火曜日

鎌田正志《写真家の死》

 今から2年ほど前の、2017年の6月に一人の写真家が亡くなりました。享年56歳。孤独死(病死?)でした。発見された時はすでに腐敗が始まっていたようです。彼には友人を介して2度ほど会ったことがありました。とはいえ、数分立ち話をしただけで親密になるほどの会話はしていません。
 最初に会ったのは彼が北海道から世田谷区に引っ越して1年ほど過ぎたくらいの時だったように思います(2007年くらい。正確には思い出せません)。彼は自分の写真作品を売ることで生計を立てることを信条としていたようで、当時の我が家のすぐ近所だった、井の頭池の側で週末写真を売っていて、そこに当時吉祥寺在住だった友人と訪ねたように思います。彼は自分の写真について何か一生懸命説明されていたように思いますが、何を話されていたのか今はもう思い出せません。その1、2年後、吉祥寺のコミュニケーションセンター(?)のロビーで個展をしているのを観にいったのが最後になりました。

 友人とその写真家がどこで知り合ってどういう関係だったか聞いたことはありませんでしたが、友人はそのプリント技術を高く評価してはいたものの、借金まみれの生活には批判的だったようです。確かに彼は写真を売って生活することを信条としながらも、その売り上げは生活を支えるには程遠く、実際のところは友人知人に借金をして暮らしていたようです(現実として彼はプロカメラマンとしての技術(および機材)は無かったようで、カメラマンあるいは写真家として依頼仕事を受けることが難しかったと思われます)。

 それでもその写真家は、2006年に写真の世界ではわりと権威のある「写真家協会新人賞」を受賞し、その前後にも地方の写真賞をいくつか受賞するほどの実力者で、彼が世田谷移住を機に始めたブログは毎日結構な数のアクセスがあったようです。私も時々彼のブログを覗いていました。そしてそのブログを死の数日前まで続けていたようです。
 ブログには作品制作への思いや日々の食事、訪ねてきた友人の話などが綴られていましたが、思い返せば亡くなる数か月前くらいから、体調の不良や死への不安など、切実な内容が増えていたようでした。何らかの病気のせいだったのか、あるいは貧しい食生活のせいだったのか、いつも体調が悪かったようで、一年のほとんどを床の中で過ごしているようなことも書かれていましたし、そういった状況なので生活保護を申請されようとしていたみたいでしたが、拒否されたのか、そこまで手続きを進めなかったのか、結局生活保護は受けられなかったようです。

 世田谷では2年ほど暮らして、その後、写真家の友人であるミュージシャンの経営する狭山市のアパートに越して数年暮らし(家賃は支払っていなかったようです)、その友人が沖縄に引っ越したのを機に、終焉の地となってしまった千葉県館山市の借家に転居。そこで2年ほど過ごして亡くなられました。

 彼がいくつかの賞を受賞したのは、自治体として初めて倒産の憂き目にあった、夕張市の炭鉱遺産を撮った写真集でした。北海道の小さな出版社が制作したものでしたが、ブックデザインは著名なブックデザイナーの鈴木一誌さん。写真のセレクトも鈴木さんが決められたようです。北海道から東京に転居された際に、その鈴木さんに他の作品(絵とか書とかフォトグラムとか)も見てもらったようですが、ちゃんと写真を撮るようにと諭されて終わったようです。

 彼のブログを見続けていた人は、いずれ彼が亡くなるんじゃないかという思いを共有していたように思われます。残酷と言えば残酷な話です。けれども、彼の友人といえども彼の生活を支え、面倒を見るなんてことは簡単な話ではないわけで、なんというか、世界がネットで繋がっていることの残酷さを見せつけられたような気がしました。

 死後、沢山の写真が発見された無名の写真家の話はときどき聞くことがあります。そもそも生前は「写真家」ですらなかった人が死後偉大な作家として祭り上げられる。作品が変わるわけではなく評価が変わる。作品とは一体何なのか、どういうことなのかよくわかりません。一方で公的な支援を受けて、海外で制作活動を続けているアーティストたちの評価というものがある。美術的、芸術的評価や価値とは一体何なんだろうと考えるたびに、孤独死した写真家のことを思い出します。

0 件のコメント:

コメントを投稿