2019年9月1日日曜日

松村喜八郎《映画を楽しむ11 ―我が愛しのキャラクター列伝⑦》

斉藤一夫・一美/1982年「転校生」


 大林宜彦監督は故郷の尾道を舞台にした映画を何本も撮った。その一作目に登場した、名前が一字違いの幼馴染み。神戸に引っ越していた一美が中学3年になって尾道に戻ってきて一夫と再会し、神社の階段から転げ落ちたショックで互いの心と体が入れ替わってしまう。一美の体になってしまう一夫を演じた小林聡美が素晴らしくて、とてもチャーミングだった。女の子らしく振舞わなくてはいけないと思いながらも、男の子の地が出てしまう言動が愉快で、その演技力に感心させられたものだ。以来、今日に至るまでこの女優のファンでありつづけている。
 相手役の尾美としのりも上手ではあるのだが、変身する前の一美のキャラクターとはちょっと違うのが残念なところだ(一美は一夫に「馴れ馴れしい」と迷惑がられても「いいじゃなーい。昔からのお友達なんだもん」とまとわりつき、一夫がスカートをめくって逃げると「やっぱり一夫ちゃんだ」と喜んで後を追う活発な女の子なのに、変身してからの一美はなよなよしすぎている感があった)。
 原作の「おれがあいつであいつがおれで」は何度も映像化されてよく知られていると思うので、細かいストーリー説明は省いて、小林聡美の演技が印象的な場面をいくつか紹介する。まずは変身に気付く場面。
 鏡に映った自分の姿に驚愕し、胸に触ってみるとふくらんでいる。まさか?とスカートの中に手を入れる。
「オオッ!ない。なくなってる」
 摩訶不思議な現象を親に話しても信じてもらうのはとうてい無理。仕方なく一夫は一美、一美は一夫の家で暮らし始め、自分の家の様子を聞きに電話してきた一美に「オカマみたいな言い方すんなよ。〝ネ"とか〝ワ"とか言うのやめてくんねぇかなぁ。我ながら気色悪くてよぉ」。
 一美だって男の子の癖が抜けない一夫が不満で、「もう少し女の子らしく歩いてよ」となじる。すると、「オー」と応じて腰を振り振りしてふざけるので、一美が「もう!」。互いに今の体が気に入らない。「イヤイヤ、この手、この足、この顔大嫌い」と嘆く一美に「馬鹿野郎。俺だってなぁこの体、正直言ってそう心地良くねぇんだよ。アーアー、早く元に戻って立ちションしてぇなぁ」。
 わざと上品な女言葉を使う場面もある。神戸からボーイフレンドのヒロシが会いに来てくれるというのでウキウキしている一美に「そんなに嬉しいんでございますのぉ。あんまりベタベタしない方がよろしいんじゃないですか?」。一美は今の姿では会えないので一夫についてきてもらう。そこで出会ったのがヒロシと一緒にやってきたアケミで、この女の子が傑作なキャラクターだった。アケミは一夫のスカートの中に手を突っ込み、「ふーん、肉体は確かに一美のものだね。しかし、中身はどうやら一夫くんのようだ」。アケミは事の顛末を一美からの手紙で知らされていて、「すごいわ。これがSFだわ。私、書くわ。この体験を」と大喜びする。一夫はアケミが秘密を暴露しそうにないのでホッと安堵し、ヒロシは「あん畜生だよ」と教えられて「よーし、そんじゃ“一美”をやってくっか」。    
 この後、しとやかに一美を演じていたのに、いい雰囲気になったことに嫉妬した一美にお尻を蹴られて男に豹変してしまい、慌てて「ごめんなさーい、はしたないところを見せちゃったわ。嬉しくてつい悪ふざけしちゃったの」と取り繕う場面のおかしさ。
 ゲラゲラ笑わせてくれるからといって、この映画をコメディのジャンルに入れるのは正しくない。思春期特有の心情をきめ細かに描いた珠玉の青春映画である。しんみりさせる描写も多い。一夫の父親が横浜に転勤することを知った一美が、離れ離れになる前に自分の体を見ようとする場面は切なかった。
「見ておきたいの。ちゃんとしっかりと。私の体にさよならを言わせて」 
 一夫はためらう。変身直後は平気で胸をはだけて一美にたしなめられていたのに…。恥じらいの感情を表現した小林聡美の演技が光っていた。

安達郁子/1987年「『さよなら』の女たち」


 斉藤由貴がキラキラと輝いていた時期、大森一樹監督とのコンビで撮った青春三部作の二作目の主人公で、映画の完成度では一作目の「恋する女たち」に劣るものの、キャラクターに惚れ込んだという点では郁子ちゃんが上だ。魅力的な脇役も数多く登場する。
 札幌のタウン誌編集部でアルバイトしている大学生の郁子は、就職活動もせずノホホンと過ごしていた。そのまま就職できると思っていたからだが、経費削減を余儀なくされたため、正社員の採用を見送ると告げられて大慌て。おまけに、父親が教師を辞めて歌手になると仰天の宣言。なんで?
 父はグループサウンズのメンバーとして地元では人気があった。しかし、ファンの女の子を妊娠させたことに責任を感じ、子供が一人前になるまで収入の安定している職業に就くことにした。そのファンが母親、生まれてきた子が郁子である。
「感動的な話だわ。でも私、ちっとも感動できない」
 おまけに母親までイルカの調教師を目指すと言い出した。またまたなんで?(目を大きく見開いて驚く斉藤由貴の表情が可愛い) 夢を追う両親と違って、郁子は「父親が歌手で、母親がイルカの調教。私、普通の両親が欲しい」と嘆く現実的な女の子だ。だから、父親に同行した東京のレコード会社で、そのルックスに一目惚れしたスタッフに誘われても「結構です。今更アイドルって年齢じゃありませんから」とあっさり拒絶する。上京したついでに友人の麻理(当時、美人女優として人気のあった古村比呂)を訪ねると、同棲相手の男が出てきて宝塚へ行ったきり戻ってこないという。麻理は男と同じ小劇団で女優をしていたのだが、熱狂的な宝塚歌劇のファンだったこともあって「こんなのは私のやりたい芝居じゃない」と言って家を飛び出した。なぜか、郁子の周りは夢見る人ばかりだ。
 なかなか就職先が見つからない郁子は、気晴らしを兼ねて宝塚へ。そこで不思議な女性、淑恵(久し振りの映画出演だった歌手の雪村いづみ)に出会う。淑恵は宝塚音楽学校出身なのに歌劇団には入らず、税理士の資格を取ってタカラジェンヌ専門に税金の相談に乗っている人で、郁子と麻理を神戸の海を見下ろす山の手の古い洋館に誘う。ここを改修して3人で住もうというのだ。しかも、業者に依頼するのではなく、女3人だけで。おしゃれな洋館に住めるというのではしゃぐ麻理とは対照的に郁子はトホホである。なんとかリニューアルを終え、淑恵が「女たちの館に」、麻理が「海の見える洋館に」と言って乾杯するのに、郁子は「我々の偉大なる労働に」。どこまでも郁子はリアリストだ。
 この洋館については淑恵の両親のロマンチックなエピソードが秘められているのだが、はしょらせていただく。重要なのは、郁子が淑恵や麻理、途中から洋館暮らしの仲間に加わるタウン誌の先輩などと交流していくうちに、少しずつ変わっていくということだ。
 郁子の父親は歌手デビューを果たして評判も上々、前途有望と見られていた。それなのにまたしても夢を打ち砕かれる事態が起こる。郁子の母親が妊娠したのだ。「最後の日に寝たのがまさかなぁ…。あと20年父親やってみろ、60過ぎちまう。シナトラじゃあるまいし、60過ぎて歌手やってたらそれこそ笑い話だよ」と嘆く(今と違ってそういう時代だった)父親を郁子が励ます。
「歌ってるお父さんってとっても素敵よ。ずーっと歌って。私の弟だか妹だか知んないけど、その子にお父さんの歌聞かせてあげて」
 郁子はガチガチのリアリストではなくなっていた。生まれたばかりの赤ん坊を抱いて郁子が話しかける。
「君が20歳になる時、今度は私が40歳を過ぎてるね。その時、私はどんな女になっているかしら」
 20年後の自分を想像し、満足しているかのように見える斉藤由貴の表情が良かった。

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