2019年9月7日土曜日

鎌田正志《杉浦グラフィズムの快楽と呪縛—DTPの夜明け 3》





今や写植という活字のシステムを体験した人は40代後半以上の人でしょうか。その年齢以下の人たちは名前は知っているけど実際には見たことはないかもしれないし、あるいは美術系大学や専門学校で印刷の歴史を学ぶ授業で教わったことはあるかもしれない。いずれにしても、今現在のパーソナルコンピュータによるDTPというシステムで印刷物の組版を作る以前は、写植によって組版が作られていたわけです。また、少なからず写植が生まれる以前の金属活字による組版も同時に使われていましたが、オフセット印刷という印刷技術では写植による組版のほうが制作が速く使いやすかったこともあって、一気に広がっていったようです。
しかし、実際に写植というシステムが隆盛を極めたのは1950年代終頃から1990年代の初頭までの30数年ほどで、それまでの活字の歴史に比べれば短い期間であったと思います(私は最初に勤めた極小出版社で「スピカ」という名前の写研の手動写植機を操作していました。もっと高価な写植機は入力している文字が確認できたのですが、スピカはどんな文字もただの点としてしか確認できませんでした。印字された印画紙を現像するまでどうなっているかわからなかったのです。そのせいかどうか、やたらと打ち間違えていました。もちろん印字されてしまった文字は修正が効きませんから、その文字だけ打ち出してノリで貼るわけです)。

私がDTPをするためにMacを使い始めたのは1989年の終わりからですから、写植の歴史と同じくらいの期間MacによるDTPにたずさわっているわけですし、そしてまだ当分はパソコンによるDTPが消えそうな様子はなさそうなので、DTPは写植より長い印刷の歴史を作ることになると思われます。(個人的にはすでにDTPは「終りの始まり」を迎えつつあるように感じているのですが)

前置きが長くなってしまいましたが、その写植全盛の時代、写植大手2社である「写研」と「モリサワ」が、ともに自社製品の宣伝とメセナ(企業による文化活動)を兼ねたPR誌を発行していました。写研が発行していたPR誌は「QT」、モリサワは「たて組ヨコ組」という誌名で、「QT」はA4の縦を少し短くし、郵送費を考えてか用紙も薄いコート紙。一方「たて組ヨコ組」は「QT」より若干大きめで、用紙も厚く高級感のあるマットコート紙。図版、写真も多くレイアウトも非常に凝ったものでした。PR誌は一般にはユーザーに無料で配布されるものですが、「たて組ヨコ組」は特定の書店で販売もされていたほどで、それほど制作に力が入っていたようです。では「QT」は「たて組ヨコ組」よりも劣っていたかといえばそんなことはなくて、とくにデザイナーへのインタビューは魅力的な記事が多く、記事内容を記憶しているのはむしろ「QT」の方でした。

たとえばQT69号(1987年)には戸田ツトム氏、奥村靫正氏、鈴木一誌氏の3人のインタビューが掲載されていました。最初の図版は戸田氏のインタビューが見開きで紹介されたページです。ここで紹介されている戸田氏デザインの「殺人者の科学」を私はずっと探し続けて(今であればAmazonでサクッと見つけられますが)、4、5年前に近所のBOOK OFFで手に入れたのは喜びでした。この本、もちろんDTPでなく写植で作られています。その中でも当時先端の電算写植というコンピュータ化された写植機で制作されていて、戸田氏はそのシステムを徹底的に解析して、まさに「戸田グラフィー」と呼べる世界を生み出しています(下の図版はQT66号の付録。5人のデザイナーに同じテキストを使って文庫本の見開きを作ってもらうという企画でした。ここでも電算写植につてい戸田氏はコメントを入れています。そしてこれらの方法があの衝撃的な「GS」などを生み出すわけですが、それはまた次の機会に)。

戸田氏を筆頭に、この時代のブックデザイナーのデザインは過剰過激で実験的なものが多く、「読める、読めない」「読みやすい、読みにくい」などという激論があちこちでかわされていました。いずれにせよ、80年代の後半は極論すれば「読めなくてもいい」と思わせるほどの、圧倒的な存在感のあるブックデザインがいくつも生み出されていました(それらを牽引していたのが雑誌「游」や「エピステーメー」などの杉浦康平氏のエディトリアルデザインでした)。

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