2019年1月30日水曜日

大竹誠《様々な時代の都市を歩く6 —70年代のデザインに関する話(エピソード編)》

1970年代のデザインに関する話を追加で一つ。


 大学を出て初めての仕事は美術系予備校(『御茶ノ水美術学院』)で受験生の面倒を見ること。
 デザイン系受験科目の鉛筆デッサン、ポスタカラーでの色彩構成などの課題をだす。3時間の授業中、部屋を周り、制作過程を見て、完成した作品を講評をする。講評は学生を集めて、全ての作品を掲示板に張り出し、一点一点の「良い点、悪い点」などを評してゆく。学生は真剣。こちらも熱が入る。
 数年経った頃、受験課題のマンネリ化(受験校の傾向がある)や、同じような課題講評の繰り返しが重なり、面白み、新しさが消えた。「こんなことでいいの?」。同じ感じを持った教員数人で雑談。「ならば、受験ではないクラスを作っちゃおう」となり、会議に提出。予想通り、白い目で見られたが提案は受け入れられた。
 新しいクラスは、昼間勤める人向け夜間の『基礎造形クラス』。学費は受験コース同様。学校の雑誌広告の隅にも表示してもらったが、いかんせん初めての試み。特別に「新クラス設立のチラシ」を印刷し、人通りの多い時間帯に、御茶ノ水駅前で通る人に手渡す。

初年度は6名スタート。クラスが始まってからも数人が加わる。


 6名スタートに教える側は4名と充実。細密画の立石雅夫、イラストの富田謙二郎、デザイン批評の柏木博、自称デザイナーの大竹誠。後に写真家の片山健市も加わる。このメンバーが日替わりで面倒をみた。教室は最上階の倉庫として使われていた16畳の空き部屋を活用。
 課題は、それぞれの教員が出した。したがって、毎日、異なる作品作り。「鉛筆デッサン」「色彩構成」「立体構成」「イラスト」「素材のイメージのフロッタージュ」「光源を見た後の網膜に反応する映像の表現」。
 時間とともに「写真の鉛筆模写」「写真撮影」「読書会」「シルクスクリーン印刷」が加わる。「読書会」では、ヴァルター・ベンヤミンの『複製技術時代の芸術』が使われた。読書経験も少ない学生にとって「読書会」は「目が点になる」経験。なんだかわからないけれどみんな付いて来た。「何かがある!」と。社会現象となっている「デザイン」とは「何なのか?」。その「ことば」に触れてゆく。
 3時間弱の授業時間で「やったね!」の実感をもたせたいと、時間のかかる手法は取らず、また、考えすぎないようなプログラムで対応。「既製品」の「色紙」「スクリントーン」「カラートーン」「雑誌切り抜き」「新聞広告切り抜き」「図版集切り抜き」「コピー機」を活用。
 日替わり課題では、いまいち効果が上がらない。そこで、教員が同じ課題を見る方式に変更。同じ課題を見ることで、教員それぞれの異なる評がでる。学生はその違いに戸惑う。「あの先生はこう言ったのに」「この先生は逆のことを言うんだな」と。その戸惑いも教育の一部と知らんぷり。教員相互で穴埋めなどしない。同じ課題を見るようになると、教員でもシルクスクリーン体験初めても。毎回手がける学生と同じ土俵に立つ。教える側と教わる側が混ざり出す。
 参加学生は、近隣地区に勤めている。場所がら、印刷所や建築事務所、病院などから。社会人なので「既製路線(ルーティング)」の頭の持ち主もいる。
そのような場合、既成路線からの逸脱を繰り返し繰り返す。すると「既製路線」から外れてゆくことの面白さに気づきだす。「やってもいいんだ」「やっちゃおう」と。「笑いも」出る。
 1年単位のこのクラスを出ても、何かの資格が取得できるわけではない。それにもかかわらず翌年もやってくる学生も。「留年」のような感じで、翌年の新入生の面倒を見てくれ出す。学生のような助手のような存在が生み出された。
 デッサンの経験のない学生たちに、描く楽しみを体験させたい。そこで「模写」という手法を採用。「写真の模写」。写真集から通名な写真家の写真(モノクロ)を選び、写真に5mmから10mmの縦横グリッド鉛筆で入れ。模写するケント紙にも同じグリッドを入れ、すべての姿(輪郭線)を鉛筆で写し取る。これなら誰にでもできる描法だ。写し取った輪郭線をはみ出さないように注意集中して写真のモノクロの濃淡を写してゆく。鉛筆を寝かせたり、立てたり工夫しながら。時間のかかる作業。次第に写真がケント紙の上に現れ出す(現像ですね)。絵の存在感が出てくる。うまい下手はあるけれど、写真そっくりの図像となる。達成感に満ちた学生の顔、顔!。「俺にもできる」「私にもできる」と。

「図像操作」というテーマでの課題を考案。


 「図像操作」は、デザインを構成する各種エレメント「構成」「色彩」「文字」「図像」などが、画面にどのような「効果」を及ぼすのか?を学んでみようと。「効果があるのかないのか」は、デザインを手がける上で必要条件。「会話」に強弱があり、同じ言葉でも「違った意味」あるいは「逆の意味」が生まれる。それと同じ。その仕組みを確かめようと。
 そこで、「映画広告の図像操作」。新聞記載の映画広告を切り抜いて、そのエレメント(スター写真、組写真、タイトルフォント、リードコピー)をトレシングペーパーにリライト(輪郭線模写)。広告を見ながら、「何がメインなメッセージなのか」を読み込みながら、そのメッセージを「スクリーントーン」を選んで張り込む。すべてのエレメントがシルエットとして再表現。
 情報の等価変換。いわば翻訳作業。元の広告とスクリントーン広告を見比べて、「広告の力」(文字の力、図像の力、構成の力)の判定となる。文字はスペース分の矩形表現なので伏字の羅列。大まかにデザインエスキスするための基礎レッスンとなる。表面的な表情に縛られず、「純粋な構成」を何度でも試せるようになる。
 「図像操作」で「自画像」も試みた。「自分のプロフィール写真」を相互に撮影し、その写真の「模写」。次に、「漫画」と「劇画」のスタイルを引用して、その作家の「特徴ある描法」を真似ながら、自分の顔を描いてみる。すると「ゴルゴ風」の自画像が、「西岸良平風」の自画像ができてくる。好きな漫画、劇画の引用はみなさんノリが良い。写真の模写と、漫画、劇画の3点を並べると笑いが起こる。想像もしなかった自分が、自分そっくりに劇画や漫画の場面になったから。
 「表現のスタイル」を変えれば、色々な自分が生み出せる。このシリーズはさらに発展し、「悪巧みする自分」「悩んでいる自分」「微笑んでいる自分」などなど、「ことば」をピックアップすれば、際限なく作品が生み出せる仕組みを体験。
 「シルクスクリーン」が次第にメインな表現手法に。「ニス原紙」によるシルクスクリーン。
 ケント紙に規則的なパターン(正方形の任意な分割など)を描き、パターンを見ながら版画のようにインクの付く部分と、つかない部分を色分け。そしてカッターで色の落ちる部分を切り抜き取り去る。その上にシルク版をのせて、ニス原紙をアイロンで圧着。版の完成。
 「観光絵葉書」をサンプリングして、絵葉書を構成する、図像(富士山、太鼓橋、舞妓、池、植栽など)エレメントをシルク版に「ブロッキング」(油性塗料で手書き)。
乾燥したら版を水性の途剤で覆い、ブロッキング部分を石油洗浄。その孔の開いた部分に油性塗料を入れて印刷。印刷は、一回一色。色数分の刷りを重ねてゆく。多色刷りの版画同様に色版を重ねながら次第に全体像が現れる。絵葉書の図像の組み合わせの法則のようなものが把握できてゆく。
 シルクスクリーンでは、「コラージュ」も試みた。西洋の細密図版集をあらかじめ入手。それらをめくりながら、「遠近法で描かれた教会建築」「様々な姿の人物」「花」「動物」「傘」「岩」「天使」など気に入った図像をコピーして切り抜く。切り抜いた図像を台紙に置いて、組み合わせてゆく。上になり下になり、飛び出したり隠れたり色々レイアウト。感じが掴めたら、ノリで張り込み、下図の完成。この完成図を、リスフィルムに焼き付けてから、感光剤を塗り込んだシルク版に焼き込む。次は、焼いた版の水洗。ジャージャージャーと水をかけて、光が通過した部分の感光剤を抜いてゆく。あとは版の具合を見ながら手直し。
 そして、刷りだし。細密画を組み合わせた図像なので、仕上がりの見栄えも良い。学生も嬉しそうだ。初めは一色刷り。そして、色を変えて前の図版に重ねてみる。色の違いから、ハレーションを起こしたような具合が生まれたり、版ズレが生まれたりと興味は尽きない。発見がある。予想しないことが起きる。自分で考えようとする。図版だけでは物足りない。そこで、「カレンダー」に仕立てようと、数字だけの版も作り、図版と組み合わせてゆく。アドリブがアドリブを生んでゆく。時には、ほかの人の版を自分の版に重ねることもあった。
 版権だなんて贅沢をいっていられない。新鮮な発見が継続するシルクスクリーン作業。
毎日のように、油性インクとインク落としの石油にまみれた作業であった。それだけに達成感もあった。
 「シルクスクリーン」に限らず、課題をまとめる作業も。厚口の白ボール紙でマウント額装。額装すると一人前の「作品」となる。家に帰り壁に掛けてもいいし、人にあげることもできる。デザインの展開パターンでもある。また、全ての作業を、自分でこなすことで、人に頼らずに作品を完成させる知恵も会得。いわば、セルフビルドの思考を持てるようになる。加えて、模写の丁寧さ、集中力も持てるようになった。何事も為せば成るわけだから。
 授業が跳ねると(21時すぎ)、みんなで駅近くの安酒場へ。「まいまいつぶろ」「沖縄そば」。「まいまいつぶろ」はトリスバー。のカウンターに腰掛けてダブルのウィスキー、ビールなど注文。注文に店主は首を上下するだけ。注文が通っているの?と不安になるがちゃんとでてきた。カウンターの端っこには、バラ売りタバコ。つまみは、ブリキの一斗缶の蓋を開けて皿に盛られていた。狭い店内、席がなければ、表の歩道のガードレールに腰掛けて酒を飲んだ。未成年がいてもそんなこと構わず「飲みましょうね」と。
 明大近くの酒屋では酒の箱に座り原価の酒を呑めた。遠足と称して「鎌倉」「高尾山」「奥多摩」「伊豆の美術館」へも。仕事が忙しくても、「帰りがけに、顔を見せて」がクラスの掛け言葉となる。デザインの授業だけをやるのではなく、人間としての付き合いをしようと。複数年在籍の学生たちが教室の主となる。
 70年代は、アングラ劇や名画シネマテイク、ハプニング、ロックフェスティバル、ジャズ喫茶、ディスコ、そして、デモ、学園封鎖など都市空間が賑わった。盛り上がった。
『基礎造形クラス』でも、RCサクセッションの追っかけ学生がいた。彼と共に武道館へもみんなで行った。女性軍はトイレで衣装替え。また、サボール、ラドリオ、ミロンガ、キャンドルなど純喫茶でコーヒを飲んだ。明治大学近くの酒屋で、酒ケースを椅子に、原価の酒を呑んだ。家族的な付き合いをしながらのクラスであった。当然、経営的には赤字。それでも10年あまり梁山泊のようなフリースペースが維持された。
 卒業(?)後、デザイン事務所へ行く人、編集社で写植の手習をする人、元の職場にいながら絵を描き出す人などなど、それぞれが楽しみだしたことは事実であった。

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