2019年1月16日水曜日

大竹誠《様々な時代の都市を歩く 3 —60年代を歩く 3―ゼミのフィールドワーク〜同潤会アパート》

 「記号としての都市」というテーマで渡された大阪万国博会場(1970年)の誘導サイン計画書「方位・方向・位置」の手法を、現実の都市空間でフィールドワーク。万博会場同様、多くの人の出入りする駅のコンコース(通路)を対象に、その空間を通行する人たちにとって、手がかりとなるサイン(表示のデザイン)は、どのような状態になっているのだろうか?を探るフィールドワーク(実態調査)であった。新宿駅西口地下広場から伊勢丹デパートまでの地下連絡通路と、渋谷駅の井の頭線改札口から東急文化会館までの空中歩廊を含むコンコースが対象エリア。地下通路には暗いところ明るいところがある。では、写真家が使う「照度計」で測ってみよう。静かなところ、音がうるさいところがる。では、騒音度を測ろうと「騒音計」を借り出し計測。空気が淀み息苦しそうなところがある。では、塵埃度を測ろうと、東京ガスへ行き、「ガスマイクロメーター」を借り出して測る。あとは、目にとまるサインや看板などを写真撮影。それらデータをアメリカの環境デザイナー、ケビン・リンチが書いた、新刊本の都市分析『都市のイメージ』(1968年)を参考にしてマップ上に落とし込む。体験を基にしたイメージマップつくりだ。環境から得た体験の差が地下広場のマップ上に落し込まれた。計測することで、「空間のムラ」、「空間の癖」のようなものがあることに気づく。また、デザインされた誘導サインが、周囲の店の看板、手書きビラなどによって力負けして認識できないことなどを知る。「看板の力」だ。デザインはデスクワークだけでは成り立たない“バトル”のだ!と。現場の思考のようなものが求められているのだと確認。

 当時の新宿西口広場では、夕方になると「フォークゲリラ」の集会が開かれていた。ギターを片手に歌い出す。その周りを学生や労働者が囲み出す。輪がどんどん広がる。歌が合唱される。広場を埋め尽くす若者、そして歓声。マスコミもやってきた。地下広場でのフールドワークは、ジーンズ姿に長髪で写真を撮り、何やら計器を手にしての怪しげなものに映ったのだろう。地下にある交番のおまわりさんも巡回していて、尋問も受ける。フォークゲリラの広がりを恐れ、ある日突然、広場に、地下街の商店街組合と表示したビラ。「ここは広場ではありません。通路です。」が、あちこちに張り出された。一枚のビラで、広場の意味が通路へと変わってしまう現実。次第にフォークゲリラは追い出しにあい、広場でたむろすることが出来なくなっていく。「広場」という「言葉」、そして広場を広場として活用する「実践」の重みを感じ取る。

 都市の空間を原初的要素で研究するフィリップ・シール(ペンシルバニア大学)さんとの出会い。新宿地下広場・渋谷駅コンコースのフィールドワークを見てもらい、若干のディスカッション。会場は六本木の国際文化会館だった。お土産に、フィリップ・シールさんの最新レポート「空間の構成の原理」のコピーをもらう。報告書を手に、「じゃ〜訳してみるか」と、その連続的読書会が始まる。練馬のアジトに夜な夜なメンバーが集まる。ジャズレコードを聴き、「ビリー」というインドのタバコを吸う。ビリーは聴覚を鋭敏にさせた。そして空間の認識のされかたを議論。何かがつかめるかもしれないと。
*ゼミから遺留品研究所設立

 卒業した一年目、東京都の防災都市計画の防災拠点6地区でのフィールドワーク。就職した者、大学院生になった者、フー太郎のゼミメンバーと『遺留品研究所』なるものを設立。現場に落ちている「ブツ」を拾い、被害者像、犯人像を推理する「遺留品」から、その名を借りた。初めての仕事が舞い込んできた。東京都の江東地区防災拠点計画6地区での避難時における避難誘導の環境を実態調査するもの。新宿駅、渋谷駅でのサイン環境のフィールドワークの実績(?)があったことによる。まずカメラを手に入れることに。カメラならニコンF!。写真に詳しい学友に新宿の花園神社近くの割引販売所を聞き現金を持って参上。倉庫のような販売所で手にした一眼レフニコンFはずしりと重かった。フィールドワークの武器になるぞ!。6地区を歩く。北から「北千住」「白髭」「錦糸町・両国」「大島・平井」「木場」「四ツ木地」だ。避難道路を歩き、歩く方向に向かって、定点観測的に前進して撮影。道路に沿って連続する街並みを平行移動しながら撮影。交差点ではそれぞれの道のパースペクティブを撮影。住んでいる人にとって避難の際に目星にできるランドマークとなるであろう対象の撮影。「煙突、大看板、十字路、大きな樹木、神社、鳥居、大きな建物、階段、橋、堤防」などだ。プリントした連続写真は建物のスカイラインの形(輪郭線)で切り取る。目印となると予想される対象もその部分だけを切り抜くなどして台紙に貼りこむ。台紙に貼られた街のファサード(外観)を眺めながら、どんなことが読み取れるのかを議論してゆく。背景から切り抜かれたファサード写真は、街での生な体験に近いもの。生な体験は「刺激」に満ちていた。さまざまな「刺激」の重なりとして街は成り立っているのではないか?。フィールドワークで得たデータを、マップ上に表現することに。問屋街浅草橋の装飾店を覗いて、蛍光色ビニールテープや長さ10cmあまりにマチ針、プラスチック棒などを購入。それら素材を使って、拡大した都市計画白図上に、避難ルート上の刺激物(環境データ)を差し込んでゆく。針に刺し込まれた「刺激物(データ)」の多い場所は、それだけ避難の際に拠り所となる対象が多くなり、少ない場所は、何かを補てんしたほうがよい場所となる。昆虫採集の標本箱同様、針に刺された標本(刺激物)は一つの表現となるのではないか。切り抜いた写真を改めてボールペンでスケッチなどして確かめたりもした。それらの作業から『パニック’70』という手書きの報告書として書きあげる。B4版の原稿用紙200ページぐらいだった。コピーがなかったので青焼き(ジアゾ式)で複写。分厚く重い報告書。

 6地区を歩くなかで、多くの発見、出会いがあった。千住・白髭地区では、鐘淵紡績の社宅に出会う。戦後建てられた古い南京下見板張りの木造建築群。「平」の社員用は長屋。「部長クラス」は瀟洒な住宅。向島の「鳩の街」や「玉ノ井」の“墨東綺譚”(永井荷風著)の街に突然迷い込む。既に廃屋も多かったが、「遊興の建築」の異国情緒というか奇っ怪な建物を前にシャッターを切る。「遺跡」を発見したような興奮を覚える。“極細タイル”“柄タイル貼り”“縦長姿だけ窓”“モルタル円柱列”“モルタルコーニス”“OFF LIMITの文字”“とおり抜けられますの看板”“アラベスク調の街路灯“。平井の街の”アタラシヤ“の看板。高さ1mの大きなカタカナ極太明朝体。文字の所々はペンキが剥がれて劣化している。クロームイエローのベタ地に黒文字。その鮮明さ!。店頭には荒物が陳列されぶら下がる。「新しい店」なのか?「新(あたらし)さん」なのか?「新しいものを売る店」なのか?。数ヶ月後時間また見に行くと、新たにペンキ塗りされていた。なんと!元の通りに!!!。街に欠かせないランドマークとなっているのだ。千住の道路の上空を横断する何本ものガス・パイプとその表面にペイントされた“危険”表示の文字。ガスの流れを示す矢印。街は危険がいっぱい。大島の広々としたコンクリート堤防、護岸、水門。アール・デコ風の水門もあった。それぞれの街をにぎわす看板。町工場の独特な素材感(チープなトタン板、スレート波板)と煙突。様々な表情を見せる街の建築。「街から学ぶ」を自分たちの学習のスタイルに位置づける。

「同潤会アパート」のある街へ


 防災拠点の対象の街を歩いていて、「同潤会横川アパート」「同潤会清砂アパート」「同潤会住利アパート」に出会う。堅牢な鉄筋コンクリート建築アパートだ。関東大震災の劫火で焼き払われた土地に、願いを込めて建てられた復興のシンボル。以来、同潤会アパート探訪の寄り道を重ねる。「東上野の同潤会アパート」「代官山の同潤会アパート」「江戸川橋の同潤会アパート」も。さらなる寄り道から「町屋の都営住宅」、巣鴨の「西巣鴨都営住宅」と出会う。関東大震災後に建てられた「町屋の都営住宅」の、軒出の長い分厚い外廊下、ごついゴミ落としダクト、コーニスのある建物ゲート、その外廊下がつくる真っ暗闇のような影。住まい込まれた空間、素材感、圧倒的な存在感。コンクリートの素材感、太い構造柱、分厚いスラブ、ほどよいサイズで包み込まれた中庭と階段、中庭の人工テラゾー製滑り台と洗い場。回廊。共同の洗濯場、銭湯、つるつると光る階段と手摺などなどに圧倒される。「代官山」「江戸川橋」「清砂町」「東上野」「横川」の「生きられた」住まい。それぞれ、ベランダや台所・浴室の開口部で多彩な増改築が行われている。暮らしは日々日々変容しているのだ。過激な経年変化の相貌。「出窓改装」「ベランダ部屋改築」「植栽ボックス」「建具の色彩化」。セルフビルドの痕跡。暮らしの痕跡を残せることの発見。「建築の発酵」。イタリア映画“ネオ・レアリズモ”の現場に居合わせた感覚。使いこまれていく建物の美しさ。この他にも街からgetしたものたちが身の周りに「フジツボ」のように張付き増えてゆく。

0 件のコメント:

コメントを投稿