2019年1月9日水曜日

大竹誠《様々な時代の都市を歩く 2 —60年代を歩く 2―「デザイン批評」の時代》

オープニング荒らしで街へ


 銀座の画廊のオープニングをねらって駆けつけた。名だたるアーティストに会えるし、話すこともできた。オープニングゆえ酒やつまみがでる。酒を飲み、出された普段は食べたこともないような料理もたいらげる。一流のアーティストに、不勉強など棚上げして乱暴な議論を仕掛ける。知り合いになったところで、その作家を大学のシンポジウムへ呼び込んだ。そう、大学から出される予算でシンポジウムを持つことができたのだ。アーティストと直接面接して講演依頼する楽しみ。そんな風にして画廊にマーキング。梱包作家のAさんには、段ボール箱に入ってもらって、会場へ運び込む。2時間あまり箱の中からワイヤレスマイクで「もしもしメリーさん・・・」とかしゃべってもらった。若者が持つある種の「過激さ、未熟さ」が同居し、それをアーティストや批評家が面白がってくれた。評論家Sさんは、手に入れた現代芸術作家・イブ・クラインのオリジナル作品(ヌード女拓)を持参し、教室の壁に張ってくれた。「ムスタンク」でやって来て、まずは自分の作品紹介をする建築家Kさん。批評家Hさんは、ロンドンで活躍しはじめた建築家集団“アーキグラム”のオリジナル資料をロンドン出張のお土産に運んでくれた。これも画廊で知り合い、ロンドンへ行くならは、見つけてくださいと頼んでいたものだ。学生の生意気な要望を真摯に受け止めてくれたわけ。誠に無手勝流。シンポジウムは、学生にとって著名な作家や批評家を呼ぶことのできる有効な、少し誇らしい機会だった。無手勝流はどちらかといえば有名性の暮らしをする彼らにとって、違和感があったろうが、その違和感が新鮮だったのか?オープニングの後だったか、評論家Tさんと新宿の行きつけのバーまで付き合ったこともあった。もちろん奢っていただいて。画廊が躍動し、人が出入りし、メディアとなり、人をつなぎ、世界を、都市状況を感じさせてくれたわけ。

期待される雑誌『デザイン批評』(風土社)を手に街へ


 大学の先輩の助手から紹介された『デザイン批評』。カタカナの「デザイン」に漢字の「批評」がドッキング。広告を見てなんだか分からないけれど感動があった。何かが起こるのではないかと。その宣伝を兼ねた「発刊記念の講演会」。会場の新宿紀伊国屋ホールが若者たちで埋まった。デザインを社会的な営み(思潮)として考えることだとなんとなく理解した。A5版の『デザイン批評』を手にしたら、ワクワクしてきた。同誌は「デザイン批評塾」を企画する。会場は寺の社務所、公民館、渋谷のガーナ料理店など色々。待ったました!と各大学から学生が集まった。他大学の学生との交流は刺激的で、同じ年代なのにえらく難しい話(言葉)をする者もいた。助手クラスの若い講師による難解なしかしその気にさせる報告会。そう、彼らは「報告者」として話出すのだが格好良かった。言葉が、あるいは内容が分からなくてもそこにいる興奮。報告者であり、原稿の書き手へのあこがれ。思いっきり背伸びをしていた。編集委員には著名な作家とともにまだ無名な助手の名前も。装幀やタイポグラフィー、カット絵などを助手たちが担当しているのも羨ましかった。塾の後は酒を酌み交わすことも。そうこうするうちに大阪万博が決定された。

反万国博覧会プロジェクトの誕生


 「デザイン批評」の編集者たちが核となり、武蔵野美術大学に「革命的デザイナー同盟」が生まれた。「デザイン批評」誌上でも「反万博」特集が組まれた。著名な作家たちも「反万博」談義をし出す。その談義を聞いて改めて「デザインと社会」を考えないとダメなのではないかと意識した。そうこうするうちに具体的な活動が始まる。「デザイン批評」書き手の事務所での深夜のビラ作り。戦争で焼け出された古い写真を、シルクスクリーンの版に焼き付ける。版の水洗い、インクを入れての刷りだしと工房が活気を帯びる。評論家T氏の事務所も活用した。そして深夜タクシーに乗り、万国博参加主役の建築事務所の建物へ。当時、建物の管理はゆるくメインの入り口は開いていた。2階の事務所のガラス戸へ縦長の「反万博ポスター」をべったりと貼った。近くの横断歩道橋、電信柱、コンクリート壁へも貼った。右手に刷毛、左手に乗りの入ったバケツだ。学友が大学校門の近くにコンクリートブロック造の小屋を建て、シルク工房とした。戦力アップ。授業をサボってたまり場となり、反万博、反安保のポスターをつくり出す。数寄屋橋交差点でのビラ配り、ポスター売り、カンパ活動、若干の議論。そう、阪急ビルの屋上から巨大な「反安保・反万博」の垂れ幕も下ろした。都市に関わることの興奮、デザインの街頭化だった。

都市空間でのデモ


 バスケット・シューズを新調して遠足のような気分で出かけた成田空港建設反対のデモ。土の舞う成田の会場に群がる旗、旗、旗。ぱたっぱたっとハタメク旗の音。学生、労働者、農民、教員、市民らが入り交じった広場。埃を立てながら空港公団前へのデモ。機動隊に蹴散らされて周辺の田んぼへ逃げた。新調のバスケットシューズは泥まみれ。そう、成田は土質の良い土地だった。くるぶしぐらいまで入ってしまうふわりとした土。デモの中ではじめて出会い、仲間となり話しをする開放感。大学では体験できないものだ。帰りに「お疲れさま」と飲んだビールはうまかった。◎ベトナム戦争と深く関係してしまった「王子野戦病院」へのデモ。ベトナム戦の負傷兵が治療を受ける指定病院なのだった。行ったこともないその町でのデモ行進。知らない町の人たちからの拍手。投石、知らない町での闘争・逃走◎国際反戦デーの銀座デモ。コンクリート舗装ブロックが剥がされた。剥がされたその下は砂だった。大地だった。消費社会の象徴の銀座が、全国へと繋がる砂と大地。そのでこぼこで歩きにくい街。砂丘のように深い砂地の銀座を歩く何ともいえぬ開放感。舗石が剥がされることで隠れていた何かが現れてきたという感覚◎新宿駅そして新宿歌舞伎町界隈でのデモ。機動隊に蹴散らされる中、友達と遭遇する偶然性。そう、デモでは不思議な出会いがあった。帰り道、タクシーに乗った女性から声をかけられる。「どこへ?」「池袋」「乗らない?」。しばらくすると、「運転手さんそこで止めて」。ストリートGだったのか?これも不思議な巡り合わせ。◎お茶の水「カルチェラタン」。M大にバリケード。校舎は立て看板で覆われていた。セクトの旗がはためいていた。機動隊に追われ逃げる学生を店内に入れシャッターを降ろした街の人びと。小石を運んでくれた街の人たち。予備校の敷地へ足を入れる機動隊に出るように意見する学生。街に流された夥しい量の催涙ガスと放水車の水。煙と水が充満する街。お茶の水から本郷へ、そして再びお茶の水へと都市空間を移動する体験。現場へ駆けつける野次馬根性、あるいはごまめの歯ぎしり。どこかに問題を探すのではなく、その場を闘争の現場としてしまうこと。「都市への参加の権利」。ルフェーブルを読む。やはり背伸びしていた。国会議事堂前の広い道路幅いっぱいに広がり手を繋いだ「フランスデモ」の開放感は今からでもみんなでやりたいです。銀座から全国へと展開された「歩行者天国」はひょっとしたら、あの「フランスデモ」からパクったのかもしれませんね。デモと消費社会は裏表?

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