2019年1月23日水曜日

大竹誠《様々な時代の都市を歩く5 —80年代を歩く(前編)―バブル時代へ向かう都市から》

「夢の島」への残土捨て


 友人の会社での建設現場仕事。改装で出た建築資材残土をトラックに満載して夢の島へ。ゴミで埋め立てられた東京湾の島へ掛け渡された虹のようなアーチ型の「曙橋」を一気に登る。見晴らし絶好。ゲートに鉄板。トラックごと積み荷を計る重量計だ。重さをチェックしゴミ捨て場へ。広大なゴミの集積地、どこへ捨てるのか何の指示もない。数台のダンプが荷下ろしするあたりへ接近。大きなダンプの横で小型のトラックの荷を下ろす。ゴミの山に尻を向け、一度、前進。そしてスピードをあげて後進し急ブレーキ。その衝撃でかなりの積み荷が落ちた。残りはシャベルで掻き落とし作業終了。→ゴミ・トラックの列は幌馬車隊のようだ。ゴミの地中に差し込まれたパイプから燃え出る炎。堆積したゴミから出るメタンガスだ。放っておけば爆発?しないように火をつけて燃やしているわけ。建物5階分の高さの山のようなゴミ。金属フェンスの網の目に吹き寄せられ、ひからび、へばりついた紙。ゴミの隙間からユラユラ揺れるビニール袋。花園のようだ。→ゴミの島の上空を低空飛行で行き交う羽田の飛行機→東京のゴミが集まり、砂漠のように何もない広大なそのゴミと戯れているという、いいしれぬ開放感→島から出る時は帰りのゲートで車両全体を自動消毒シャワー。ゴミ捨てや、資材の運搬でロープワークなど見よう見まねで会得する。

木材の産地へ


 友人の会社は十ヶ月で辞めた。300メートル先の知人の会社があった。そこへ居候する。元出版社だったが、銘木店を集めて「木材の開発」を始めていた。知人はかつて「デザイン批評」の編集者。銘木店の雑誌も制作していた。そんな筋から木材の開発を手がけていた。→開発した「置水屋」。茶室を半畳の半分サイズに圧縮した家具調。その販売が居候のお給料。「置水屋」とともに、建築用集成材の活用、木曽の檜の生き節材の活用でいくつかの地域へ。→木曽大桑村へ:天領であった木曽山林。「いたずらに木を伐ると木から血がでた」という伝説を聞く。一本の木をすべて使い切る知恵。建築用材を取る際に、多くの端材がでる。樹齢数百年の大きな木となれば、大きな節もたくさんある。節の部分はその都度切り取られ工場に山のように積まれていた。美しい赤みを帯びた「生き節」のブロックだ。それら「生き節」は、工場の暖房用に燃やされている。脂身でよく燃えるそうだ。何とかして活かせないか?「生き節」ブロック(1つが200×100mm)を平面的に集成板にして座卓の天板にすることに。工場では端材で箸も作っていた。儲かる仕事ではないが「捨てられない」。後日、「生き節座卓」が出来上がる。赤みを帯びた節がいくつも並び、美しい柄が生まれていた。天板の鉋掛けはこれまでに経験がなく難儀したそうだ。そのため斜めに鉋掛けできる刃を作ってくれていた。→静岡県掛川市の倉真木材へ:間伐材を活用した集成材のスカーフジョイント、フィンガージョイントの加工、大断面集成材、間伐材丸太の芯抜き材など実験的な素材を見る。間伐材を建築に活用するため丸太に芯を開けボルトを通して土台や桁と接合させるものだ。4メートルの丸太に穴を開けるための穴あけ機を開発していた。トンネル堀の要領で片側2メートルずつドリルで開ける方式。→長野県・松本市のシダーハウスへ:間伐材と杉皮を活用した建築の見学。間伐丸太をログハウス風に積み上げ、紡錘形の屋根には杉皮を葺いていた。断面が厚いログの壁は寒地にふさわしいとのこと。工場近くのカフェなどに使われていた。→北海道のアサダ材(桜)集成材の活用:桜材のアサダは硬く狂いが少ないので敷居などに使われていた。敷居には丸太の芯側の赤身が使われていたのだが、周囲の白太(しらた)部分は強度が若干弱く、活用に困っていた。捨てるにはもったいないとのことから、赤身と白太を薄い板にしてそれらを交互に集成してブロック板にした。集成面の接着ボンドはレゾルシノール。圧力を掛ける破断テストをすると、木部が破断してもレゾルシノール接合面は破断しないという強度。→日本建築セミナーの見学会:大学の建築学科でも主流は鉄筋コンクリート造の建築を教える時代。日本文化が長い時間をかけて育ててきた木造建築の技術の伝達が怪しくなった。危機感を抱いた人たちが集まり「日本建築セミナー」を立ち上げた。大工棟梁、文化庁職員、建築家らとつながり、連続公開講座と建物見学会が持たれた。それぞれの講師のつながりから普段では見学できない価値ある建物を訪れた。数寄屋作り、民家、社寺建築の見学。埼玉の「益田鈍翁亭」、「原三渓の三渓園」、大垣市商人の「赤坂の御殿」、高輪の「味の素記念館」、筑波での「実物民家火災実験」、浦安の民家ほか。

海外の街へ


 海外へ行ってみたくなった。練馬の借家で隣同士だった友人からネパール、インドの話を聞いていた。絵本挿絵の茂田井武が単身でヨーロッパへ行った話をなぞるように、友人はヨーロッパを半年ぐらい旅していた。パリならカルチェラタン近くのマジェラン通りに安宿があるなどなど。その友人がネパールへ行くという。格安チケットなど入手できそうだった。そこでプランを立てる。一ヶ月ぐらいかけてヨーロッパを歩こうと。勤めていた美術系予備校の海外研修枠に応募した。当選。さっそく、航空券を探す。友人のアイディアで、成田〜バンコク。バンコク〜ブカレスト。ブカレスト〜アムステルダムという分割チケット。帰りはパリ〜成田。帰路のチケットは、中野にあった明大の生協で手配。ヨーロッパ周遊の「ユーレルパス」も入手(64,400円)。荷物を登山用のアルミパイプ補強の大型リュックに詰める。靴はチロイアン。お金を入れるための腹巻を作ってもらう。写真機と40本あまりのスライドフィルム。時刻表、英語辞書、メモ用の遣れ紙の束、胃薬と風邪薬に正露丸、バンドエイドと赤チン。→家族と友人の仲間に見送られる。両替は424ドル(レートが235.55円で99,873円)。早速腹巻きに仕舞う。10月17日午後3時ごろ、成田を飛び立つ。しばらく飛ぶと、雲の塊。中央に大きな穴がある。台風を上空から見下ろした。かなりの規模のようだ。しばらくすると、イスラムの団体が祈り始めた。通路に座りコーランを唱えだす。飛行機がエジプト航空でメッカ巡礼の団体を乗せていた。→給油でマニラ空港。乗務員が開けたドアから熱風。→そして深夜のバンコクへ着陸。空港からリムジンバスで友人が手配の宿「ニューエンパイヤーホテル」へ。深夜に関わらず人、人、人、そしてバイクの群れ。充満するガソリンの臭い。路上で子供がレイを売り歩いているのが見える。逞ましい。部屋は602号室。腹が減ったのと、まずは街へと近くの市場へ。屋台食堂でシンハー(SHINGHA)ビールで乾杯し、ヌードルようなものを食べる。隣には腰に拳銃を下げるポリスも食べている。ヌードルようなものは辛い!が旨い。1時30分就寝。→2日目:7時30分起床。友人からヨガを教わる。三輪タクシー「テクテク」でバンコックの市場めぐりからスタート。急発進、キュブレーキで、しっかりとパイプを握る。→布地を売る露店があり、その横で別の人がミシン加工で仕立てている。→秤があちこちで売られている。秤を買って、持参した物資を計れば商売となるという市場都市なのだろう。子どもも働いている。マーケットで「FUSA-Bu」という梨とリンゴ味のジュース、「fun-HA-」という魚と蟹の擂り身の野菜煮を食べた。「WAT OHRA KEO」(寺院)前で、柄が木製のナイフ3本セットを買う。刃は薄く先端が雲形に反り上がっていて、柄の素材はダルギニアとのこと。川のマーケットにも行く。細長い船が店で何艘もが舫って繋がれている。その脇で子供らが濁った緑色の川に飛び込み遊ぶ。→昼下がり寺院に向かう。暑い午日照りだが、寺院の石の床に身を横たえて休息。涅槃像のように。路上を歩いていると後ろから「センセイ、センセイ」の声。ストリートガール?友人が手で払うように「いりません」。バンコクの地図を入手し、漫画、宣伝冊子など入手。表紙は4色カラーだが、他はモノクロ刷り。漫画とともに、ヌードやボクシングの粗れた写真コピーもある。無事宿に戻る。深夜に腹下り。トイレに何度も立つ。念のため正露丸。旅の疲れと、初めての食材に胃袋が驚いたか。→3日目:7時30分起床。不思議と腹の具合は回復。ヨガ。バスでマレーシアホテルへ。バスのチケットは薄い紙に図柄と1〜10までの数字が印刷されたもの。車掌さんは前に垂らした金属製のチューブのような容器の蓋のエッジでチケットに切り込みを入れる。3回乗ったが柄の色は青、オレンジ、ピンク。JAトラベルのチケットの受け取り。→成田〜バンコクのチケットはバンコク往復のチケットの帰路のチケットゆえ格安だったものを入手。その先はバンコクで手配というやり方。入手したチケットは、「BKK-ABUDHABI-BUCHAREST-EOROPE」。ちなみに成田〜バンコクが55,930円。バンコク〜ブカレスト〜アムステルダムが89,535円。宿泊したホテルが我々のチープな旅には立派すぎたので「サイアル・インターコンティネンタルホテル」へ移動。バンコクへやって来る普通の人たちが宿泊するとのこと。ホテル付近の市場でスリッパを入手。冷やしたココナツの汁を吸う。昼はビーフンスープ。我が家へハガキを出す。届くか?友人は、14時のフライトでネパールへ。私のフライトは、夜の10時45分発、ブタペスト行き。→一人になった。同じホテルに宿泊しているWさんが話しかけてきてくれる。彼は潜水してダイナマイトを爆破させる潜水工。美少女が側にいる。身体を売ろうと彼に働きかけた。だがあまりにも若いので、Wさんは、そんな気にならない。念のため、値段を聞いてみると、ジーパン1本分。それなら、俺はジーパンを買ってあげたいと、買ってあげた。それ以来、朝一番でホテルへやって来て、仕事がないときは彼の側にいるようになったそうだ。Wさんは帝國書院の世界地図を見せながら世界の旅の話をしてくれた。潜水爆破は難しい仕事だが金になる。金を貯めては世界への旅をしているのだそうだ。そして、キックボクシングを見ないかと誘ってくれた。日本料理店「新博多」で夕食をご馳走になり、会場へ。→「Ratchadamnoen Boxing Stadium」。初めてみるキックボクシング。リングの周りが背の高い金網で仕切られている。キックボクシングは賭け事。ゆえに大損などした向きが暴れ出すことを想定しているらしい。飲んだビール瓶が飛ぶかもしれないのだ。Wさんは日本の連絡先を書いてくれた後、空港までタクシーで送ってくれた。→手続きを済ませ、搭乗ゲートで待機する。とても不安。英語放送なんて聞き取れない。しかも蒸し蒸しする熱気。→目の前で、若く美しく白っぽいレースのようなワンピースを着た西洋人女性がストーンと倒れた。貧血だろうか。人が寄る。私は呆然。飛行機は無事に離陸した。一眠りした頃、深夜の窓から眺めると、あちらこちらでゆらゆら細い炎が上がっている。アブダビで給油。ドアーから軍服の作業員が入り込む。マニラよりも強烈な熱風が入り込む。あの細い炎は石油を掘り出す基地の炎だった。

0 件のコメント:

コメントを投稿